第31話「さよなら、善行ガール」

目覚めた瞬間、白い天井が視界に広がった。


「……あれ? 天国?」


「まだ地上よ。しぶとく生きてる」


聞き覚えのある軽い声が、ベッドの脇から聞こえた。ゆっくり顔を向けると、そこにはあの占い師が、病院のスツールに座って足を組んでいた。


「……えっ、なんでいるんですか……てか、ここどこ?」


「見ての通り、病院。倒れたのよ、あなた。会社のロビーで、パタッと」


「えっ、嘘……!」


身を起こそうとした途端、全身にズシリと鉛のような疲労がのしかかってきた。


「まだ起きなくていいって。三日も寝っぱなしだったんだから」


「さん……にち……!?」


「身体もメンタルも、限界だったのよ。わかってたくせに、走り続けてたもんね」


……限界。わかってた。


毎朝、目覚めた瞬間から「今日は誰かに親切にしなきゃ」「善行しなきゃ」「推しに会うなんてもってのほか」って、焦ってばかりだった。


「……あの、パラメーターは……?」


沙織は恐る恐る尋ねた。


占い師は指を一本立てて、口元にニヤリと笑みを浮かべた。


「今はね、《50/100》。安定してるわ」


「え……でも、倒れたのに? なんで?」


「呪い、今ちょっと停止中なの」


「停止?」


「うん。言うなれば、メンテナンスモードってやつ。強制的に休ませるためにね」


占い師は、おもむろにテーブルの水を取って一口飲んだ。


「……ただの体調管理アプリじゃないですか、それ」


「まあ、わかりやすく言えばね。でもね、この呪いの“本質”を理解した人間には、別の道もあるの」


沙織はまばたきを忘れた。


「べ、別の道?」


「そう。自分で選ぶ未来。善行も、他者とのつながりも、“やらされるもの”じゃなく、“やりたいからやるもの”になった時――その時、この呪いは、呪いじゃなくなるのよ」


それは、まるでおとぎ話みたいな話だった。だけど、妙に腑に落ちる。


「……じゃあ、わたし、どうしたらいいんですか?」


占い師は、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「もう、わたしが教えることはないわ。あとはあんた次第」


「え、無責任すぎません!?」


「じゃあ逆に聞くけど、どうなりたいの? “善行依存女”のままでいたい?」


ぐさりと刺さった。


「……嫌です」


「なら、考えなさい。あんた自身がどう生きたいか」


その言葉を残し、占い師はすっと立ち上がった。


「えっ、帰るんですか?」


「うん。システムは一時停止。けど、再起動するか、そのまま終わるかは、あんた次第。ちゃんと考えてね」


「ちょ、もうちょっと説明して――って、えっ、どこ行くんですか!? こらー!」


占い師はすでに病室のドアの向こう、スカートの裾をひらりとなびかせて去っていった。


「ほんっと、自由すぎる……」


ひとり残された病室で、沙織は深く息をついた。


窓の外は快晴。春の陽射しが、カーテン越しに差し込んでいる。


スマホを取り出し、恐る恐る数値を確認した。


《現在の数値:50/100》


「……ほんとに、止まってる」


どこか肩の力が抜けた気がした。


それと同時に、胸の奥に不思議な空洞感が残った。何かを終わらせてしまったような……でも、何かが始まりそうな。


(これから、どうすればいいんだろう)


いつもは“誰かのため”に善行を考えていた。けれど、今はまっさらな気持ちで、自分に問いかけている。


“わたしは、どうしたい?”


その答えはまだ見えない。でも、きっと――いや、きっと自分で見つけるしかない。


「……さよなら、善行ガール」


窓の外の空を見上げながら、沙織は小さくつぶやいた。

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