アトムの記憶
しのの のん
第1章:兄と妹と、嘘の扉
量子観測庁の観測ルームは、外気と隔絶された静寂に包まれていた。
床から天井まで真白な壁。壁面に浮かび上がるのは、時間と座標と、幾何学的なノイズを含む無数の光の軌跡。
どこか、病院の手術室にも似ていた。違いがあるとすれば、ここでは“死んだ過去”を手術するという点だった。
風見優真は、観測ユニットの前に立ち、深く息を吐いた。
眼前には、半透明の記録パネル。そこに映るのは、十年前に起きた交差点での衝突事故。依頼人は亡き夫の無実を証明したいと願い、観測申請を出したという。
映像が再生される。
午前九時三十四分二十秒。
映像は粒子のざわめきを伴って再構成される。光が広がり、車両の動き、信号の変化、歩行者の足取り、空の明るさまでが、リアルタイムに近い速度で展開されていく。
ユウマは映像の再生を一時停止し、画面の端に指を滑らせる。拡大。回転。光子の流れの解析。微細な変化が、証拠になる。
「見えるものだけが真実とは限らない。だが、見えなかったものは、存在しないのと同じだ。」
かつての上司の口癖が、ふいに頭をよぎった。
だが、それは本当に正しいのだろうか。
目の前の映像は完璧だ。風の流れさえ計測され、再現されている。だが、ユウマの心には、どこか引っかかる感覚が残った。違和感。そう、どこかが「綺麗すぎる」のだ。
音声は残っていない。衝突の瞬間、すべての音が一瞬にして吸い込まれたように途絶える。物理的なノイズではない。あれは、記録されていない“感情の沈黙”だった。
映像の保存を終え、ユウマは観測ユニットの電源を落とす。
そのときだった。
観測室の扉が開き、一人の女が姿を現した。
白衣に身を包み、どこか懐かしさを覚える顔立ちだった。目元は柔らかく、けれど奥に何かが潜んでいる。どこかで会ったことがあるような――だが、ユウマは記憶に自信が持てなかった。
「失礼します。風見優真さんですね?」
「……ああ。あなたは?」
女は、にこりと笑った。鏡のように表情だけが変化し、目はまったく動かなかった。
「私はノア。あなたに、ひとつの記録をご覧いただきたいと思って来ました。」
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