お腹の中の林檎

コウヤ

お腹の中の林檎

「いってらっしゃい」

「いってきます。七日(なのか)も気を付けて」

「うん」

夫を見送る。ガチャンと閉まったドアを見るのも慣れてきた。

「…私もそろそろ準備しなきゃ」

はぁ、とため息をつく。ため息をついたら幸せになれないし結婚できない、などと聞いたことがあるけれどそんなものは迷信だと証明してしまった。

しかし、実際幸せではないからあながち間違いでもないのだろうか。

「…」

無の感情のまま、軽くメイクをする。

自分の顔を嫌でも見てしまう時間。

自分はこんな虚無な表情をしていただろうか。

メイクを終えて、着替えて、戸締まりなどもチェックして。

「…いってきます」

誰もいない玄関に一応声をかけて、またこの家に帰ってこなければならないのか、と再び深いため息をついた。


別に彼に不満があるわけではない。

ただ退屈で、平々凡々としていて、そして何より

愛がない。愛していない。

かと言って刺激的な恋がしたいかと言われればそうというわけではない。

この感情は、「飽き」だ。

(だとしたら私って最低だな…)

電車に揺られながら思う。彼は、夫は、優しいし頭が良くて、話も合う。これ以上に何を求めようか。

「はぁ………」

またしても大きいため息が出て、周りの人がちらっと見る。見るなら見てくれ、こんなわがままな私を。

電車のアナウンスが鳴る。ドアが開く。

もうすぐ、私の1日が始まる。今日も。


・・・


「今日だっけ、新しい部長の人来るの」

「あっほんとじゃん!優しい人ならいいけどねぇ」

会社に到着すると、周りの社員が噂話をしていた。いつの時代でもこういう井戸端会議ってあるんだなぁ、と準備しながらぼやっと思う。

どうせ自分には関係ない。ただ上からの仕事をこなすだけだ。

しばらくして、朝礼が始まる前に本部長が来て彼を紹介する。彼が挨拶を始める。


「今日からこの部署で勤めさせていただきます、

富苗次嵩(とみなえつかさ)と申します!

皆さんと協力して支え合いながら仕事をしていきたいです。どうぞよろしくお願いいたします」


彼がお辞儀をすると、食い気味に拍手が響き渡った。女性社員が皆、盛り上がっているのだろう。

彼は20代の自分よりも若々しく見え、背格好もしっかりしている。ハンサムかどうかはわからないがいわゆる塩顔、だろう。キリッとしている目つきの奥は人のよさが滲み出ていた。

(こういうのがみんな好きなんだなぁ…)

俯瞰的に思う。確かに万人受けしそうな顔だ。

彼が顔を上げ、にこやかに周りを見渡す。

「さ、じゃあ朝礼始めちゃって!新部長さん!」

「はい!」

本部長が去っていって、新部長・富苗次嵩がその場を仕切っていった。


・・・


パソコンの乾いた硬い音が響く。

コピー機のオゾンの匂いが所々漂う中、淡々と業務をこなす。

私は意外と仕事が好きだ。

時間がゆっくり流れていく。家に帰る時間が刻々と迫ってくるのが懸念点だが。

「帆張(ほわり)さん」

声がしたので振り向くと、富苗だった。

「はい、なんでしょう」

「この資料なんですけど、ちょっと僕は見たことないものでして…」

「あ、あぁ、そうですよね。この部分は…」

ふわっと少し香る柔軟剤、なんだか懐かしい気持ちになった。

大学生の頃の恋愛。確か今の夫と出会った時も匂いの話で盛り上がったっけ。

調香師の本があって、「この人たちは鼻がおかしくならないのか」とか「いい匂いにするためには実は臭い成分を入れるといいらしいけど本当なのか実験したい」…とか。大学生にしてはなかなかレベルの高い会話をしていたなぁ、としみじみ思う。


「帆張さん?」

ハッとする。

「す、すみません。ここの部分でしたっけ、ええと」

「あ、ごめんなさいそこはさっき…」

「あれっ、あ、ああ違った、話してましたね、じゃあ次のページで…」


・・・


(ふぅ〜)

心の中で深いため息をつく。一度過去の事を思い出したらなんだか集中できなくて、午前の仕事はいつも以上に疲れてしまった。

(午後からは考えないようにしないと。帰る時が憂鬱になるし)

「はぁ〜」

なんで、こうなったんだろな。ポツリと胸に滲む。

あの時の方が幸せだったんだと実感する。あんな未熟で子供で、馬鹿な恋をしていた時の方が幸せだった。恋と愛は似て非なる、自分で客観的にそう納得した。


「大丈夫ですか?」

振り向くと、富苗さんがいた。心配そうに眉を下げてこちらを見ている。

「あ、富苗さん。大丈夫ですよ?」

少し微笑む。変に気を遣われるのは苦手だ。自分は心配されるほど疲れていないのに気遣われると、何だか申し訳なくなるからだ。

「そうですか…?午前中、帆張さんが仕事に熱中しすぎている気がして」

図星だ。ちらつく過去を振り払おうと、いつもはしないような仕事まで引き受けていた。

(よく人を見ている人だな)

苦手なタイプだ。

「そうですか?いつも通りですよ」

「そ、そうでしたか。すみません、僕の早とちりでしたね…けど今さっきため息をついていらっしゃったので少し気になりまして」

困ったように笑う富苗さんに、少しだけ胸が動いた。

(ああ、苦手だ)

「…お気遣いありがとうございます。たしかに少しだけ疲れたのかもしれません。…そろそろ休憩いただきますね」

貴重品を持って立ち上がる。

「あの、」

富苗さんが口を開く。


「休憩、ご一緒してもよろしいですか?」


人の良さそうな瞳が微笑んで薄くなる。


これが、私の【恋愛】の始まりだった。

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お腹の中の林檎 コウヤ @yunomi0301

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