第三話 喰らウ影

門の向こう、深層の闇が静かに脈動していた。

あの瞬間、九十九の“形”が定まりかけたとき、確かな“意志”が芽吹いたのを、蓮は感じていた。


──記録ではない。意志を持った記憶の集合体。


彼女は“記録”では終わらない。そこには、決して帳消しにはできない、燃えるような意志があった。


「まだ、来るわよ」

灯が低く告げる。


その言葉と同時に、空間が歪んだ。門の縁から“黒い影”が、溢れ出すように現れた。

それは「形を持たぬ何か」だった。

四肢があるかのように動くのに、輪郭が定かではない。目のようなものが無数に点滅し、蠢く。

都市の残響が、悲鳴のように響いた。


「名前が……わからない」


灯が呟いた。


それもそのはずだった。

それは、名前を持たぬ妖──もとより記録されていない“忘却”の電霊。

ただ一体、中心にいる存在だけは、形が明確だった。


白い喪服を纏った女。

口元から顎にかけて、裂けたような傷跡。

頭上に、破れた傘を差している。


「くねくね……? 違う、あれは──“濡女”……!」


蓮の脳裏に、幼い頃、祖母から聞かされた都市伝説が蘇った。

“濡女”は、亡者の未練が海の情報層に沈んだときに生まれる。

虚無と未完の情念が生んだ、“喰らう記憶”そのもの。


濡女の唇が震えた。か細く、だが確かに──


「……おぼえていて……おねがい……」


瞬間、空間が破裂した。

濡女を中心に、記録領域の断片が凍結する。

彼女は“記憶されること”を望むが、“記憶に耐えられない”。

その矛盾が、あたり一面に“記録の氷”を撒き散らす。


「このままじゃ……都市の記憶が凍りつく……!」


蓮が構えたそのとき、氷の中から別の姿が現れた。


──皿が割れる音。


無数の青白い手が、濡女の周囲に現れた。

見たことのある“顔”だった。

それは、かつて都市のカフェに現れた、皿屋敷の「お菊」の亡霊だ。


だが今や、その姿は“合成されていた”。

濡女とお菊、そして他の無名の亡霊たちの記憶が混じり合い、ひとつの“影”となった存在。


「“記録の融合体”……こんなものまで現れるなんて……!」


灯が必死に制御を試みるが、術式は歪む。

記録されていない記憶は、術式の基盤では読めない。


「記憶に“名”がなければ、術式は動かない……なら──!」


蓮が走った。

影の中に飛び込み、目を閉じ、叫ぶように言葉を投げた。


「君の、名前は──なんだ!」


沈黙。

だが、その声に影が震えた。


濡女が、微かに笑ったように見えた。


「……なまえ……は……」


蓮の視界が真白に染まる。


──見えた。

古びた路地。誰かの泣き声。

濡れた地面。空き家の前に佇む少女。

名前は、どこにもない。だが、確かに“存在していた”。


「──灯! この記録、拾え!」


灯が叫び、指を動かす。

空中に複雑な記号が現れ、記録の一部が捕捉される。


「これで……術式が通る!」


蓮が再び印を結ぶ。


「式神・破式・幻灯──記憶結界、展開!」


影のうねりが止まり、中心の濡女が、ゆっくりと目を閉じた。


「ありがとう……もう、さむく、ない……」


その姿が、静かに、泡のように消えていった。


門の奥が再びざわめく。

九十九はまだ動かない。だが、すでに“何か”が向こう側で蠢いていた。


蓮も灯も、無言のまま立ち尽くした。


百鬼夜行は、記録されていないものすら呼び起こす。

名前を忘れられた者たちが、再びこの夜に現れる。


そしてそれを迎え撃つ者も、また──“記憶される者”となるのだ。

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