💋「新編 江戸の夢魔の夜」越後長岡藩から逃走した藩医山崎清忠は山中で夢魔に出会った。
🌸モンテ✿クリスト🌸
逃走編
第1話 山崎清忠の逃走、越後長岡藩
《脱走》
越後長岡藩の城下、信濃川の冷たい流れが響く秋の夜。寛永14年(1637年)10月、山崎清忠(28歳)は、牧野忠成の居城を遠く見上げる丘に佇んでいた。侍医として忠成に仕える彼の瞳には、かつての忠義と、今の絶望が交錯していた。城の灯火は、まるで彼を嘲るように揺れていた。
清忠は、三河国牛久保で牧野成定に仕えた医師の家に生まれた。三代にわたり牧野氏に忠誠を尽くし、漢方の『黄帝内経』を読み込み、戦場医療の外科技術を習得した高位の侍医だった。長岡藩に移った忠成に近侍し、藩主一家の健康を支え、家臣団の傷病に助言を与えた。剣術も鍛え、牧野氏の家訓「常在戦場」を体現する清忠は、忠成の信頼を得ていた――少なくとも、そう信じていた。
忠成が命じた信濃川の治水工事で、清忠は負傷した家臣を救ったことがある。堤防工事中、岩に潰された家臣の腕を切断し、艾と当帰を煎じた漢方で命を繋いだ。忠成は清忠の手当てを褒め、褒美に銀子を与えた。あの笑顔が、今は遠い記憶だった。
寛永14年6月、藩は暗い波に飲み込まれた。忠成の異母弟、牧野秀成が古志郡椿沢村の椿沢寺で暗殺された。温厚で人望厚い秀成は、一部の家臣に担がれ、忠成の激しい性格と対比されていた。清忠は秀成の主治医として、彼の咳を抑える漢方を調合し、夜遅くまで対話を重ねた。秀成の穏やかな笑顔が、清忠の心に刻まれていた。
「秀成様の体は回復傾向だった。あの夜、何者が寺に忍び込んだのか…」
清忠は親しい家臣、根岸藤左衛門に疑念を漏らした。秀成の死に忠成派の陰謀を感じていたのだ。だが、この言葉は藤左衛門の裏切りで重臣・小笠原忠右衛門の耳に入る。忠右衛門は忠成の腹心で、騒動を抑えるため過剰な警戒心を抱いていた。
6月22日、さらなる悲劇が訪れた。忠成の嫡子・光成が急死した。24歳の若さで、原因不明の病とされたが、城下では「秀成の怨霊」の噂が囁かれた。光成の死は後継問題を引き起こし、忠成派と、与板候・三根山候を擁する反忠成派の対立が表面化。お家騒動の火種がくすぶる中、清忠は忠成派の標的となった。
10月初旬、忠右衛門の召喚を受けた清忠は、城の奥座敷で裁定を告げられた。
「山崎清忠、秀成暗殺に疑念を抱き、藩の結束を乱した罪により、侍医の地位を剥奪し、切腹を申し付ける」
清忠は無実を訴えた。「私は医者として秀成様を診たのみ。忠成様への忠義に変わりはない!」
だが、忠成の激昂する声が響く。「黙れ、清忠! そなたの言葉は毒だ。藩の安寧を乱す者を生かしておけぬ!」
清忠には後ろ盾がなかった。両親は幼少時に疫病で亡くし、藩内に有力な親族はいない。孤立無援の彼は、椿沢寺に幽閉された。寺の土蔵に閉じ込められ、冷たい板敷に座る清忠の脳裏には、父の言葉が甦った。
「医は命を救う道。いかなる時も、その志を捨てるな」
幽閉三日目の夜、清忠は決意した。「このまま死ねば、山崎家の名は汚れる。生きて、医の道を貫く。江戸で町医者として再起するのだ」
土蔵の裏に続く竹林の監視が緩いことを見抜いていた彼は、夜半、板戸の隙間に短刀を差し込み、静かに外した。雪がちらつく闇の中、革袋に傷薬と漢方薬、わずかな銭を詰め、清忠は寺を後にした。目指すは江戸、信濃経由の険しい道程だった。
《椿沢寺の脱出》
寛永14年10月25日の丑三つ時、椿沢寺の裏手は静寂に包まれていた。清忠は土蔵の板戸を外し、足音を殺して竹林へ滑り込んだ。雪が薄く積もり、足跡を隠すため、彼は岩や倒木の上を慎重に踏んだ。背後で遠吠えが響き、追っ手の気配が漂う。寺の僧が夜回りをする前に逃げ切らねばならなかった。
清忠は侍の装束を捨て、事前に隠していた粗末な綿入れと頭巾に着替えた。腰には短刀、肩には革袋を担ぐ。月明かりが雪に反射し、わずかに道を照らした。十日町へ向かう山道を選び、追跡を避けるため脇道を進む。冷たい風が頬を切り、指先は凍てついたが、彼は止まらなかった。
竹林を抜けると、信濃川の支流が凍り始めた川面が見えた。清忠は川沿いの獣道を選び、雪に足を取られながら進んだ。心には、秀成の最後の言葉が響く。「清忠、そなたの薬は私の命を延ばした。感謝するよ」 その信頼を裏切られた今、彼は自らの道を切り開くしかなかった。
十日町に近づく頃、雪は本降りとなり、道は泥濘と化した。清忠の心には、忠成への忠義と裏切られた怒りが交錯していた。
「忠成様、私はただ医として真実を求めただけだ。なぜ、こうも簡単に切り捨てるのか…」
だが、立ち止まる余裕はない。彼は革袋を握りしめ、医者としての再起を誓った。
《十日町での偽装》
十日町にたどり着いたのは翌朝だった。市場の喧騒に紛れ、清忠は商人から傷薬と干し飯を購入した。医者として身分を偽るため、薬草の知識を活かし、「旅の医者」を装う。
「この傷薬、戦傷にも効く。欲しければ銭を出せ」と商人に言い、粗末な外套を買い足した。商人との会話で、清忠は知識をさりげなく示した。「この薬は、艾と当帰を煎じたもの。傷口の化膿を防ぐ」と説明し、怪しまれぬよう振る舞った。
町の茶屋で耳にした噂が彼を焦らせた。「椿沢寺から侍が逃げ出したそうだ。忠成様の逆鱗に触れたらしいぞ」
追っ手が動いている。清忠は茶屋の主に道を尋ね、信濃の飯山へ向かうルートを確認した。清水峠を越える道は冬の厳しさで知られ、商人すら避ける険路だったが、追跡を振り切るには最適だった。
茶屋を出る際、老婆が清忠に小さな護符を手渡した。「これを持ちな、山の神が守ってくれるよ」 老婆の目は、清忠の偽装を見透かしているようだった。清忠は礼を言い、護符を懐にしまった。後に、この護符が彼の心を支えることになる。
《清水峠の試練》
清水峠への道は、岩と雪に覆われた急斜面だった。昼間は人目を避け、夜間に星を頼りに進んだ。たいまつを使えば追っ手に発見される恐れがあった。清忠は木の枝を杖代わりにし、雪をかき分けて登る。凍える手で革袋を握り、父の教えを思い出した。
「医は心を静め、命を繋ぐ術。どんな試練も耐え抜け」
治水工事の冬を思い出す。あの時、清忠は凍傷に苦しむ家臣たちに漢方を煎じ、忠成の笑顔を見た。「清忠、そなたの手は命を救う」と褒められた記憶が、今は虚しく響く。「あの忠成様はどこへ行ったのか…」
峠の頂近くで、吹雪が襲った。視界は白く閉ざされ、道標は雪に埋もれている。清忠の足は膝まで雪に沈み、革袋の重さが肩に食い込んだ。寒さで意識が朦朧とし、幻聴が聞こえる。
「清忠、戻れ…忠成様がお許しになるぞ…」
それは藤左衛門の声だった。彼は首を振って幻を払う。
「裏切り者め! 私は生きる。医として生きるのだ!」
凍傷を防ぐため、両手を擦り合わせ、息を吹きかけて温める。星が見えぬ中、彼は飯山への下り道を模索した。だが、疲労と寒さは容赦なく彼を蝕み、足元がふらつく。
「ここで倒れるわけにはいかぬ。山崎家の名にかけて…」
清忠は短刀を握り、雪に突き刺して体を支え、護符を握りしめた。「山の神よ、私に道を示してください」
《野沢温泉への迷走》
清水峠を越えた清忠だったが、飯山へ下る途中で道を見失った。雪は膝を越え、木々の間を抜ける風が彼の体温を奪った。雲が星を隠し、方向感覚は完全に失われた。野沢温泉近くの山中に迷い込んだ彼は、ただ足を動かし続けるしかなかった。
革袋の傷薬は凍りつき、短刀を握る手は感覚を失いかけていた。清忠の脳裏には、戦場で傷ついた家臣を救った記憶が浮かぶ。あの兵は、腹を斬られながらも清忠の薬で一命を取り留めた。「ならば、私も生きねばならぬ」
傷薬の瓶を握り、医者としての使命を思い出す。だが、力は尽きかけ、膝が雪に沈む。体温が奪われ、意識が遠のく中、父の姿を幻視した。「清忠、進め。医の道は終わらぬ」 幻は消え、冷たい現実が彼を包む。
「このままでは凍死する…せめて、一夜の休息を…」
ふと、視界の端に揺らめく明かりが見えた。遠くの谷間に、人家の灯火が雪に映えていた。清忠の胸に希望が灯る。凍死の危機を逃れるため、彼は最後の力を振り絞り、明かりを目指した。
雪に滑り、岩に足を打ちつけながら進む。血が滲む足を引きずり、革袋を落とさぬよう抱え込む。灯火が近づくにつれ、煙突から上がる煙が見えた。木造の家屋が雪の中に浮かび上がり、屋根には厚い雪が積もっていた。
「誰かがいる…生き延びられる…」
清忠は凍えた手を伸ばし、人家の戸を叩いた。鈍い音が響き、彼の意識は一瞬途切れそうになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます