そのシュートがネットを揺らすまで、
汐音 -Shion-
第1話「転校生は、リングの先を見ていた」
6月の風は、少しだけ湿っていた。
制服の第一ボタンをゆるめ、如月陽翔(きさらぎ・はると)は松陽高校への坂道を上っていた。
右手に抱えているのは、使い込まれたバスケットボール。
朝の通学路でこれを持ち歩く生徒は他にいない。
目立つのは分かっていたけど、離せなかった。
「……早く着きすぎたかも」
時計を見ると、始業時間まではまだかなりある。
校門をくぐると、校舎の奥に見える体育館の屋根へ、自然と足が向かっていた。
ドアの隙間から中を覗くと、誰かがボールを打つ音が静かに響いていた。
女子バスケ部の朝練らしい。
無言でボールを拾い、何本もジャンプシュートを放つ一人の選手がいた。
「……フォーム、綺麗だな」
無駄のない動き、止まることのないリズム。
ただ、いくつかのシュートはわずかにリングに弾かれていた。
そのときだった。
「見てるなら、入ったときにして」
低く落ち着いた声が響き、陽翔はハッとして目を向けた。
さっきの選手が、こちらを見ていた。目が合う。
「……ごめん、うるさかった?」
「別に。見られるの、慣れてるし」
口調はそっけないのに、その目はほんの少しだけ、緊張していた。
陽翔は小さく頭を下げて、静かにその場を離れる。
その直後、彼女の放ったシュートが、
リングを通ってネットを揺らした。
その音だけが、体育館に残った。
「すみません、今日から来た方ですよね?」
体育館の外でボールを軽く転がしていると、制服姿の女の子が声をかけてきた。
「あ、うん。如月陽翔。2年です」
「やっぱり……私、佐倉いちかっていいます。1年で、男子バスケ部のマネージャーしてて」
彼女はぺこりと頭を下げた。
明るくて、どこか親しみやすい空気をまとっている。
「朝からボール持ってる先輩を見たら、つい気になっちゃって」
「そうなんですね」
「はいっ。あの、もしよかったら……体育館、ちょっとだけ見てみます? 誰も来てないので、少しくらいなら打っても大丈夫だと思います」
「いいの? ……じゃあ、お言葉に甘えて」
陽翔はボールを持ち直し、3ポイントラインの外に立った。
一呼吸置いて、ジャンプシュート。
シュッ——。
リングを通ったボールが、軽やかにネットを揺らす。
「……やっぱり。来てくれる気がしてました」
「え?」
「い、いえ、なんでもないです。放課後、よかったら練習見に来てください。見学、大歓迎なので!」
いちかはふわっと笑って、そそくさと校舎へ戻っていった。
陽翔は少し首を傾げながらも、その背を目で追っていた。
---
「転校生の如月くん、みんなよろしくね」
朝のホームルーム。
軽く頭を下げた陽翔に対して、クラスの空気は静かだった。
ざわめくこともなく、自然に彼の席が受け入れられる。
教室の一番後ろ、窓際の席には、朝に見かけたあの子がいた。
神谷みこと。
肘をつきながら、外の空をじっと見つめている。
その隣の席に座っていた男子が、ふと声をかけてきた。
「珍しいね、この時期の転校って。……あ、俺、早乙女修司。よろしく」
「よろしく」
「うん。ていうか、ボール持って登校してきたでしょ。バスケ部、入るんだよね?」
「え、バレてた?」
「見りゃ分かるでしょ」
そう言って修司は笑った。
---
昼休み。
購買で買ったパンを片手に教室へ戻る途中、
ふと窓際に座る彼女の姿が目に入った。
朝、コートでシュートを打っていた女子。
「朝、体育館にいたよね」
陽翔が声をかけると、みことがぴくりと反応した。
「……見てた?」
「少しだけ。フォーム、綺麗だったよ」
「そっちこそ、うまかったじゃん」
「ありがとう……って、それ、見てたの?」
「音でわかっただけ」
そっけない言葉。
けれど、その横顔がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
一瞬だけ視線が交わったとき、
彼女の目に浮かんだのは、どこか「認めるような光」だった。
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放課後の体育館には、すでに数人の部員が集まっていた。
入口のそばで、いちかが手を振る。
「おつかれさまです! あの、陽翔先輩、こっちです!」
「新入りって呼ばなくて助かった」
「ふふっ、言いませんよ、そんなの」
笑い合う二人の前に、がっしりした男子が手を挙げてきた。
「キャプテンの岸本海翔。2年。今日は見学でも体験でも、好きにしてくれていいぞ」
「2年の如月陽翔っす。よろしくです」
その後ろから、もう一人が歩いてくる。
「森直哉! 俺はA組だけど、よろしくな! ポジションはパワーフォワード!」
「宇佐美です、同じくA組でベンチだけど……声だけは出せます!」
「早乙女修司、2年B組で同じクラスな。ま、改めてよろしく」
軽く挨拶を交わしながら、キャプテンがボールを手渡してくる。
「軽く打ってみなよ」
「じゃあ……少しだけ」
陽翔はゆっくりと3ポイントラインの外に立ち、深呼吸。
ジャンプシュート——
シュッ。
リングを通ったボールが、綺麗にネットを揺らす。
「……マジかよ」
思わずもれる、部員たちの声。
修司がにやっと笑った。
「期待の転校生って感じだな」
「いやいや、たまたまだから」
「明日さ、午後から練習試合あるんだ。出てみる?」
陽翔は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。
「……うん、やってみたいっす」
再び放たれたボールが、ネットを揺らす。
その音は、静かな体育館の空気を少しだけ熱くした。
——そのシュートがネットを揺らすまで、物語はまだ、はじまったばかりだった。
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