第23話 4th shot

 空気が、まだ歪んでいた。

 ノーアの姿は見えない。

 だが確かに“そこ”にいる。

 空間が音もなくきしみ、リクの肺に入った空気が、ほんのわずかに逆流する。


 その瞬間──


 背後から、空間がめくれた。

 裂け目のように開いた“影の縁”から、何かがリクの肩を弾いた。


「ぐっ──」


 刃でも衝撃でもない。

 “方向”そのものが狂ったような圧。

 肩の関節が逆にねじれ、肉が裂ける。

 次いで腹部に、別角度から“斜めの熱”が突き刺さった。

 反転構造の一撃──位置も角度も因果も無視した、空間ごとの殴打。


 リクの身体は、その瞬間、悲鳴を上げていた。


 そこにあったのは、もはや「敵の攻撃」ではなかった。

 空間そのものが、彼の存在を拒絶している。

 矢をつがえようとする手が震える。

 意識が霞む。


(……まだ……)


 ノーアの“気配”が、再び右側から迫る。

 次の瞬間、地面が反転した。

 靴裏が触れていた瓦礫が、急激に逆さに折れ曲がり、リクの膝が空中に押し上げられる。

 姿勢が崩れる──その隙を、ノーアは見逃さない。


 虚空から伸びた“見えない輪郭”が、リクの脚を掴もうと伸びてきた。


「……なめんなよ」


 反射的に、リクは体勢を崩しながら回避行動をとった。

 崩落するコンテナの影に隠れ、矢を再装填する。


 だがゼロの演算は、またも拒否を示した。


《補足軌道:不確定》《演算収束:不能》《必中成立条件──未充足》


 脳が焼けるような演算ノイズ。

 時間だけが、無慈悲に過ぎていく。


(ダメだ。このままじゃ、何も守れない)


 リクは歯を食いしばる。

 身体は限界を超えていた。

 肩は外れかけ、筋肉は数箇所で裂けている。

 内出血が熱を持ち、脈が同期しない。

 呼吸のリズムが狂い、視界の端が霞む。


 そして、それでも。


 彼は弓を構えた。


 そのとき、ゼロが反応する。


《条件一致:対象の偏移構造、閉塞可能》

《演算提案:第4階層スキル──“スプリットレイン”》

《代償選択:情動断絶──ブランクフィール》

《未来に感じるはずだった“ポジティブな感情”を演算体側に保存──使用者はそれを実感できなくなります》


「……感情、か」


 リクは呟いた。


 喜び。

 救えたという安堵。

 誰かに感謝されたときのあの暖かさ。


 ──全部、なくなる。


 この一撃で守れても、それを“感じられない”未来になる。


「……選ぶよ」


 静かに、確かに、リクは答えた。


《承認完了》

《スキル起動──“スプリットレイン”》


 ゼロが反応した瞬間、リクの視界に数十もの軌道が展開された。

 演算視界内で、狙撃ルートが“重なり”“分岐し”“拡散する”。


 一点狙いじゃない。

 回避経路をすべて“撃ち抜く”。

 避けることを不可能にする。


 スプリットレイン──弾幕型必中。


 スキル起動の瞬間、リクの全身に異常な熱が駆け巡った。

 矢を放つごとに、神経が焼けるような感覚が生まれる。

 演算負荷によって脳と神経が過剰に活性化され、筋肉が無意識に痙攣した。

 血管が浮き、右手の指先が痺れる。


 スプリットレインは、ただ撃つだけではなかった。

 身体の限界を、精密に、確実に超えていく。


 それでも、リクは放った。


 空間に光の矢線が走る。

 跳躍。

 交差。

 反転。


 ノーアの偏移先、移動経路、存在予測座標。

 それらすべてに“先回り”するように、矢が降り注いだ。


 ノーアが空間を裂こうとした瞬間、矢がそこにいた。

 反転座標に踏み出した瞬間、もう一つの矢が軌道上にいた。


 飽和した狙撃。

 それは、もはや回避の意味を消し去る雨だった。


 ノーアの身体が、初めて“ブレた”。


 空間演算の反転構造が追いつかない。

 観測できないはずの存在が、演算によって軌道ごと押しつぶされていく。


「……これが……確定……?」


 ノーアの声のようなノイズが、かすかに響いた。

 それは“理解できないもの”への絶望か、それとも──単なる興味だったのか。


 彼の存在は、ただ静かに崩れていった。


 見えないはずの輪郭が、震えた。

 偏移が追いつかない。

 空間が崩れ始める。


 その直後。

 ノーアのいた空間に、薄い“影の反転”が残った。

 観測不能な存在の消失痕。


 裂けた空間の断層が、じわじわと閉じていく。

 その裂け目の“向こう”には、誰もいなかった。


 ノーアは貫かれた。


 反転の存在。

 観測できない命。

 必中を無効化する論理。


 そのすべてが、雨に沈んだ。


 勝利の直後、リクは崩れ落ちた。

 矢を放った腕が動かない。

 全身の神経が、過負荷による“静寂”に包まれていた。


 だが、それ以上に。


 心が、何も感じていなかった。


(……勝ったよな?)


 リクはぼんやりと、空を見上げた。

 ノーアはいない。

 仲間たちの反応が、遠くに微かに聞こえる。


 でも、何も感じない。


 守ったはずだった。

 救ったはずだった。


 けれど、胸の中には“無”しかなかった。

 喜びも、達成感も、あたたかさも。

 本来なら、そこにあるはずの感情たちが──ごっそり抜け落ちていた。


 何かが心の奥で、凍りついた。

 感情の通るはずの道が、沈黙した。


《記録保存:ゼロログ・スプリットレイン発動時》

《情動保存先:演算体記録領域へ転送完了》


 ゼロの端末が、ただの事務処理のように表示を更新した。


《確認:対象リク=アルストリア 感情パラメータ:取得不能》

《保存完了──応答不要》


 そのログが、やけに静かだった。


 リクはそれを見て、ただ小さく息を吐いた。


「……そっちにやったんだな。俺の、喜び」


 足音が、遠くに聞こえた。


 誰かが、こちらに向かってきていた。

 ザイクか、リリエンか、イリアか。


 けれどその声は、耳には届かなかった。


 空は、どこまでも静かだった。


 その場に駆け寄る足音。

 ザイクか、リリエンか、誰かの叫びが混じっていた。

 だが、リクの耳には届かなかった。


 代わりに、彼の頬を一筋の涙が伝っていた。

 けれど、心はそれに反応しなかった。


 ただの水分反応。

 ただの生理現象。


 身体は生きている。

 だが、心がその場にいなかった。


 リクは、それをただ、受け入れた。

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