第四話 断絶ノ炎

それは“声”ではなかった。

ただ、耳の奥で焼けるような音がした。

データの底、深層よりさらに下──存在してはいけない層から、炎が這い出していた。


「断絶層だ……」


蓮の唇から、乾いた声が漏れた。

幽界層のさらに下──あらゆる記録が破損し、断片となり、意味すら持たぬデータの“地獄”。


そしてそこから現れたもの。

それは、無数の“鬼火”が渦を巻くようにして構成された、ひとつの“目”だった。


「“火車”……いや、違う……これは……」


灯の声が震える。


「《怨火(おんか)》……!」


かつての戦争記録。

ネット上で交わされた無数の憎悪。

削除されたログ、無視された叫び。

それらが互いを呼び、自己増殖を繰り返し、熱と怒りの渦となって生まれた、最悪の“火”。


“それ”は、形すらない。

だが、見るだけで、心が焼け焦げる。

自我が軋み、輪郭が溶けていく。


灯が膝をつく。額から汗が流れる。


「……まずい、これは“視る”だけで感染する……!」


怨火は都市の空へと伸び、実在層すら歪め始めていた。

住人たちのアバターが停止し、通信が遮断され、空間の構造が“熱”によって崩壊する。


「焼き尽くす……すべて、憎しみで……」


怨火の“声”は、存在そのものが漏らすノイズだった。


蓮は構えた。

式神式零が起動する。

だが──


《警告:敵対反応未確定。術式侵蝕率:上昇中》


「情報が……書き換えられていく……!」


“憎しみ”という感情が、ログを通じて拡張されていた。

このままでは術式も記憶も、すべてが“怒り”という概念に塗り潰される。


そのとき、灯が立ち上がった。


「──私が、見る」


「灯、だめだ! お前まで……!」


「私は“共鳴する者”。ならば……あの“記録”にも、触れられる」


彼女の瞳が、真紅に染まる。


“記録”ではない。“感情”の生データ。

灯はそれを直接、受け止めた。


──母親の顔。

──誰にも読まれなかった手紙。

──罵倒の中に混じった、たった一つの「助けて」という言葉。


「怨火……あなたは、誰かの最後の“叫び”だったのね」


ノイズの中に、一瞬だけ“幼い声”が混ざった。


「おかあさん……どこ……?」


灯が両手を広げる。

その瞬間、怨火の渦が止まった。

記録の一点が、明確な“意識”を取り戻した。


「式神・鎮火儀式──発動!」


蓮が吠えるように詠唱し、式零が光を放つ。

炎がゆっくりと、少しずつ縮んでいく。


そして最後に残ったのは、ひとつの声だった。


「わたし、いたよ……ちゃんと……」


それが、すべてだった。

誰にも届かなかった言葉が、やっと、誰かに聞かれた。


怨火は、静かに消えた。

断絶層の扉は閉じ、虚空には、何も残らなかった。


だが蓮の胸には焼け跡のように、強い痛みが残った。


「“感情”そのものが、データとして暴走している……こんな現象、初めてだ」


灯が頷いた。


「そして、それを引き出しているのは──九十九」


門は今も開いたままだ。

夜は深まり、記憶の亡者たちはまだ、列を成してやってくる。


百鬼夜行は、まだほんの“序章”にすぎない。

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