2――1
『――そうして姉が暗い部屋のなかに引きこもって文字を紡いでいると、玄関のほうからがちゃがちゃがちゃと音がして、ドアが開く気配がした。
「たっだいまー」
という無駄にでかくて無遠慮な声が、雨戸もカーテンも閉め切って外界との関りを限りなくゼロに近づけたこの空間にまで遠慮なく聞こえてくる。
「……」
姉は椅子に座って机に向かっている体勢のまま顔をしかめた。
声の正体は確かめなくてもわかっていた。わが妹のことながら、なんて声を出しているのだろう。近所迷惑とか考えないのだろうか。
「あーもう疲れた。やってらんね。ねむい。はらへった。お姉ー」
続けざまに繰り出される妹の声を聞いて、姉はますます顔をしかめる。
なんて幼稚なことを言っているのだろう。とてもあと一か月で高校生になろうという人間の発言とは思えない。
「お姉ー、いるんでしょ? どこよ」
「……」
呼ばれているようだけど無視をする。
小説を書くという行為には百パーセントに近いほどの集中力を要するのだ。妹などにかまけている余裕はなかった。
姉はキーボードを叩き続ける。
設備投資と称してお年玉を奮発して買った、ちょっとお高めのキーボード。文字を打つたびにかたかたと軽快な音が鳴る。
しかしその音と裏腹に、そのリズムは決して軽快とは言えなかった。
「……はあ」
ため息をひとつ。その眼には疲労の色がにじんでいる。
キーを叩いて文字を打って、止まって、バックスペースキーで文字を消す。
キーを叩いて文字を打って、止まって、バックスペースキーで文字を消す。
さっきからそんな感じで肝心のストーリーはちっとも進んでくれず、そんなことを繰り返していたら応募したい文学賞の締め切りはいつの間にか来週にまで迫っている。ついこの間までまだ二か月もあったというのに。時間というものはどうしてこう……こうなのだろう。性格が悪いというか意地が悪いというか、たまにはこちらの味方になってくれてもいいのにというか。
バックスペース。
「お姉ってば、無視すんな」
妹の声は一直線にこの部屋まで向かってきて、ドアが勢いよく、ばあん、と開かれる。
姉はしかめる、を通り越して苦虫を嚙み潰した表情になる。
最悪だ。また足で蹴飛ばしてドアを開けたのだ。両手が塞がっているというのならともかく(それでもだめだけど)、なぜ何の理由もなくそんな真似ができるのだろう。今時小学生だってもっとお行儀がいい。
「ほらいた、やっぱりね」
自分の傍若無人なふるまいをを反省するどころかまるで誇るかのように、乱暴に開けたドアの前に仁王立ちして、妹がふんぞり返っている。見慣れたセーラー服姿。
「……
諦めの感情を含んだため息とともに、姉は妹の名前を呼んだ。
「あーもう、また部屋のなか真っ暗にしてる。目が悪くなるから止めなって言ってるのに」
「あんたこそ、足でドアを開けないでっていつも言ってるでしょ。またお母さんに言いつけるよ」
「うっせ」
お母さんなんかこわくないもんね――妹はべえっ、と舌を出すと、姉が慌てて止める間もなく、閉め切っておいた部屋の窓とカーテンを無遠慮に開いていく。穏やかで静かな暗闇に慣れていた目に容赦のない春の光と花粉が差し込み、湿気の停滞していた心地よい空間に容赦のない三月の風と花粉が吹き込んでくる。
「あー、いい気持ち」
「ちょっと、閉めてよ」
「やだー」
「やだじゃない……ぐしっ」
姉はくしゃみをひとつした。鼻水まで出てきた。
だめだと思いつつ痒い目を擦ると涙が浮かんできて、滲んだ視界に妹の姿が揺らいでいた。
「閉めてってば、今すぐ、お願い、早く」
「日が長くなったよね。もう春なんだね」
「私が花粉症なの知ってるでしょ」
「こんなうららかな日に部屋に引きこもってるなんてもはや罪だよね」
「もう」
ちっとも話を聞いてくれないので、椅子から立ち上がって自分で窓を閉める。
しかし時すでに遅かったようで、憎き花粉はすっかり部屋に侵入してしまった。姉はまた「ぐしっ」、とくしゃみをした。棚からティッシュを取り出して鼻をかむ。
「もう、最悪」
「お姉のくしゃみってなんか変……蛙が潰れたみたいな音がする」
「あんたね。誰のせいでこんなことになってると思ってるの」
姉が睨むと、「はいはいごめんごめん」と、妹は意にも介さない様子。姉はため息をつく。
この無遠慮で自分勝手で傍若無人な中学三年生が、姉の妹だった。
ふたりは物心がついたころからこんな感じ――大人しくて引っ込み思案な姉が、何事にも物おじしない妹の突拍子もないわがままに振り回されるという関係――で、その生反対な性格は実の親からして「本当に血が繋がってるのかな」と笑われてしまうというありさまで、しかしその顔はよく似ていた。
そんな妹はなにやら姉のパソコンをじっと眺めたあと、ふん、と息を吐いて、
「というわけで、ほらお姉、行くよ」
姉の肩を叩く。
「行くって、どこによ」
「調布」
「……なんで?」
「私が行きたいからだけど。気になるパンケーキ屋さんを見つけたんだよね」
「……そう」
それはよかった。パンケーキが食べたいならどうぞ一人でいってらっしゃい。こちらは見ての通り多忙を極めておりますので――と姉は椅子に座りなおして画面に向きなおる。そして次の一文を打とうとキーを叩くとしかし、叩く音が響くばかりで画面は何の反応もなかった。
おかしいな、と首をかしげて目を上げると、妹の手にはいつの間にか、本来パソコンに刺さっていなければならないはずのキーボードのケーブル先が握られていた。
「ちょっと、なにしてんの」
「お姉も行くんだよ。今日はお母さんの帰りが遅いから各自で晩御飯の日でしょ」
「行かないよ」
何度も言うけど締め切りは来週なのだ。外食なんかしてる暇はない。
「ちゃんとカップ麺買ってあるし」
「カップ麺なんか駄菓子じゃん。そんなんじゃ足りないよ」
「そんなことを言ったらパンケーキだってお菓子でしょ」
「パンケーキは主食にもなるんです。もういいから、行くったら行くの」
「行かないったら行かないって。私別にパンケーキなんか好きじゃないし」
「じゃあ今日好きになる」
「……はあ」
本日何度目かのため息をもうひとつ。
何だか知らないけど妙にかたくなだ。こういう時の妹には何を言っても無駄なのだということを姉は経験上知っていた。それはもう、嫌というほど。このまま続けていたらパソコン本体のコンセントまで抜かれかねない。姉は慌てて今まで書いたものを保存した。
もちろんそんなことになったら戦争だけど。この妹との間に起こった争いごとはたいていろくな終わり方をしないということも知っていた。家じゅうの電子機器という電子機器の電源ケーブルをすべて引っこ抜かれてコンセントの先に輪ゴムがぐるぐる巻きにされているとか、家じゅうの服という服がすべて裏返しにされてきっちり第一ボタンまで留められているとか、家じゅうの食器という食器すべてにマーガリンが塗りたくられているとか、そういう意外と地味で陰湿な嫌がらせを繰り返される前に、こちらが大人になるのが吉というものだった。
「……食べたらすぐ帰るからね」
「やった」
ぱあっと笑って大げさなガッツポーズをとる妹。
やっぱり小学生みたいな振る舞い。まったく、何がそんなにうれしいんだか。
まあいい。どうせ展開も行き詰っているし、このまま部屋にいてもどうしようもなさそうだし、休憩がてらの気休め、ということにしておこう――と、姉は椅子から立ち上がった。
「ていうかあんた、その制服のまま行くつもりなの?」
「別によくない?」
「あんまり遅い時間に制服で出歩いていると補導とかされるんじゃないの」
「そんなの大丈夫だよ。塾帰りの子とか普通にいるし、お姉は心配性だね」
「ふん」
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