第5話

 混じりけの無いすっきりした青空を、真っ白な泡をいくつもくっつけたような雲がふわふわと流れていく。伸び伸び育った木の枝の先に茂る葉は若々しい緑ばかりではなく、赤や黄色に色づいたものもある。

 そのうちの一枚が、風に煽られて今にも枝から落ちそうになっていた。

 ナギカはそれに狙いを定め、携えていた弓に矢をつがえて構えた。

 纏うのはレースやフリルがたっぷりの重いドレスではなく、動きやすさを重視したオリーブ色の装飾のないワンピースである。足元も踵の高いヒールから狩人めいた武骨なブーツに替わり、首の後ろで結うことが多い髪は後頭部の高い位置で一つにくくられ、秋のからりとした風が吹くたびにさわさわと踊った。

 どれだけ待っただろう。枝がひときわ大きくざわめき、葉がぷつりと落ちる。視線の先に葉が舞ったところで、ナギカも矢を放った。

 矢は風を切りながら一直線に葉の方へ飛んでいった――ように見えたが、途中で勢いを失い、へろへろとあやふやな軌道を描いて葉よりも先に力なく地面に落ちた。あとから追いついた葉が音もなく矢を覆うのが、妙に虚しい。

 あーもう、と悔しさが口をついて出た。

「また失敗した!」

「でも今までで一番惜しかったように見えましたわ」

 矢を拾おうとナギカが歩き出せば、傍らで矢筒を抱えていたビアナが後ろに従いながら励ましの言葉をくれる。ありがたい気遣いに礼を言いつつも、ナギカの表情はいま一つ晴れない。

「あのまま真っすぐ飛んでいったとしても射貫けなかったと思うわ。矢を放つのが早すぎた気がするもの」

「そうでしたの? 横で見ているぶんには佇まいも完璧でしたのに」

「見た目が良いだけじゃ意味が無いのよ」

 立っていた場所から矢が落ちたところまでは歩いて二十歩もない。想像以上に飛距離が出ていなかった現実に、思わず低く呻いてしまう。矢を拾い上げて再び弦につがえ、今度は先ほどまで自分がいた場所めがけて放ってみたが、風に乗ったのは一瞬だけですぐに不安定によろめいて落下した。

 ため息はこぼす寸前で飲みこむ。落ちこむのは今やるべきことではない。ナギカは頬にはらりと落ちてきた髪を耳に引っかけ、手にしたままだった弓を鼻息荒く握った。

「まだまだ練習しないと。ビアナ、悪いのだけどもう少し付き合ってくれる?」

「もちろんですわ。ですが適度に休憩も取りませんと、かえって体に悪うございます。昼食のあとからずっと練習詰めですもの。十分……いえ、五分でも構いませんから、水分補給などなさった方がよろしいのでは」

「大丈夫よ。だからもう少し――」

 続けたい、と言うより早く、ぐるると唸るような音が響いた。なんだ今のは、とナギカがビアナと目を合わせる間にももう一度鳴る。二人の視線はナギカの腹まで下がり、ビアナに苦笑されてナギカの頬が熱くなった。

「ちょうど木陰ですし、こちらで少々休憩いたしましょう。とても美味しいお茶とお菓子を用意しておりますの。お召し上がりになりますか?」

「……食べる」

 ナギカが提案をのんだことが嬉しかったのか、すぐにお持ちいたしますわ、と答えたビアナの表情は太陽のように晴れやかだった。


 時はひと月ほど前までさかのぼる。

 ダンドリオンと図書館で会った日の夜、ナギカは普段と同じように王宮の食堂で母と夕食を摂っていた。

 食堂には三十人以上が一斉に食事をとれる長いテーブルが置かれているが、席がすべて埋まることは滅多にない。父、母、ナギカの三人が上座の端をわずかに三席ぶん使うだけの日がほとんどで、今日は父が外出していて不在である。テーブルの長さと同じ幅の絵画には神話の一場面が壮大に描かれ、天井から吊るされた豪奢なシャンデリアが金の額縁や壁にかけられた鏡に反射し、室内が煌びやかな光で満ちているだけに、二人だけで食卓を囲むのは少々もったいなく、寂しさもあった。

「様子のおかしいカラス?」

 図書館での一件を話題に出すと、対面に座る母が怪訝そうに顎に手を添えた。

 母は海を渡った先にある同盟国の出身であり、こんがりとした茶色い肌と明け方の空に似た赤毛、ナギカと同じ若草色の瞳は祖国では一般的な特徴だという。張りのある肌は年齢を感じさせず、ぴんと背筋を伸ばして立つとナギカよりじゃっかん背が高いため、初めて会った相手にはナギカの姉かと勘違いされることもあるほど若々しい。

 ナギカはトマトがたっぷり使われた冷製スープを一口飲んでから「ええ」とうなずいた。スープには朝のうちに収穫された新鮮なトマトが使われ、一口飲めば濃厚で甘酸っぱい風味と隠し味に使われたニンニクの香りが鼻に抜けていく。彩りとして浮かべられた角切りのキュウリも瑞々しくぽりぽりと歯ごたえがある。

「なんだか黒い霧みたいなものがまとわりついていて、すごい勢いで図書館の方に飛んできたの。なにあれ、と思ってるうちにダンドリオンがなにか唱えて……」

「唱えた?」

「〈痺れろトルエノ〉って言ってた気がするわ。そのあとに高い音がして光って、焦げ臭いにおいもしたから雷が落ちたんじゃって一瞬思ったんだけど、ひょっとしたらダンドリオンがなにかしたのかも。杖から煙が出ていたもの」

 その場にヴェルニアがいなかったことを付け加えれば、母は「そうでしょうね」と納得したようにうなずいた。

「黒い靄がまとわりついたカラス……」

 母はひと口大に千切ったレタスと千切りのニンジン、スライスしたオリーブをレモン果汁で和えたサラダを咀嚼しながら目を閉じた。なにかしら考えをまとめている時の顔だ。

 数秒後、サラダを飲みこんで、母が再び口を開く。

「そのカラスは普通のカラスだった? 大きさとか、見た目とか」

「あまりちゃんと見たわけじゃないから断言できないけれど、とりあえず大きさも見た目も普通に飛んでるカラスと同じように見えたわ」

「……見た目が普通ってことは魔獣じゃないのかしら。魔獣だったら角があるから分かりやすいはずだし、そういう報告は無いものね。黒い霧みたいなものも虫が集まっていただけとか? 単にそれが鬱陶しくて逃げた先がナギカの方だった……?」

「母上?」

 ぼそぼそと呟く声がはっきり聞き取れない。ナギカの呼びかけに、母は我に返ったように顔を上げて「ちょっと気になることがあっただけ」と微笑んで首を横に振った。

「カラスって結構賢いから、芸を教えようと思えば教えられるのよ。だからもしかして、誰かがカラスに『ナギカを襲え』って教えたわけじゃないわよねって」

「あっ、それに近いことはダンドリオンも言ってたわ」

 ――だからこんな風に襲撃されても、姫さんを守れねえんだよ。

 ダンドリオンが「んじゃ僕、カラス回収して帰るわ」と図書館から出て行ってすぐ、入れ替わるようにエクトルが狼狽しながらナギカのもとへ走ってきた。カラスが突撃してきた挙句、それをダンドリオンが防いだことをすれ違いざまに本人から告げられたらしい。

 エクトルは床に額づかんばかりの勢いで己の不手際を詫び、二度と同じ過ちを犯さないと涙ながらに誓っていた。

 しかしナギカとしては、カラスは単に飛ぶ方向を間違っただけでは、と感じている。

「動物に芸を教えるのって簡単じゃないでしょう? 学校に通ってた頃、飼ってる犬に色々教えてるけど上手くいかないって友だちが言ってたもの。芸を仕込むのにどれだけの時間がかかるか知らないけれど、そんな暇があるなら直接襲いに来たほうが早いんじゃないかしら」

「あなたもそんな考え方が出来るようになったのね」

 母は娘の成長を喜ぶように頬を緩めて、でもね、と顔の横に人差し指を立ててくるくると空気をかき回した。

「動物なら仮に捕まっても人間と違って口を割ったりしないから、誰かに命令を受けていたとしても証拠が残りにくいのよ。それを狙って、手間暇かけて動物を手懐ける人も世の中にはいるの」

「……そこまでして、私を……」

 殺したいのだろうか、と続けた言葉はほとんど消え入りかけていた。

 神力をちゃんと使えるようになったとしても、ナギカはそれで幻獣を作るつもりなど毛頭ない。ヴェルニアたちゼクスト家の面々だってそうだ。彼らは新種の薬の開発や、薬ではどうにもならない怪我や病に悩む人々を神力で癒し、やましいことになど一切使っていない。

 自分もそうなれたらと、その一心で訓練に励んでいるのに。

 ナギカの呟きが耳に届いていたのか、母は痛ましそうに眉を寄せてフォークとナイフをテーブルに置いた。

「あなたを襲う人たちは、あなたを殺すつもりは無いんだと思うわ」

 母の予想を意外に感じて、ナギカは目を瞬いた。

「そうなの?」

「王族を殺せば反逆罪で投獄は免れないもの。処刑の確率も高いし、相手もそれは避けたいでしょう。だからあくまで、あなたに神力を使わせないようにするのが目的なんじゃないかしら。今は『神力を使い続ける限りお前を危ない目に遭わせるぞ』って脅してるだけね」

 過去に受けた圧力を振り返ってみれば、食事に盛られた毒は命を落とすほどのものではなかった。拉致未遂の犯人も、命を奪うつもりはなかったと供述していたと聞く。

「だから『神力を完全に封じます』って宣言すれば、最終的には襲撃も無くなるはず」

「神力を封じるって……そんなこと出来るの?」

「ゼクスト家でそれに近い効果がある薬は開発してるみたいよ。封じるというよりは一時的な無効化が正しいそうだけど」

 まあ襲撃が無くなるかはただの予想だけどね、と母は肩をすくめた。

 実際のところどうなのかは試してみなければ分からない。ナギカは拳に力をこめ、母の目を真っすぐに見据えた。

「でも私は神力を封じたくない。せっかく生まれ持った力なんだもの、誰かの助けになるような使い方をしたい」

 神力を封じれば身に及ぶ危険は遠ざかるかもしれない。けれどそれは力と向き合うことから逃げたのと同じだ。ヴェルニアのように力を自在に扱って、危険な使い方はしないと身をもって証明しなければ、周囲の人々を納得させることは出来ない。

 いや、どれだけ力を扱えるようになったとしても、危険視する目を完全に無くすことは難しいだろう。

 ――だとしても諦めたくない。

 力を正しく使えるようになって、いくつもの逆境を乗り越えて、そして。

 ――お兄さまに「よく頑張りましたね」って言ってもらえたら、どれだけ嬉しいかしら。

「諦めの悪さは私譲りねえ」

 母はどこか懐かしむような眼差しをこちらに注いでくる。両親は政略結婚で当初二人の間に愛は無かったそうだが、母がめげずに猛烈に想いを伝えた結果、やがて父も打ち解けたと何度も聞かされたことがあった。

「これからもあなたを狙う人はどんどん出てくるでしょうけど、やられっぱなしは嫌よね」

「当たり前!」

 威勢よく答えてから、それに、とナギカは声を潜めて母の方へ顔を寄せ、食堂の扉を横目で見やった。あの向こうではエクトルが待機している。

「エクトルには悪いけど、自分の身は自分で守らなきゃいけないかもってちょっと思ったりもしたし」

 もし図書館にダンドリオンが居合わせなければ、カラスは勢いのままに窓に激突してガラスを割り、それが原因で怪我をしていた恐れもある。咄嗟に神力で防御する手段もあるにはあるが、それが上手くいかなかった場合にそなえて別の方法で身も守るすべを一つくらい覚えておいても損はないはずだ。

 ナギカが意思を伝えれば、母は待ってましたとでも言いたげにニヤリと子どもっぽく笑った。


 木陰で涼みながらビアナを待っていると、彼女はとうのカゴを腕にぶら下げ、使用人を数人引き連れて戻ってきた。使用人たちは王宮から運んできたであろう椅子と机を手際よく並べ、ポットとティーカップも準備すると速やかに下がる。ナギカは彼らに礼を言いつつ椅子に腰かけた。

 ビアナが持参したカゴの中には、数種類のナッツをふんだんに使った丸い焼き菓子が入っていた。薄く砂糖をまぶした表面はサクサクで、食べればバターの甘さとナッツの香ばしさを舌いっぱいに広げながらほろりと崩れて溶けてしまう。ポットの紅茶には葡萄の葉か実が使われているようで、ほんのり酸味まじりの香りとさっぱりした味わいが焼き菓子によく合った。

「あなたも一緒に休憩しましょう、エクトル」

 以前の反省を踏まえて、エクトルはナギカのそばで常に気を張り詰めている。とはいえ少しは気を抜く時間も必要だろうと誘えば、「ナギカさまになにかあった時に対応出来なくなるといけませんので」と断られてしまった。

「それにしても、なぜ王妃陛下はナギカさまに弓矢をおすすめなさったのでしょう」

 木に立てかけられた弓と矢筒を見つめて、ビアナが不思議そうに紅茶のカップを傾ける。

「身を守るのでしたら短剣なども選択肢にありそうですのに」

「身を守るためっていうより、集中力を鍛えるのが目的だからよ」

 神力を扱うには集中力が大事だとヴェルニアに教わったが、ナギカはそれが疎かになりがちである。集中力を鍛えれば自ずと神力の精度も高まり、やがては不測の事態にも慌てずに身を守れるようになるはず、というのが母の見解だった。

 意思を伝えた翌日、母は図書館の近くにある平原のような庭にナギカを呼び出し、若い頃に使っていたという練習用の弓を意気揚々と渡してきた。

「母上の故郷では狩りが盛んで、母上も子どもの頃から弓矢を習っていて得意だったんですって。『的を狙うときに集中力を高められるし、神力を思った通り使う具体的な想像力も付くはず』って」

 多少の距離は必要だが、敵を遠くから狙えるのも利点だと語る母の目は輝いていた。

「最初にナギカさまに弓矢の指導をなさっていた時の王妃陛下、とても楽しそうでしたものね。昔より腕は落ちたと仰っていたけれど、矢を遠くまで飛ばしていて驚きましたもの」

「忘れたと思っていても、母上の体は矢を放つ感覚を覚えていたってことでしょう」

 矢をつがえた母の横顔は、ナギカがよく知る笑顔から獲物を見定める獣のそれに一変していた。母が放った矢はぶれることなく真っすぐに飛んでひらひらと舞う葉の中心を狂いなく射貫き、あまりの勢いに葉は真っ二つに割れた。

 その瞬間、ナギカの目指したいものも定まったのだ。

「私も母上くらい上達したいわ。試してみたいこともあるし。図書館でダンドリオンがカラスを撃ち落としたあと、杖から煙が出ていたでしょう」

「言われてみればそうですわね」

「お兄さまに聞いてみたんだけれど、ダンドリオンは手じゃなくて杖から神力を放ってるんですって。えーと、例えるなら――」

 ナギカは焼き菓子を一つ手に取り、両端を摘まんで力をこめた。焼き菓子はぱきりと音を立て、左側が少し大きくなるような形で割れる。

「これが手から神力を出してる私の状態。本当は真ん中で割るつもりだったけど失敗しちゃったわ。でもダンドリオンは、ナイフとかフォークとか道具を使って綺麗に割るの。その方が神力を安定して使えるんですって」

 神力を使う際になにごとか唱えていたのも、頭の中で思い描いたものを正確に形にするためのだそうだ。杖に神力をこめて溜まったぶんだけを放ち、言葉で想像力を強化するように扱い始めてから、ダンドリオンの神力は暴発する確率が減ったという。

「それと同じことを、私にも出来ないかと思って」

 ダンドリオンの真似をするのはいささか癪だが、神力の暴発を抑えた点は見習うべきである。神力が込められた矢が放たれた先でなんらかの効果を発揮するというのも不可能では無さそうだ。ナギカの考えに、ヴェルニアはいつもと同じ淡々とした表情で「そうですね」とうなずいてくれた。

 思いつきを肯定されて喜んだのもつかの間、「ただし」と続けたヴェルニアの声音は険しかった。

「『道具に神力をこめるのは簡単ではありません。カップに紅茶を注ぎすぎれば溢れるように、どんな道具であれ神力を無限に受け止められるわけではない』って注意されたけれど。力を込めすぎたら道具が壊れてしまうし、あと『殿下はまず道具に頼らない状態での神力の制御を習得すべきです』って怒られちゃった」

「まあ。ヴェルニアさまもなにもそんな言い方をなさらなくてもよろしいのに」

「いいのよ、お兄さまの言う通りだから」

 ビアナの非難にひらひらと手を振って、ナギカはカップの紅茶をすべて飲み干し、席を立って弓を掴んだ。

「でも神力をしっかり使えるようになったうえで、道具に力も込められれば、出来ることが増える気がするの。まだどっちも満足に出来てないのにって感じだけれど」

「誰でも最初は手探りで上手くいかないものですわ。ですがナギカさまはあくなき探究心と向上心をお持ちですもの。必ず実現できるに違いありません」

「ありがとう、そう言ってもらえると励みになるわ」

 生身であれなにかしら道具を使ってであれ、神力をしっかり制御出来るようになればヴェルニアはきっと褒めてくれるだろう。「よく頑張りましたね」と微笑みかけてもらえるならば、どんな練習も苦にはならない。

 焼き菓子と紅茶のおかげで疲労がいくらか和らいだ。練習を再開すべくぐるぐると肩を回しかけて、「……あ」とナギカは固まった。

「どうされましたの?」

「練習で思い出した。昨日の夜に母上から聞いたんだけど――」

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