第六話 今度は女殴ってそうだった件

 晃誠が扉を開けると、ラーメン屋の店内は香ばしい醤油ダレの匂いが充満していた。


「色々とごめんね、奢りって言ってたけど返すからさ」


 ドラッグストアの小さなビニール袋をぶら下げて魅恋が言う。中身は携帯用ヘアブラシと湿布薬、絆創膏だ。

 魅恋が戸口を抜けるのを待ち、晃誠は押さえていた扉を静かに閉める。


「道ばたにうずくまってた女子から金はとれねえよ」

「マッチが全部売れたらちゃんと返せますぅ」

「おじさんが全部買ってあげるから」

「……マッチ売りの少女に対してそのキャラクターの投入は、けっきょく救いがなくない?」


 なんだかよくわからない流れの会話をしつつ食券を買う。

 晃誠はラーメンに餃子と半ライス。魅恋はラーメンだけだ。この店は魚介ダシの醤油である。


「別に遠慮はいらないんだぞ」

「んー、お腹は減ってるはずなんだけど緊張抜けたばっかりでまだ胃のあたりがこう……入りきるかわかんないし。さいわい口ん中は切れてないんだけど顎も若干痛い」


 席に着き、はあ、と魅恋がため息をつく。

 食券を切られ、料理が運ばれてくるまでしばらく沈黙が続いた。


「そろって仏頂面してちゃ美味しくないし、黙りこんでると周りにあんたがこれやったみたいに思われるかもしれないから、愚痴でも聞いてくれる?」


 湯気の上がるラーメンを前に魅恋が口を開く。頬に貼り付けたベージュの湿布の上から、氷水のコップを軽く当てている。額にも大きめの絆創膏が一枚。


「このうえ『女殴ってそう』とまで思われるのも不本意だし、かまわないぞ」

「なにそれ」


 コップを置くと、「いただきます」と箸を手に取りラーメンにとりつく魅恋。


「と言ってもねえ、まあお決まりのパターンなのよ。最初は優しかったのに、付き合うとだんだん人のことうるさく文句つけるようになってきて。チクチクチクチク嫌味みたいな、お前が言うなって話ばっかりでさ。さらにスマホまで監視して管理しようとするとか」

「なるほど」

「それでなんか言い返すと『そうやって人を傷つけるの楽しい?』とか『ひでえ』とか『それはダメだろ』とか『お前のそういうところ俺が注意してやってるんだけど?』とか。傷ついてるのはこっちだしひでえのもダメなのもあっちじゃない? 注意してんのあたしだし。あたしは話し合いがしたいのに、すぐ感情的になるしさ」

「それは男が悪いね」

「しかもこれが初めてじゃないの、あたし付き合う男は基本的にモラハラ束縛野郎だし、しまいには殴られたりもすんの。何度もそうなるってことはやっぱりあたしが悪いわけ?」

「そんなことないよ。じゃあ食えるようならこの餃子二つあげるね……」


 ここで魅恋はどんぶりから顔を上げた。


「ちゃんと聞いて! もっとあたしに興味持って! 餃子はありがと!」

「いやちゃんと聞いてはいるんだが、俺は嘘が苦手なタイプなんだよ。相手はもちろん知らん奴だし、お前のことだって噂くらいでしか知らないし。客観的に深掘りした感想が難しいから、こういう時は『全身が男性器でできている男』のエミュレートをするしかなくてな」


 正直に言ったのだが、魅恋はさらにヒートアップし、テーブルを叩く。正直は美徳とは限らないらしい。


「なにその妖怪。言っとくけどフリでもいいから他人に興味のある態度つくれないと、女の子相手じゃなくたって人間関係苦労するんだからね!? 俺は他人に興味ありませんアピールとか、それが嘘でも本当でもイタいだけなんだから!」

「それについてはぐうの音も出ねえ……」


 魅恋は両手で机を押さえつけるように力を入れ、唸る。


「あーもう、ドライブの道中で喧嘩になって、腹いせにサービスエリアに置き去りにするような男もいるし……!」

「むしろどこ探してたら見つかんだよ、そんなろくでもない男ばっかり」

「その辺にいっぱいいるから困ってんでしょお!? いい加減当たり引いてもよくない?」

「そんなのがその辺にいっぱいいるような世の中は男だって嫌なんだが……。あんまり言いたくないが、ちゃんとした奴はちゃんとしてる同士でマッチングするだろうから、軽率に動くと優良物件はなかなか回ってこないんじゃないか?」

「言いたくないなら言わなきゃいいでしょ。そういうのはいらない、もっとあたしを思いやって大事にしてくれる言葉が欲しいの」


 今度は晃誠の方が腕を組んで唸る。


「大前提としてろくでもない奴が百パーセント悪いのは確かだ。正直な気持ちを言わせて貰うなら、『お前さんはなんにも悪くないよ』と思ってはいるし、ろくでなしに対する義憤も当然ある」


 嘘ではない。柔らかい声色で言うと、魅恋がテーブルを軽く叩いた。


「そう、それでいいの。なんで先にそうやって気持ちを込めて言えないかなぁ」

「悪くないとは思ってるし、悪い男には腹も立つが、なんでわざわざ無警戒に毎回そんなのを選んでしまうかなあと思ってしまって、気持ちが少しだけ相殺されんだ」

「そういうのは思ってるだけでいいの」

「あ、はい」


(やられた奴も悪いみたいな言い方は、俺だって好きじゃないが……)


 いじめ問題などでも顕著だが、多人数に責められたり複数回にわたって繰り返すなどの事例は、『やられた側の落ち度』という被害者非難のバイアスがかかりやすいことは晃誠も聞いたことはある。

 第三者はもちろんのこと、被害者自身にもそのバイアスが及ぶことは珍しいことではないと。


 同時に、被害者側の抱える問題を、予防や解決のため非難にならないように指摘するということにも非常な困難が伴うだろうこともわかる。

 理屈では切り分けて考えるべき事柄だとわかっていても、言う側も言われる側もそう簡単には割り切れまい。


「どう考えたって、家の戸締まりがしてなかったら泥棒に入っていいってことにはならねえからな。もちろん自衛は大切だから、何も考えずに無防備無警戒でいいとまでは思わんが」

「理屈っぽいというか、けっきょく一言多くないと気が済まないタイプね、あんた……。こういう時は誰もそんな説教臭い話なんか求めてないのに」


 ため息をつきながら、魅恋は晃誠が皿ごとよせてやった餃子に箸をつける。


「確かに、どうも上手くないな。俺は余計なこと言わずに黙って聞いてた方がいいみたいだ」

「そうね、あたしも相槌以上のものを求めすぎたわ。せっかく愚痴を聞いてもらってたのに」


 魅恋も落ち着き、しばし両者黙り込んでしまう。

 二人の間に流れたその沈黙を破って、先に口を開いたのは魅恋だった。


「はー、男だの女だのに限らず暴力はよくないけど、男から女へのそれって子供の頃から社会的にも凄く忌避されてるわけじゃない? その上でなんで女を殴る男が跡を絶たないんだろうねえ」

「殴る男が異常者なのは前提として、その対象の女は主に二種類いると思う」

「あによ」


 咀嚼した餃子を飲み込み、身を乗り出してくる魅恋。


「自分よりレベルが下と思った女と、自分より上と思った女。本能的にそう判断する自分勝手な基準はいくつかあるだろうが」

「その心は」

「レベルが下と思った相手には動物にそうするように『しつけ』をして言うことをきかせるつもりで殴る。上の相手は高いところから自分以下のステージまで引きずり下ろして言うこと聞かせるために殴る。嫉妬もあるな。どっちにしろろくでもないが」

「殴られたからって言うこと聞くもんかなぁ」

「まあお前みたいにちゃんと逃げられる奴もいるさ。もっと言うなら単純暴力だけっていうのも稀だろうし」


 晃誠はそう言って水を一口飲み、続けた。


「実際、お前の相手だって暴力だけじゃなかったんだろ。衝突すれば被害者ぶってお前を責めたり、スマホを管理して束縛しようとしたり……きっと泣いて謝って愛を囁いたり、上から目線の説教もしてきただろ。押したり引いたり、肉体に訴えかけたと思ったら精神的に揺さぶってみたり、自分以外の人間と切り離そうとしたり。全部合わせて相手を支配する一種の洗脳なんだろDVって。この場合は家庭内じゃないからデートDVとか……『Dating Violence』でもDVか」


 晃誠は魅恋の目を真っ直ぐ見てはっきりと告げる。


「大丈夫。姫萩、お前はレベルが上だから殴られた方だよ」

「……言葉のボールが魔球過ぎて、慰めや褒め言葉として受け取っていいのかどうか凄く悩むんだけど。なんにも大丈夫じゃなくない?」

「直球のフォローのつもりだったんだが……」

「むしろボークなんだけど?」


 眉を苦くしかめつつ、魅恋は喉を震わせて笑った。


「しかしそんな目にあってるのに、よくもまあ俺についてきたな」

「さすがに出会いばなから悪い男だったら、いくらなんでも逃げるけど……。別にあんただって、いきなり今日ここであたしに何かするつもりはないでしょ」

「いや、いつどこでだって何かするつもりなんかないが……」


 さすがに心外すぎて晃誠は渋面をつくる。


「あとは、学校でのイメージと違うみたいだったから好奇心かな。わりと本気で心配してくれたでしょ」

「お互い様だ。俺もついさっきまでお前はもっと気難しいかキツい性格してると思ってた」

「なんでよ、あたしわりとどこでも愛想よくしてる方なんだけど?」

「だって去年の入学式が入学式だったし……」

「やめて、あれは忘れてよ!」


 晃誠の思い出話に、魅恋は両手で顔を覆って抗議の声を上げる。


 西東南高校では、昨年の入学式に登場したとある新入生女子に、多くの教師と生徒がざわめきを禁じ得なかった。


 限界近くまでブリーチした、陽の光に透けて輝く淡いイエローの髪の毛をなびかせ、グリッターギラギラ盛りの目を中心に、力強いメイク。ブラウスの胸元はネクタイもリボンもなくはだけ、ジャケットも着崩している。短いスカートで椅子に座る姿勢もだらしない。


 一人だけTPOを読めていない女生徒の姿に、みんな揃ってドン引きしたのである。

 その女生徒こそ誰あろう、姫萩魅恋、新一年生の姿であった。


「東京じゃどうかわからんけど、こっちじゃうち程度の高校でも、入学式初日からあれはないんだわ」

「うっうー……」


 忘れろと叫ぶ過去をほじくられ、魅恋が呻いた。


「あんただってお仲間だったでしょ?」

「俺はわかっててやってたし……」


 そう言いつつも晃誠は目をそらす。


 西東南高校にも制服の自由な解釈、節度あるレベルのメイクにヘアカラー、ピアスなどを楽しむ層は当然いる。

 ただし彼・彼女らも朝礼や式典の時などには言われずとも胸元もきちんと締め、制服をかっちり着こなして整然とした態度で出席する。時と場所を考えた身なりを選択し、そもそも学校の内と外、制服と私服でも振る舞いをまた使い分けていた。


 限度というものを常に考え、自律ができるから自由を認められているという自覚があるからだ。ゆえに、外れ者を見て「それでは我も、我も」と考えるような生徒はまずいない。

 モラルが一定の水準以上の集団では、腐ったみかんは伝染するよりも距離を置かれる傾向にあった。


 つまり、姫萩魅恋は東京からの出戻り高校入学初日にデビューで躓き、一年経った今でもどこか浮いた存在なのである。

 今でこそ彼女のスタイルは服装も化粧もだいぶ大人しめになり、そこまで目立つ方でもないのだが、第一印象が良くなかった。


「あんたよりは、あんたよりはマシだから! あんたなんか学校でぼっちだって知ってんだからね!?」

「俺は学校の外でだってろくすっぽ人付き合いはないぞ」

「思ってたよりひどい!」


 テーブルを掌でぱしぱし叩き、魅恋は晃誠に噛みついてくる。

 晃誠はどんぶりをかかえてラーメンスープを飲み、聞き流した。


「で、話は戻るが、結局そのモラハラ束縛DVフルコンボ彼氏とはどうするつもりなんだ? 俺が聞くことじゃないかもしれねえけど。警察とか?」


 ゲームのシナリオで言うのなら、まだ例の男とは関わってはいないようだ。むしろこの件が例の男と関わることに繋がっていったりするのではないだろうか。


 なんにせよ、他人事として考えると暴力事件であればまず警察事案ではある。警察署や交番で知り合いの警察官を呼んでもらい、紹介したっていい。


「ん~……経験上、頭が冷えたら下手に出てきそうな気もするけど……この際もう切るよ。吐き出したらなんだか一層あいつのことどうでもよくなってきたし。わりと冷めやすいのかな、あたしって」

「そんな扱い受けて冷めないのも、客観的にはどうかって話だが……荷物とかどうすんだ」


 言われて、魅恋は腰を軽く上げてズボンのポケットの中を探る仕草をした。


「アパートの合鍵あるから大丈夫だと思う。留守中を狙って取りに行って、鍵はドアの郵便受けに放り込む。そしてアプリで訣別のメッセージを送ったら速攻登録削除して……完全縁切りだよ!」


 威勢のいい魅恋の姿を眺め、少し考えてから晃誠はスマホを取り出す。


「連絡先の交換いいか? 嫌ならそっちに俺の番号いれておくだけでいい。トラブルでもあったらすぐに呼んでくれ」

「……話してる感じ、あんた別にあたしにそんな興味ないよね。なんでそこまですんの?」


 急にぐいぐい行きすぎたのか、魅恋が怪訝そうな上目遣いで見つめてくる。晃誠は「んー」と目を細めて思案する。

 ゲームのシナリオに沿うのであれば、このままいくと魅恋はトラブル解決に、少々どころでなくまずい男と関わり合いになるのかもしれないわけだが――。


(『記憶』のことなんて言えるわけもないしな……。思わず前のめりになっちまったが、そもそも俺がこいつに関わらなきゃいけないのかっていうのもある)


 ふと、さきほど路上で支えた時に感じた魅恋の体重を思い出す。――あの小さく震えていた華奢な手を、このままその辺に放り出す気には、今さらなれない。『記憶』のことがあればなおさらだ。

 仕方ねえよなと目を開く。


「乗りかかった船だし、なんか放っておいたら大事になりそうで気が咎める」

「あたしこういうのもう慣れてるし、そんな心配せずに放っといてくれて大丈夫だよ?」

「……そういうのは慣れてるっていわねえ、麻痺してるっていうんだ。男につら叩かれて逃げてきたとか、大丈夫なところなんか一つもない」

「うっ――」


 魅恋は観念したように画面のひび割れたスマホをとって顔の前に持ってくると、声の調子を明るく変える。


「まあ、あんたは下心とかあんまなさそうだし? 純粋なご厚意ならありがたく受け取っておきます。こういう時、他の男に頼るとけっきょく恩の押し貸しみたいなことになって、ズルズルと抜けられなくなったりするのよねー」

「どういう人生送ってきたんだよ。――ちなみにほとんどやったことないから、このアプリのID交換とか友だち登録ってよくわからないんだが」


 晃誠のメッセージアプリの登録者は家族とバイト先の関係者を除けば、疎遠になっている中学の同級生が数人程度だ。それも登録作業はだいたい相手にやってもらったのである。


「あんたはあんたで、今時その生き方は本当に大丈夫なの……?」


 結局テーブルの中央にスマホを持ち寄り、晃誠は魅恋に教わりながら登録作業を行う。


 そこでふと気がつく。


(考えてみたらこれ、俺が例の男の役どころに収まりつつあるのでは……?)

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