王女は鎧を射抜けるか―彼方に集う獣たち―
小野寺かける
プロローグ
父が宰相、母が宮廷魔術師を務めているヴェルニアにとって、王宮は生家の次によく出入りする第二の家のようなものだった。とはいえ決して居心地がいいわけではない。物心つく前から母に連れられて何度も訪れている場所ではあるけれど、周囲の人々から向けられる視線に冷たく鋭いものが混ざっていると気づいてからは、出来るだけ長居したくない場所になってしまった。
十歳の誕生日を迎えた当日、ヴェルニアは一家そろって王宮へ足を運んでいたが、国王夫妻への挨拶を済ませた直後、両親をはじめとする大人たちの前からさり気なく逃げ出した。
――目が笑ってない大人たちに囲まれながら誕生日を祝われるなんて、全然嬉しくないし気持ち悪いだけだ。
王宮に張り巡らされた隠し通路やその出入り口は、ここで生まれ育った父が以前こっそり教えてくれたため知っている。それを使えば人目に触れることなく、静かで落ち着いた場所を目指せるはずだ。
ヴェルニアが到着したのは〝絵画の間〟と呼ばれる部屋である。歴代王族の肖像画や風景画、宗教画など大小さまざまな作品が飾られている中、ヴェルニアは異国の農村を描いた素朴な一枚の前で足を止めた。これを
「一人で抜け出すなんてずるいぞ、ルニ」
突然背後から声が聞こえ、びくりと肩が跳ねる。慌てて振り向けば、黒髪に紅の瞳をした男子がいたずらっぽく笑っていた。鏡で映したがごとく、彼が自分と全く同じ顔立ちをしているのは、血を分けた双子だからだ。二人を見分ける唯一の手掛かりは、首元を飾るネクタイの色が赤か青かくらいである。
「なんだ、リオンか。驚かせないでくれ」
「ルニが勝手に驚いたんだろ。僕はただ声をかけただけ」
不満もあらわに眉を寄せたヴェルニアに対し、弟のダンドリオンはちろりと赤い舌を出して肩をすくめるだけだった。反省している様子がまるで無い。文句をさらに連ねかけたところで、そんな場合ではないと頭を振った。
通路の入り口はヴェルニアの胸の高さにある。内部がどうなっているのか手で触ってみると、手のひらは一瞬で真っ黒になった。
「うわ、なにこれ」
ヴェルニアの手と隠し通路を見るなりそう声を上げて、ダンドリオンも穴の縁を指先でなぞる。汚れたそこに鼻を近づけて「変なにおいする」としかめ面をしていた。ヴェルニアは手巾で汚れを拭い、穴の中に顔を入れてみた。埃っぽくかび臭い。長時間嗅いでいると体に悪そうだ。
「ちょっと触っただけでかなり汚れたし、かなり長い間使われてなかったんだな」
「まあそうだろうけど、それよりこの穴なに? ルニが壊して開けたの?」
「そんなわけないだろ。父さんが教えてくれた秘密の通路」
話し込んでいる暇はない。今日ヴェルニアたちが王宮に来たのは、国王夫妻が二人の誕生日を祝うささやかな宴を開いてくれたからだ。二人はその宴から抜け出してきている。宴の主役がどこにもいないことに気づかれれば間違いなく騒ぎになるが、大人たちは子どもそっちのけで政治や国内外の情勢の話題に花を咲かせていた。
つまり意識がこちらに向けられていない今が絶好の機会なのだ。意を決し、ヴェルニアはこの日のために仕立てられた一張羅が汚れるのも構わず、穴の中に上半身を突っ込んだ。
「ちょっと待ってよルニ、どこ行くんだよ」
「周りに人がいなさそうで、なるべく静かなところ」弟の疑問に簡潔に答えながら、ヴェルニアはつま先でとんとんと通路を叩く。「どうする、お前も一緒に来る?」
ダンドリオンは好奇心旺盛でわんぱくの権化ともいえる。断るわけがないと分かった上での誘いだった。ヴェルニアの予想通り「行かないわけないじゃん」と笑って自分の後ろに続く衣擦れの音がする。間もなく通路が完全に真っ暗になったため、ダンドリオンは蓋代わりの絵画をぬかりなくもとに戻したらしい。
このまま進むのはいささか危険だろう。ヴェルニアが円を描くように宙で指を振れば、目線の高さに拳と同じ大きさの光の珠が現れた。
「おー、さすがルニ。いつの間にそんな技覚えたの」
「母さんの部屋にあった本読んで覚えただけ。簡単だったから教えてあげる」
「嬉しいけど、あとでね。まずは出口探そうよ。周りに人がいなさそうで静かなところだっけ、それどこ?」
「さあ。そんな場所があったらいいのになって思ってるだけ」
なんだそれ、と呆れ気味のダンドリオンを無視して、ヴェルニアは前方を見すえる。明かりを頼りにしばらく進めば、通路は立って歩ける高さになった。横に並べるだけの広さはどこまで行ってもなく、二人は一列になったまま道の分岐をいくつも乗り越えていく。ちょっとした冒険気分だ。
不意にどこからか風を感じた。耳をすませば風が隙間を通り抜けるかすかな音も聞こえる。二人はうなずきあい、はやる気持ちを抑えながらそちらに進んだ。通路は再び這いつくばらなければいけない高さになり、なかなか思うような速さを出せないのがもどかしい。
やがて風と音の発生源と思しき突き当りに到着した。光の珠を消せば、暗闇にぼんやりと四角い枠が浮かび上がる。向こう側から光が漏れているのだ。
ここが出口と予想して、ヴェルニアは四角の中心に両手を当てて力いっぱい押しこんだ。しかし長年使われていなかったせいで簡単に外れそうにない。ダンドリオンの力も借りながら根気よく押し続けると、ごと、と鈍い音とともに手ごたえを感じ、視界が白く染まった。
「外だ!」
ダンドリオンの嬉しそうな声で、ヴェルニアは予想が正しかったのを悟った。目がまだ明るさに慣れないなか「早く早く」と急かされ、転がるように外へ出るとざらりとした感触が手のひらに伝わる。驚いて手を引っこめそうになったが、落ち着いてよく見るとただの土だった。
二人は草木が豊かな場所に辿り着いていた。はるか遠くにレンガ造りの城壁が見えるため王宮の敷地内ではあるのだろう。季節の花々が互いの美しさを誇るように咲き乱れ、甘い蜜を求めて蝶や蜂がひらひら舞うさまは童話の一場面じみている。八角形の四阿は純白の柱と屋根が美しく輝き、それでいて花の観賞を邪魔しない控えめさがある。四阿のそばには大樹が寄り添い、枝葉をめいっぱい広げて太陽の恵みを受け止めていた。
「ここは庭園かな。王宮の裏あたりだっけ」
ヴェルニアは辺りを見回しながら立ち上がり、衣服に付いた埃を払った。隠し通路は想像以上に汚れていたようで、いくつかの汚れは手で叩いたところで落ちそうにない。ダンドリオンも同じように汚れを落とそうとしていたが、早々に諦め、上着の裾で手を拭っていた。
「多分そうじゃない? あっちの生垣の向こうには薬草園があるって叔父さんから聞いたことある」
「すごく広いんだな。隠し通路の一部には王宮の外に出られるものもあるって言われてたから、てっきりどこかの村にでも出ちゃったかと」
「そうだったら面白かったのに。そのまま家まで戻ってさ、帰ってきたお父さんとお母さんをびっくりさせるんだ。絶対楽しいよ」
「びっくりしたあとでものすごく怒るとも思うけどね」
両親の怒った顔はほとんど見たことが無い。それぞれどんな顔で叱ってくるのか想像して、二人はくすくすと肩を揺らした。
あちこちから聞こえる愛らしい
小鳥たちは何種類いるのだろう。鳴き声を聞き分けて探るべくヴェルニアは耳を傾けて、ふと違和感を覚えた。
ぴぴぴ、ちちち、と弾む声に、しくしくと人間の泣き声らしきものが混じっている。
「……あっちかな」
呟いてヴェルニアが四阿の方に一歩踏み出せば、ダンドリオンも不思議そうについてくる。
「どうしたの。なにかあった?」
「誰か泣いてる気がする。聞こえない?」
「んー……ああ、確かに。向こうの方から聞こえる気がする」
あそこ、とダンドリオンが四阿を指さす。意見が一致した。
なるべく静かに、けれど素早く二人はそちらへ走った。近づくにつれ泣き声がよりはっきりする。明らかに子どものものだ。
四阿に壁は一切ないため、中の様子がよく分かる。ゆえに誰もいないのは手前で判明し、それでも声が聞こえるのだから出所は別の場所だ。
二人は息を合わせ、大樹の裏に左右からそうっとまわりこんだ。足音に気づいて怯えたのか、声がぴたりと止む。
「誰かいるの?」
ヴェルニアの問いかけに、大樹の根元近くから「ぐすん」と洟をすする音が返される。そちらに視線を落とせば、珊瑚色のドレスに身を包んだ幼い女の子と目が合った。
まだ五歳にもなっていないだろうか、瑞々しい白い頬には涙のあとが残っている。緩く波打つ黒髪はほんのりと赤味がかり、若草色の丸い瞳は大きく見開かれて今にもこぼれ落ちそうだ。
「だ、だれ?」
かすれて弱々しい声から察するに、かなり長い間泣いたのだろう。女の子はヴェルニアとダンドリオンを交互に見比べ、同じ顔をした人間が二人いることに混乱したのか、瞳になみなみと涙を溜める。
「怖がらないで。大丈夫」威圧してしまわないよう、ヴェルニアは地面に膝をついて穏やかに言葉を紡ぐ。「俺はヴェルニア、そっちは弟のダンドリオン。散歩してたら泣いてる声が聞こえて、君を見つけたんだ。こんなところでなにしてたの?」
「……かくれんぼ……」
警戒しつつではあるが、女の子は嗚咽の合間に答えてくれた。
「そうなんだ。でも、一人で?」
「……サラと、ふたりで……でもなんか、ひとりに、なってて……」
「寂しくて、悲しかった?」
こくん、とうなずいて、女の子が膝を抱える。
さらに詳しく聞けば〝サラ〟とはどうやら彼女の世話係で、ヴェルニアたちより少し年上らしい。最初は楽しく遊んでいたけれど、隠れる場所を探している途中で蜂に追いかけられ、逃げるうちにいつの間にかここへ迷いこんでしまったと。
身なりから分かってはいたが、世話係もいるのだから貴い身分なのは間違いない。ヴェルニアとダンドリオンの誕生祝いの場には貴族も何組か出席していたし、その中の誰かに連れられてきたが、飽きて遊んでいたのかもしれない。王宮の外から誤って入り込んだ可能性も無くはないが、限りなく低いだろう。
このまま放っておくのは良心が痛む。サラの方も彼女を捜しているはずだ。ヴェルニアがダンドリオンと目を合わせれば、弟は心得たとばかりにうなずいて走り去る。きょとんとその背中を目で追う女の子に、ヴェルニアは手を差し伸べた。
「あいつはサラさんを呼びに行ってくれた。君は俺と一緒に王宮へ戻ろう」
「いっしょに? ……おこられたりしない?」
「どうかな、分からないけどその時はその時でちゃんと謝ればいい。俺も一緒にいてあげるから」
怒られる確率が高いのは俺たちの方だし、とは言わないでおく。
手を取っていいものか迷っているのか、女の子はヴェルニアの指を掴もうとしては動きを止める。焦らず、急かさず、じっと待っていると、やがて人差し指と中指をまとめてふんわり握られた。そのまま立つのを促して、気分が晴れるよう声をかけてやりつつ、よたよたと進む彼女の歩みに合わせながらヴェルニアは王宮まで戻った。
彼女が国王夫妻の一人娘――つまりヴェルニアたちの従妹だと知ったのは、両親から叱られる直前だった。
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