アポクリファ、その種の傾向と対策【ある高層タワーの一室】

七海ポルカ

第1話




「ライル~~~~~~~~~~~~~っ」





 気持ちのいい眠りを妨げられて、ライル・ガードナーは「……んだよ……」という小さい呟きと共に、茶髪を掻き上げた。

 


「ライル~~~~~~~~~~~~! 飛行機がもうつくよー!」



 ……俺が思うに、俺はこんなにいい男なのにどこぞのシザ・ファルネジアのように「この世には貴方だけ」などとこっ恥ずかしいことを言ってやってもいいと思う相手にまだ出会っていないのは、昨夜最高だと思ってた女の部分が、一晩寝るともう朝には忌々しく思うように変わるからなんじゃないだろうか。



(昨夜はあんなに可愛かった声が

 朝には俺を叩き起こす)



 つーか昨日あんだけ感じてたくせになんで平気で俺より早く起きてんだ。

 俺より体力あんじゃねーか? 

 ライルは犬みたいに人を呼ぶ声がまだするのにうんざりした。

 イライラして来そうなので、一服しようと思ってサイドテーブルに寝たまま手を伸ばすと絶対そこに置いた煙草が無い。

 数秒探って手をバンバンとサイドテーブルに押し当てたが絶対どこにもない。


 むかついてついに上半身をベッドの上で起こすと、手なんか届かない遥か向こうの窓辺に、煙草と灰皿があって、【グレーター・アルテミス】首都ギルガメシュの湾岸高層地帯にそびえ立つタワーマンションというどれだけ天に近いんだよという住居の窓辺で、朝から騒がしい街の様子をクソガキのようにうきうきと煙草を吸いながら眺めていた女の姿がすぐに思い浮かんで、更にライル・ガードナーの怒りを煽る。


 あいついつからこんなにゴシップ好きになりやがったんだ。


 どうせ数日でかい仕事もないだろうから、久しぶりにうちに来いよなんて誘った時はシザ・ファルネジアの「シ」の字もユラ・エンデの「ユ」の字も少しも口にも素振りも出して来なくて、最近その話題ばかりですっかり飽きていたライルはさすがハイソなバレエダンサーは出来が違うなんて思ったというのに。


 男の置いた物の場所を勝手にいちいち変える女も最悪だ。


 あと今となってはこんな無駄に広い寝室も腹立つ。


 ライルは【グレーター・アルテミス】に来るまでロクな街にいなかったし、なんならロクな所にも住んでなかった。自信を持って「わたくしロクな暮らしをして来ませんでした!」と胸を張って言い切れるし、もっと言うと相当治安の悪い街の警官をしていた為、暇さえあれば呼び出されていたから、ほぼそのロクな場所でもない家にもほとんど帰ってなかった。

 

 ライルにとって【グレーター・アルテミス】に来るまで最高の寝床は自分の愛車であり、あそこなら女がどこをどう動かそうと手を伸ばせば全てのものに手が届いた。


 腹立つ。


 これほど腕の伸びるアポクリファ能力が欲しくなった朝はない。



 ぼふ! と煙草は諦めてライルは仰向けにもう一度寝た。

 何となく見上げた高い寝室の天井に不審な染みを見つけて、なんであんな高い所に染みが付くんだろうなどと考えている自分に気付いたら、もうそろそろ疲れてるんだなと思うべきである。


 特別捜査官ってのは有給休暇認められてるんだったかと考えたが、元々人使いの荒い仕事にこき使われるのに慣れていて、思わずそこの契約内容確認するのを忘れていた、と気付く。

 しかし【アポクリファ・リーグ】の特別捜査官は何でも正式な所属は天下の【ゾディアックユニオン】月研究所だというから、申請すれば月にも行けると聞いた。

 申請すれば月にすら行ける奴が、申請して有給取れないはずがないと彼は考える。


 よし。休暇を取ってこの知らない間に高いとこに変な染みがつくタワーマンションのある街から久しぶりに脱出してやる。


 どうせこの四カ月、世間どころか世界中を騒がし続けてきた相棒は、当分また自主謹慎なんて楽しい状態なんだ。なんで俺だけこき使われて雷撃で愛車を感電破壊されたり今腰痛めてるから地面にいちいち叩きつけるなと文句を言われたり近頃の若者は礼儀がなってねえとかランキング底辺の奴から説教されたり超音波で耳キーン! ってしなきゃなんねえんだよ。


 ――ライルは一言も喋らず、そこまで考えた。


 彼はあまり自分では怒りっぽくない人間だとは思っているが、

 実はかなり、イライラしやすい性格をしている自覚はあった。

 ただ、それを内に飲み込んで外には出さないくらいの芸当は簡単に出来るのである。


 つまりライルが激怒するなど余程のことが無い限り発生しないことだが、

 苛つき自体は日常的に多発しているわけである。


 もぞ……、とすぐそばで何かが動いた。


 一頭のイグアナがベッドの上にいて、寝そべるライルの伸ばした腕に顎の部分を乗せていた。目を閉じてそのままになっている。


 俺が多分こいつらを妙に好きなのは、こいつらの持つこの独特の大らかなテンポが、本来イライラしやすいこの俺の気分を、見てると落ち着かせるからだろうと分析する。


 なんでそこで寝んだよ。


 ライルは苦笑して、絶妙なポジション見つけたみたいにそこで活動を停止したイグアナを、腕は動かさず手の甲だけ動かして皮膚を撫でてやった。

 特に反応がないが、気持ち良さそうに顎を乗せたままになっている。


 ――かわいいやつだなあ。


 朝っぱらから騒がないし、

 大切な煙草の位置も動かさないし、

 なんとなく時々色がちょっとだけ違うように見えるし、

 あと今気づいたがあの高いとこの染みってもしかしてうちで飼ってるお前らとなんか関係あんの?



「ライル~~~~~~~~~!」



 女が入って来て、ぼふー! とか寝てる身体に飛び乗って来た。

 うわ。なんてウザい女なんだ。腹立つ。


「もぉ~~~~~~~~っ! 起きてよぉ~!」

 もう飛行機着いちゃうわよ!」


「…………着いたらなんなのよ……」


「ユラ・エンデが【グレーター・アルテミス】に戻って来るよ。

 シザと感動の再会! 見ないの?」


 女がベッドを揺らすからイグアナが目を開き、またいいポジションを求めて旅に出始めてしまった。

 

「ってきゃあああああああ! ライル! イグアナケージから出てるじゃない!」


「そら出たい時もあるだろ……お前だってずっと部屋にいなさいって言われてずっと素直にいるか?」

「やめてよぉ! もう! 寝室にはヘビとかイグアナ入れないでってば! あんたどういう神経してるとベッドでこんなトゲトゲしい生き物と寝れんの⁉」

「久しぶりの休みに人をゆっくり寝かせねえお前に神経のこと言われたくねえよ……」

「もっとフワフワした可愛いの飼いなさいよ! なんで爬虫類⁉」


 出会い頭にこんなに無礼な態度を取られても奴らはいたって平常心だ。温和だなあ。

 俺はこの世にイグアナみてーな女がいたら結婚考えるわ。


「ライル、飛行機ついちゃうってば、もお!」


「おまえ……逆になんで俺があの二人の再会をウキウキ見ると思ったんだよ」

「えっ、見ないの?」

「見ねーよ。興味ねえもん」

「相棒が折角四カ月も会えなかった恋人に会えるんだよ? 見たいかと思って」


 なんで見たいかと思うのかが謎だ。

 だが、今分かった。

 このド畜生、悪気はねえんだな。


「……ごめん……全然キョーミない……」


 ライルが大きく欠伸をして、伸びをする。

 彼に跨って起こそうと揺すっていた女は手を止めた。


「なんだ。勘違いしちゃってた。ごめんね、起こしちゃって」


 ライルは目を閉じて片眉だけ動かして返事をする。

「街、すごい騒ぎよ」

「……んー、煙草取って」

「そんなとこで吸ったら火事になるわよ」

 女が呆れた声を響かせる。

 やっと邪魔な重みが上からどいた。


「ライル~! イグアナ歩き回ってるってば! どうにかしてよお願いだから!」


「ごめんどうにもなんない……」


 もぉ~、と女は戻って来て、火をつけた状態の煙草を持って来た。

 ライルに手渡してくれるが、彼はもう一度手を伸ばす。

「灰皿もー」

 気が利かねえ女じゃないんだが、完璧じゃないんだよな、こいつ。

「もー! 起きなさいよライル」

 女に言われたからじゃないが、灰をベッドに落したくなくて、ライルは仕方なく身を起こした。

 立ち上がろうとして、足に昨日女が脱ぎっぱなしにした下着が絡みついて、苛ついてぞんざいに放り投げる。

 脱がした時は最高だったのに朝になればあんなもん単なる邪魔でしかない。

 ローブを軽く羽織ってリビングのソファに移動し、窓辺の灰皿をテーブルの上に確保すると、ソファに再び横になる。

 女は自分で用意した朝食を持って来ると、珈琲を淹れながらテレビの前に陣取る。

「んなもん客間のテレビで見ろよ……」

「ほらー! 見て見て! シザもう空港についてる!」


 可愛い顔して俺を無視だ。いい度胸してやがる。

 それなら俺も無視だ。


 ライルは丁度ソファの側のテーブルの下あたりにゆっくりとした足取りでやって来たイグアナをひょいと持ち上げ、仰向けになった自分の体の上に乗せる。

 可愛いもので、一撃でそこから動かなくなった。


「やだもぉ、なんかドキドキして来ちゃった。シザってどんな顔であの子と再会すると思う?」

 なんでお前がドキドキするんだよ。

「わざわざ空港に迎えに行くなんて、あいつほんと変わってるよな……。」

「えー? 私はユラ君嬉しいと思うけど」

「ラヴァトンホテルで待ってりゃいいじゃん。あいつの家あそこの最上階なんだし。

 あんなとこで再会してもメディアいすぎて全然イチャつけねえ。

 だったら家で再会した方が再会した途端に四カ月ぶりのセックス出来てそっちの方が最高だと思うんだが」


「キャーッ! なに言ってんのよ! ライル! ばか!」


 ライルがそう言った途端、女は両頬を両手で顔を押さえて赤面した。

「ちょっと待て。なんだよお前その反応は。見たことねえぞお前がそんな仕草すんの」

 性行為なんてまだしたことないわ聞くのも恥ずかしいみたいな反応に見えて、ライルは半眼になる。


「やめてよ! あの二人のそういう所思わず想像しちゃうじゃない!」

「想像しちゃうも何も……俺はあいつらヤってるとこ見たことあっからなー」

「そうなの⁉」

 女が身を乗り出してソファの側にやって来る。

 この女とはなかなかの付き合いだが、史上初くらいの食いつきだった。

「なんであんたがそんなの見ることになったのよ」

「いや……下らない理由が色々重なって……だってなんかシザ見てると疑わしかったんだよ。ホントにやることやってんのかコイツらって。デートすんのにもいちいち浮かれてるしさー。こんな騒動起きる前から、ユラに会えないと苛々してるかと思えば電話が通じるだけで満面の笑みになるし、付き合いたての高校生みたいな感じ出すから。恋人だとか言っときながら絶対キスもまともにしてねえタイプの奴だろこいつって思って証拠撮ろうと思って盗撮ぶちかましてやったらちゃんとやることやってたわ。妙に安心した」


「きゃーっ! ヤダ! そうなの⁉ じゃあほんとにほんとに、この二人ってホントの恋人同士なのね⁉」

「逆になんだと思ってたんだよ……お前あのインタビューも見たんだろ」

「見た! シザ・ファルネジアがユラ・エンデ好きなのは伝わって来たけど、肉体関係があるようには確かに見えないのよね。むしろそういうの、これからなのかなあって感じ。あんたが疑った理由もまあ分からなくもないわ」

「あれのどこがただの弟を心配する兄貴の顔なんだよ……。完全にどこからどう見ても恋人を奪われた男の顔してただろ」

「してた。素敵だった~♡ なんていうの? ……ええと、何ていうのかしら……そう、貴方流に言うと『そいつに手を出したらタダじゃ済まさねえぞ』って感じの顔?」

 女が明るい声で笑っている。

 ライルは肩を竦めた。


「あれシザ・ファルネジアの素だぜ。メディア用じゃない。あいつ普段も俺がユラのこと下手に聞こうとするとああいう殺し屋みたいな目することある」

「きゃーっ♡ 素敵だわ」


 キャーじゃねえよ。

 誰だこいつを雪のように繊細で清楚なプリマドンナとか書いてた奴は。


「そうなの。ほんとに恋仲でもあるんだ。シザは根は情熱家って感じするけど、ユラ・エンデがそういう性欲に溺れる顔するのは本当に想像出来ない。特に普段は本当にまだ幼い感じするもの。今十六歳だっけ? 普段見た目よりもっと幼く見える。ピアノを弾いてる時は違う顔も見せるけど」


「まー、ほとんどの場合あれはユラがシザに惚れるっつうより『懐いてる』っていう表現の方が近いからな」

「懐いてる、ね。うふふ……それなら何となくわかる。

 ――というかライル! 盗撮映像とか持っててもあんた絶対迂闊に流すんじゃないわよ!」

 彼は吹き出す。

「いやあれはとっくに破棄してる。どーしたの。クールなあんたらしくもない」

「だって可哀想じゃない。ユラ・エンデ」

 ライルは女の方を見た。

 女は彼の方を見ず、ソファの端に座ったままテレビを食い入るように見ている。


 画面には恋人との四カ月ぶりの再会を、落ち着かない様子で待っているシザが映し出されていた。


「プルゼニ公国での逮捕、見たのよ。映像で。

 私なら最高の公演のあとあんな風に捕まって、兄と寝てる女だなんて公表されて恥辱を与えられたら死んでるわ」


 くわぁ、とライルの身体の上でイグアナが欠伸をするような表情を見せた。

 ライルはイグアナを床に下ろしてやる。日向の方にゆっくりと歩いて行った。


 女はテルミナ王国の有名バレエ団に所属するバレエダンサーだった。


 テルミナ王宮歌劇団は芸術の国として名高いその国でも特に有名な名門だ。

 格も実力も世界中で知られている。

 女はそこで主役をやるような実力者だったので本来なら「ゴミ溜めのような街」と揶揄されるアンタルヤ共和国オルトロスの元警官であるライルとは、遭遇する可能性すらないほどの相手だった。

 それが奇跡的に遭遇したのは勿論訳がある。

 要するに、奇跡的なほど下らなく醜い理由が。


 選ばれた人間が立つ場所というものは、要するに人間を選ぶ。

 女は元々は、選ばれる人間ではなかったがそれでも才能で選ばれた。

 それで、相当な多くの嫉妬を買ったのである。

 女がオルトロスに現われた理由は、その嫉妬だった。

 つまり、そうなるよう陥れられたのだ。


 ライルは治安の悪いオルトロスの中でも、犯罪に関わって無い人間の方が珍しいような、特に無法地帯と呼ばれる場所で彼女に初めて出会った。

 素性を聞いた時に悪気なく、「なんであんたみたいなのがこんな街にいるの?」と吹き出して笑ってしまったほどだ。


 女も分からないと弱々しい顔で笑っているうちに、泣き出したのだ。


 ライルの過ごす世界では、そういうことは特に珍しいことではなかった。

 だがその時のこの女にとっては、他人の身体や心に人生を狂わせるほどの傷を与えることは、そうなる瞬間までは、それほど信じられないことだったのだ。そんな酷いことをする人間はいるまいと。

 閉鎖的な団体の内部で行われる陰湿な嫌がらせなどと、

 例えば人身売買のような本当の犯罪は別だ、と女はその日まで信じていた。


 ちなみに孤児であり、十代で犯罪都市オルトロスの警官になったライルは、

「陰湿な嫌がらせや苛めを出来る神経の奴は人身売買や売春斡旋も充分出来る。根本の腐れ具合は同じだ」と考えているので、そうなっても何の驚きもない。


 あとで聞いたことだが、女は貴族やらサラブレッドやらが多いテルミナ王宮歌劇団の中では、出自は並以下らしい。

 要するに、普通の出身である。

 だがそこは普通の出身を恥じさせるような世界なのだ。

 それでも女には才があったから潰されずにデビューまで至った。

 並大抵の相手や攻撃では潰されるような女ではなかったが、相手が犯罪すら厭わないなら、全く話は違って来る。


「【グレーター・アルテミス】公演も配信されたでしょ。貴方も見た?」


「うん。あれは実際に現場で聞いた。現場っつうか……アリーナで。

 シザが聞きに行きてぇって言ったんだよ。

 中継も入ってたから別に家でテレビで優雅に見りゃいいのに。

 会えなくても、会場入れなくても漏れて来る音だけでもいいから聞きてえとか言いやがるから」

「そうだったの」

「あいつがそうしたいと思ったこと自体は全く理解出来ねえとまでは言わないけどな。

 けど俺なら絶対同じことはしたいと思わねえわ。むしろゆっくり部屋で満喫する」

 女は笑った。

「私もどっちかというと貴方と同じだけど。

 でも、会うことを禁じられた相手なら私も少しでも近くに行ったかも」

「へぇ。初耳」


「あの日の演奏、……すごかったわね」


 ライルは腕を伸ばし、灰皿に灰を落した。

「まあね。俺もさほどああいうジャンルは詳しいってわけじゃないけど。

 オケとかならちっとは聞いたことあるから。

 聞き終わった後驚いたよ。『俺って黙って二時間以上もピアノだけの演奏聞いていられる奴だったのかよ』って」


 女はもう一度笑った。らしいと思ったのだろう。

 女はバレリーナだったが、ライルは一度も彼女の舞台は見に来たことがない。

 出会いも全くバレエは関係ない場所で会った男だったから。

 本当はどの公演も、ライルが来れば席は用意しているのに、興味がないのだろう。


 別に趣味のことなのでそんなことで嫌いにはならないが「待ってるのに」などと言ってやるのも腹が立つので、そのことは彼には一度も言ったことがない。秘密にしている。

 いつか「暇だったから見に来た」なんて理由でもいいからこいつ訪ねて来ないかしら、とは思っているのだが、今の所芸術に淡泊なライルはそういう素振りを見せたことが無い。

 ただ、時折音楽に関わる女に惹かれている所は見ているので、全く興味が無いわけではないとは思っているのだが。


「そうなの」


 空港にユラ・エンデが到着したとレポーターが慌てて叫んでいる。


 画面が切り替わり、ラウンジで時を待っていたシザが、一緒に来たアイザック・ネレスと何か少し言葉を交わし、一人で場所を移動した。


 ラウンジで待てばいいのに。ライルは呆れた。

 国境ゲートまで迎えに行くんだろう。

 アリア・グラーツはこの展開に浮かれているだろうが、こういう時にあの女の指示に大人しく従うようなシザ・ファルネジアではない。

 だから、これは多分シザが自分で望んでそうしてることなのだ。


 

 通常勤務の範囲内の一斉検挙である時、見知った顔が映ってる写真を見つけた。

 全くの偶然だったが、胸糞が悪くなるような写真だったので、その家の住人を捕まえ尋問してネガも映像も全部押収し、いわゆるオルトロス流のやり方で、もし今後同じ写真が世に出た時はお前を殺しに行くと脅し、そう出来るようになる手段を相手に加えて(要するに両足使えなくなりゃもう自由に逃げられねえな、という発想である)、その取り戻したものが全部手元にあるから、仕事さぼってんなら取りに来いと女に連絡を取り、ゴミ溜めの街に呼び寄せたことがある。


『よく来たね』


 内外に暴力的な街と言われることを勲章にしているようなオルトロスの警官は当然、こんな街に務めて奮闘するなんて、なんて立派で勇敢なんだなどとは言われない。

 オルトロスの警官のやり方は多分、他の街で同じことをやったら犯罪者側に近いんじゃないかというほど荒っぽいことで知られていた。


 女も当然、いくら出会いは保護されたからといってそんなとこから連絡が来れば、そいつだって同じ強請り方をするに違いないと考えたわけである。


 ライルはそんなことは見抜いていた。

 

 本当に多忙で面倒臭く、かといってこんなもんを当人に郵便で送りつけるほどクズじゃないというだけだ。一定時間取りに来ないなら燃やして処分するつもりだった。

 だが女は自分の足でやって来たのだ。

 ――最後のプライドを纏って、近づきたくもないだろう街にたった一人で。

 ライルが女を気に入ったのはこの時だった。

 

 あんた勇気あるよとライルが笑えば、女は「酷いことはされるかされないかだ」と答えた。

 一度されれば二度も三度も同じ。

 ライルは今でもあの時そう言って、自分を怒りで睨み上げてきたこの女の顔が、見せた表情の中で一番美しかったと思って気に入っている。

 

 これを返すだけだ、あと夕飯食ってないからそれだけは奢れとたかった時、女が見せたきょとんとした顔は二番目に可愛かった。


『これってオルトロス流なの?』


 自分に暴行を加えた男が与えられた処置を聞いた時、女は手際の良さに首を傾げて聞いて来た。

『お気に召さなかった? 気に入らないならライル流も出来るけど』

『ライル流はもう少し上品?』

 その世界に染み込もうとして、出会った時は綺麗な身辺だった彼女に、酒だの煙草だの性行為だの、悪い遊びを全部教えたのはライルだ。

 だけど自分から押し付けたことはない。

 知らないことが多すぎた、過去の自分のバカさに腹が立つと女が知りたがったのだ。

 ライルは望んだ女に、望み通り願いを叶えてやっただけである。


『いや。もっと酷い』


 ライルは笑った。


『アポクリファなんだよ。俺。いつもは規律に従ってこんなもん持って撃って仕事なんかしてるけど、実の所自分の力を使った方がずっとすんごい景色作れる』


『……どんな景色?』


『銃なんか、たかだか相手に穴開けるだけでしょ』


 ライルはひやり、と氷色の瞳を細めて笑った。

 それから突然大きな殴打音を立て、カウンターテーブルに拳を叩きつけた。

 女の両肩が思わず跳ねるのと重なり、その衝撃に置いてあったグラスが倒れ、中身が零れる。



『――――俺なら叩き潰せる。』



 女はそれから、時折オルトロスに現われるようになった。


 テルミナ王宮歌劇団ではメディアにもファンにも、一国の王女のようにちやほやされる存在になっていったのに、結局ライルがオルトロスを去るまで、時々訪ねて来て肉体関係を持つという生活は変わらなかった。


 そういえば目の前の女がそういう事情を抱えた女だということを、何故か自分は長い間忘れていた気がするとライルは思った。多分女からすると、ライルがそういう男だったから気に入ったのだろうが。



 ……シザ・ファルネジアは常日頃から、影を纏っている男である。



 そういえばユラ・エンデもまだあまり話したことはないが、見かける姿からは酷い過去を持つ少年という事情を驚くほど感じさせない。

 臆病だったり不安そうだったり、彼が何故そういう人格になって行ったのかは、決して過去と無関係としては語れないものだ。


 それでも前同僚の部屋で見たことのあるユラ・エンデの写真からはこの女同様、今やその過去の何も彼に影響を及ぼすことは出来ない、そう思えるような明るさがあった。


 だからといって、

 鮮烈に与えられた傷は、

 例え傷痕が見える形で消えたとしても、

 何かの拍子に身を包み込むことはある。


 傷をつけられたら、

 傷がなかった時とは、必ず違う自分になる。

 同じものには二度と戻ることは出来ない。


 近くに公演に来ていることを知って、別に何にも考えず、声を掛けただけだったのだが、

 多忙なはずのこの女がそういえば妙にあっさり訪ねて来たと、ライルはその時ふと気付いた。【グレーター・アルテミス】は歌劇場などの設備が非常に優れていると聞いているから、名のあるバレエダンサーであるこの女はそんな理由で街を見に来る気になったのかと。


 女は自分が何の落ち度もなく、人の醜い悪意によって闇の底に落されたことがあるため、

 実力社会で弱みを見せる人間が大嫌いだった。

 

 ユラ・エンデの不安げで、兄の庇護がなければ数時間で死んでしまいそうなあの儚げな気配は、ライルが分析するこの女の性格からは、毛嫌いする分類に入るのではないかと思ったのだが、そうではないらしい。


 人は元々の性格でそうなっている者もいるが、

 他人に捻じ曲げられた運命の中で、

 生きる為に必死に傲慢や冷酷な人格を演じている人間もいるのだ。


 弱みを見せないように、あるいは弱い人間だと思われないように、わざと高圧的な人間を演じている。

 この二つは外から見ると同じように見えるが中身は実は、大きく違う。

 演じることは、疲れるのだ。



「……なんかあった?」



 夢を見るような表情で画面に映し出された、ただ最愛の人間の帰りをひたすらじっと待っているシザの姿を、頬杖を突きながら眺めていた女が驚いたようにこっちを振り返る。

 女は途端に表情を崩すと、泣きながらソファに寝そべるライルの許に歩いて来て、先ほどのイグアナと同じように腹這いに彼の身体の上に乗って来た。


 煙草を持ってるから危ないのに容赦なくライルの首に腕を巻き付けて来るから、彼は苦笑して煙草ごと、灰皿に捨てた。

 片腕を女の身体に回して、抱きしめてやる。


 私なら死んでいた、と珍しくそんな暗いことを久しぶりに言った女が、

 ユラ・エンデの【グレーター・アルテミス】公演に深く感銘を受けた理由など、確かに女からすれば「野郎が勝手に考えて気付け」だ。



「いいのよ。結婚なんて。別にしなくたって幸せになれるもの」



 ――これはなんか、良からぬことを言われたんだなあ。さては。


 身体に刻まれた過去の闇は不意に、牙を剝く。


 女にはシザの強い怒りが分かる。

 殺した意味も。

 望んだ意味も。


 何故ならその闇がまだこの世に存在するなら、

 いつまた自分の許にやって来るか分からない。

 その恐怖はきっと、未来の光も霞ませる。


 だが、完全にその闇が消え去ったなら、

 不意に痛みを思い出しても、悪夢なのだと、思い込むことは出来る。

 今は違うのだと。

 せめてそう思うことは出来る。


「……いい男よね」


「あのさぁ……俺に抱きつきながら相棒の方、男として誉めんのやめてくんない?」


 ライルが嫌がると、身体の上で泣いていた女が吹き出して笑った。


 怒ったり泣いたり笑ったり、忙しい女だな。

 芸術家ってのはやはり独特の感情表現をしてくるから、

 見ててなかなか面白い。

 動物に例えるなら、芸術家は完全に爬虫類や猛禽類だとライルは思っている。


 テレビを見上げる。


 立ちすくんで動けなくなったユラ・エンデを見た瞬間シザはあっさりと、法によって禁じられたはずの国境ゲートを飛び越えて駆けて行った。


 あーあ。何やっちゃってんの。いまノグラント連邦捜査局の連中いたら確実にシザ・ファルネジア逮捕出来んじゃん。


 ライルは呆れたが、まあそれこそユラ・エンデが目の前にいるのに黙って逮捕連行されるような男ではなかったことを思い出す。


 シザの左手がユラの指先に触れた。


 シザ・ファルネジアはよく【復讐】のカードだと言われる。

 どんな強敵に遭遇しても、一撃与えられれば必ずそれ以上の痛みを相手に叩き込んで来る。


 ライルからすれば、

 あれは【怒り】のカードだ。


 表にあからさまには出て来ないが側にいるとシザという人間は、時折無性に怒っていることがあった。

 その中に、何故か彼自身に向いたようなものが見えることがあるから、ライルはさっさと自首して自由を早く勝ち取れ、などとつい言ってしまうのだ。


 何の迷いもなく何度だって、あの場所に戻ったらユラ・エンデを脅かした養父を殺してやると鮮烈に叫んでも、シザは時々人を殺せる自分の能力を、激しく憎んでいるんじゃないかと思わせるようなことがあるから。


(でもさぁ、考えてもみなよ。力が無い方がずっと後悔するでしょ)


 力が無いなら自分だろうが大切な人間だろうが、苦しめられた時に何も出来ない。

 守ってもやれない。それがどう考えても一番最悪だ。


 シザは犯した罪の為に【グレーター・アルテミス】に今は運命を封じ込められているが、

 力が無かったらユラ・エンデの運命は今も、その悪しき人間の手の中に握られていたはずだ。


 そんなことは決して肯定出来なかったはずである。


 だから力は、無いよりある方がずっといい。



(――俺もあんたも、所詮、力を持った人間。

   どう使うかなんて、

   一番最初から一番最後まで、俺たちが決めていいに決まってんだろ?)



 シザ・ファルネジアが完全に恋人に対しての抱擁で、

 ユラを自分の腕の中に抱きしめる。



【グレーター・アルテミス】の街は歓喜に湧きかえった。




 ――ほんとに、面白い街だよな。




【終】

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