第5話 育毛剤の治験

 カツラ専門店『ノッセルーゼ』の経営者、ダブン・イケルハーズ子爵は焦っていた。


 エバー・マームス公爵夫人とアルトワ・マームス小公爵夫人が、カツラ業界に参入してきたことで、売り上げが落ちたからである。


 それまではほぼ独占した商売であり、程々の小金持ちだったのに。


 その恩恵にあやかっていたのが、ダブンの娘であるキルトの婚約者、アトナイゼ・ドスルーン伯爵令息であった。


 彼はやや痩せ型だがスタイルが良く、長い巻き毛の金髪を肩まで揺らし、上睫毛も下睫毛もバチバチに長い美形であった。ちょっとクドイが、好きな人は好きな顔である。


 キルトは彼のことが大好きで、婚約者となる前からずっと援助をしていた。


「ごめん、お腹がなってしまった。実は僕、朝から食べてなくて……。ん、でも……、今は手持ちがないんだ……」


「任せて! 私がレストランの支払いをするわ!」

「おおっ。ありがとう、キルト。さすが我がフィアンセ! 今度、絶対に返すからね!」


また別の日は。

「僕の肌には、シルクしか合わないんだ。でも今日はお金が足りなくて……」


「それならば、私が。どれが良いんですの?」

「おお、ありがとう。これとこれとこれが良いんだが!」


「分かりましたわ! お会計は私が致します!」

「おおっ。ありがとう、キルト。さすが我がフィアンセ! 今度、絶対に返すからね!」


 そんな感じで、多額の金銭をアトナイゼに提供していたのだが…………。




◇◇◇

  本気モードのエバー・マームス公爵夫人は、カツラの品揃えからして違った。


 人毛に加え、馬や羊の動物毛を使うものと、そのミックスの物を扱っている。色も染料でカラフルにしている使い捨てタイプやお洒落用に安価なエクステも各種ありだ。


 とにかく種類が豊富で、見ているだけで嬉しくなる。

 ※現代と違う世界観なので、ポリエステル、アクリル、ナイロン、ポリ塩化ビニルなどはない設定です。



 その逆に『ノッセルーゼ』は人毛オンリーで、質の高い物を作り続けていた。古くからの固定客がついているが、次の世代に繋がる若い世代がエバー夫人に流れているのである。


 固定客がつかなければ、屋台骨を揺らす大ピンチだ。

 おまけに育毛剤の生産にも手をつけたと、情報も入っていた。


「おのれ、エバー・マームスめ。唸るほど金がある癖に人の商売を邪魔しやがって! 許さぬぞ!」


 怒れるダブン・イケルハーズ子爵は、エバー夫人の元にスパイを送り込むことにした。




◇◇◇

「分かっているだろうな、アトナイゼ。

我が商会の未来はお前にかかっておる。

キルトは黙っていたが、ワシは知っておったぞ。

かなりの大金を使ってくれたそうじゃないか?

その分役に立って貰うからな。

……今さら、逃げられると思うなよ!」


「ひ、ひぃー、分かりました。やりますよ、やらせて下さい!」


 商会の社長室に呼ばれたアトナイゼは、完全に腰が引けていた。ちょっとチビっていたのは内緒だ。


 ダブンの後ろには、筋肉モリモリの黒眼鏡サングラスをかけた黒スーツ男が3人いた。何れもスキンヘッドである。だがアトナイゼは知っていた。外向きの彼らはカツラを装着してふさふさな髪をなびかせていたことを。


 そしてダブンは眼光鋭く、口と顎髭を蓄えた強面だった。背は160cmないが彼も筋肉の鎧を着ており、到底堅気には見えない。


 アトナイゼはダブンに脅され、後には退けなくなった。




◇◇◇

 とは言っても、アトナイゼは国立図書館に勤めるただの事務員である。スパイなんて無理な話だ。


 それでもダブンには逆らえず、有給を取ってエバー夫人の商会の臨時職員となったのだ。


 当然のようにエバー夫人の調査は厳しい。

 そんな彼が臨時職員に選ばれた理由は、ひとえに治験の為である。


 例の馬用の育毛剤の人間への転用。

 詳しい副作用の調査も終え、密かに職員の間で効果の確認はされていた。

 主にそこに勤める主婦達の夫の頭部で。


 薄毛にされたり増やされたりと、毛根に負担はかかっているが、極秘治験されているのはやらかした者(夫)達ばかりなので、安心して欲しい。


 ある程度彼らで実験した後の、アトナイゼである。

 勿論彼に詳細は話していない。


 新商品シャンプー後の、洗い心地をレポートして欲しいと依頼しただけだ。

 最初は20%、次は30%、40%と、濃度を上げて使用して貰う。

 さすがのアトナイゼも、最近毛量が増えてきたことに気づく。


「も、もしかしたら、これって育毛剤なのか? これをダブンさんに渡せば、任務終了なんじゃない?」


 と思って歩いた矢先、大きな川で溺れかけている子犬を見つけた。前足をバタつかせ、苦しそうに呻いている。


「クウン、クウ~ン、クウッ……」

「ああっ、流されてる、待ってろよー!」


 追走して駆けていくアトナイゼだが、川の中央部の浅瀬の草に子犬は掴まることができた。


「よ、良かった」


 だが雨が降った後に増水し、流れの早くなっている川だ。

 勢いが強く、子犬は再び川に呑まれそうになっている。到底、アトナイゼが入れるような川の状態ではない。


 けれど近くに、子犬を捕まえられるようなものは何もなかった。


「くそっ、どうしたら良いんだ!」


 アトナイゼは典型的な坊っちゃんだが、優しい男だった。

 そして動物が大好きだ。


「ああ、子犬の体力が……。そうだ! これで何とかなるんじゃないか。エイッ、伸びろ、俺の髪の毛!!!」


 次の瞬間。

 今日渡された治験用のシャンプーを、髪にかけて泡立てて川に流した。


 川は泡立ち、伸び続ける髪が子犬のいる浅瀬に届いた。

 子犬はアトナイゼの髪と泡に絡まり、アトナイゼは力を込めて髪を岸に引き揚げた。


「うおりゃあああああー!!!」

「く、うっ、うぅ、うわんっ!」


 何とか子犬を引き揚げたアトナイゼは、育毛剤の影響なのかそのまま気を失なった。


 ドサッと彼は倒れ、子犬が助けを呼ぶように必死に吠え続けた。


「うー、わん、わん、わん、わん!!!」


 そこに駆けつけたのが、キルトだった。


 最近いつも自宅にも図書館にもいないアトナイゼを心配し、街を探していたのだった。犬の吠える方に目を遣ると、何と彼が倒れているではないか!


「キャアー、アトナイゼ様。死なないでー!!!」


 その叫び声に近くを通っていたエバー夫人の執事が気づき、彼に近づき状態を確認した。どうやら気絶しているようだ。


(これは! 育毛剤の副作用ですかね? どうして頭がシャンプーだらけに。用量とすすぎは守るように説明していたのに!)


 彼を止めて置いた馬車に乗せる。

 すぐ近くにカツラの生産工場があるので、そこで洗浄し休んで貰うことにした。


 彼の傍を離れない子犬と、キルト・イケルハーズ子爵令嬢も馬車に同乗させた。

 自分に任せろと言う執事に、心配だからと納得せずに追い縋るからである。


「もう、仕方ないですね。今回だけ特別ですよ!」

「ありがとうございます。感謝します」

「わおん、わおおおん!」


 泣きそうに感謝するキルトと子犬に、やれやれ仕方ないですねと言う、優しい眼差しを向けた。




◇◇◇

 しばらくして目が覚めた時、知らない天井に戸惑うアトナイゼ。


「ここ、何処だ? あれ、俺は確か子犬を助けようとして……。それから?…………」


 気がつくと、傍にはキルトと子犬がいた。

 心配そうな顔の一人と一匹は、僕の顔を見て泣きそうな顔を見せてくれた。


「おおっ、あの子犬だね。助かったんだね、良かった! それにキルト、どうしてここに?」


「気がついて良かったです。心配しました!」

「くう~ん、くう~ん」


 キルトと子犬は、アトナイゼに抱きついたのだった。


「ちょっと、どうしたんだい。お、落ち着んだ!」


 それを見に来た執事は、ほっこりしていた。

 その後ろにはエバー・マームス公爵夫人とアルトワ・マームス小公爵夫人も様子を窺っていた。


「彼ってどんな人物なのかしら? 案外悪くない人なの?」


「どうでしょうか? 噂では彼女であるキルトさんに貢がせていたそうですが。う~ん、実際に聞いてみましょうか?」 



 感動の再会を喜ぶ彼らに、エバー夫人は尋問ではなく、質問をすることにした。




◇◇◇

「ねえ、アトナイゼ。貴方がノッセルーゼのスパイなのは知っているの。だからもう、隠さず教えて欲しいのよ。そして血液検査の許可と、頭部を見せて頂戴!」


 アトナイゼは焦るものの、何だか疲れてしまい抵抗する気力がなかった。なので素直に全て応じることにしたのだ。


 彼は川からここに連れられて来てから、頭部のシャンプーを従業員達に洗浄され、医師の診察を受けてベッドに寝かされていた。そして余剰に伸びた髪は刈られていた。

 だって引きずるくらいで、さすがに不潔だったから。


 その間のことは、彼は覚えてはいなかった。




 アトナイゼはキルトの父、ダブン・イケルハーズ子爵に命令され、臨時でこのカツラと育毛研究所の職員になったと言う。


「命令されたとは言え断ることもせず、不純な動機でここに来ました。どうもすいませんでした。罪は償いますので、好きなようにして下さい。ただダブンさんには、まだ何も報告はしていません。それだけは信じて欲しいです」


 彼は頭を下げて、素直に謝罪した。

 そしてダブン・イケルハーズ子爵のことは、見逃して欲しいとも付け加えた。


「彼女のお父さんには忠告だけにして欲しいのです。僕が捕まっても、彼女には不幸になって欲しくないので」


「何を言うのよ、アトナイゼ。元はといえば父が悪いのに。あんまりよ! うっ、うっ」

「くう~ん、くぅん」


 素直なアトナイゼに、泣きじゃくるキルトと子犬。


 どうしたものかと、顔を見合わせるエバー夫人とアルトワだった。


「彼って本当は、そんなに悪い子じゃないのかしら?」

「そうですよね、普通に謝れるし。どうしますか?」


 何て言いながら、処罰に困るエバー夫人達だった。





◇◇◇

 その後もキルトと(何となく)子犬も、エバー夫人達に頭を下げまくっていた。


「お願いです。許して下さい。私が何でもしますから!」

「わん、わん、わお~ん、わん!」


 犬語は分からないが、彼を守ろうとする姿勢は理解できた。


 そしてキルトが泣きながら許しを乞う内容には、エバー夫人もアルトワも目を潤ませた。


 何でもアトナイゼは重度のアレルギー体質で、幼い時から食事や、衣類に負けて皮膚を赤くしていたらしい。


 それなのに両親である伯爵夫妻は、いつも荒れた皮膚をしている彼を邪険にしていたと言う。


 医師には診せてくれていたがそれだけで、食事や衣類、シャンプーや体を洗う石鹸等も使用人任せだった。


 伯爵夫妻はアトナイゼを蔑ろにして、病気に対する指示を出さないので、ある予算で賄うしかない。


 彼は食事では青魚は駄目、卵は駄目、米は駄目。

 衣類は麻は駄目、綿も混じり物があれば駄目。


 そんな感じなのに伯爵夫妻が丸投げなので、食事や衣類はアトナイゼの予算で頭を悩まして執事が賄うのだ。だから彼は玩具1つ買うことも出来なかった。それほど絹製品は高かった。


 さすがに薬代は伯爵持ちだったが、その他については限界があった。


 衣類は主に最上級の綿製品か絹を。

 食事はなるべく肉中心で、卵料理は彼の分はなし。

 パンは彼の分だけ卵を使わないメニューだった。


 アレルギーについては、使用人達の方がよく分かっていたくらいだ。


 当然のように、衣類は数枚しか買えないし食事にも制限がある。


 家族で行った外食でも気分を悪くし、嘔吐したアトナイゼはそれ以降は置いて行かれた。当然のように社交にも出して貰えない。


 そんな彼の救世主がキルトだった。


 隣の領地で幼馴染みの彼女は、幼い時から一緒にいるアトナイゼのアレルギー体質を知っていた。


 だから父親にも彼との婚約を望み、いろいろと援助していたのだ。周囲から見れば、貢がせているように見えただろう。


 でもキルトは彼の顔ではなく、優しい部分が好きだった。


 ただ彼の方もキルトが大好きなのだが、かなり依存してしまっていた。それこそ、姉のように、母のようにと。


 実際のところ、彼女の方が2才年下であるのに。

 おまけなことに、彼の両親もこう言ったから質が悪い。


「ダブン・イケルハーズ子爵は昔から人の弱味を食い物にして大儲けしている。キルトは婚約者になるんだから、欲しい物があればたくさん買って貰え」とか、何とかと。


 本当に下品な品性の親だったのだ。


 けれど他の兄と弟は、マトモだった。

 知識がなく分からない時は親に従っていたが、その後はアトナイゼの味方だった。


 だからよく彼を庇ってくれたし、社交にも出すように両親にも訴えてくれた。聞き入れなかったのは両親だ。


「そんな出来損ないは、連れていけない。粗相があれば恥をかくのは私達なのだ」と、伯爵も母である伯爵夫人も同じに。


 悲しく思うアトナイゼ。

 けれどそれ以上に兄弟達も、その言葉に落胆していた。


 そのあとは、兄弟に迷惑にならぬよう、社交を避け続けたアトナイゼだ。


 だから彼は貴族の仕事からは一線を引き、平民と一緒働く図書館の事務員をしているのだった。




 キルトは彼女の父ダブンにも、アトナイゼのアレルギーのことを説明していたが、あまり理解して貰えずにいた。

 周囲にそのような人がいなければ、受け止められない人は多いだろう。現にアトナイゼの両親さえもそうなのだから。


 だからダブンは、アトナイゼが不当に貢がせていると思っていた。


 実は給料が出た後、毎回きちんと返済し、ボーナスが出れば彼女に贈り物をしている関係だったのだが、そこまで気づいて貰えなかったようだ。


冒頭のいろいろ買って貰ったのも、面接のスーツとYシャツと靴下だった。


 その時の持ち合わせでは、靴と鞄を買ったらアトナイゼのお金が不足していた。

 安い物で十分と思っていたのに、キルトが長く使えるものが良いからと高い物を選んだからだ。

 それでも力説され納得し、受け入れた彼。その後お金を返そうとしたのだが、結局不足分は彼女が就職祝いとしてプレゼントすることになった。




 これも偏に、彼の顔が派手で目立つことが弊害になった。

 見た目と違って大人しい彼なのに。

 どうしても、貢がせているように見えてしまっていたのだ。





◇◇◇

 エバー夫人から連絡を受けたダブンは、固まった。


「あいつバレたのか。本当に役に立たんな!

しかもエバー・マームスめ。俺を呼び出すとは、生意気な!」


 それでも格上の公爵家からの命令だし、スパイをさせたアトナイゼのこともあるから、マームス邸に出向くダブン。いつもの黒スーツ達も一緒だ。


「申し訳ない、マームス伯爵夫人。

娘の婚約者殿がこんなことを。お詫びは金銭でもよろしいだろうか?」


 慇懃無礼な態度に怒りも見せず、エバー夫人は静かにダブンを見遣った。口元を優雅な赤い扇子で隠しながら。


「要りませんわ。

もう既に彼は、育毛シャンプーの治験で衰弱しています。それにこちらの情報を、貴方はお持ちではないでしょう。ですからもう手打ちに致しましょう。ここからの話はキルトさんからになります」


 ノックをして入室したキルトは、エバー夫人とダブンの話を聞いていたようだった。


「お父様、来て頂きありがとうございます。そして早速ですが、親子の縁を切って下さいませ」


 そう言ってから持っていた、本人の署名が済んだ書類をダブンに手渡す。


「な、なんだ、これは。離籍証明書ではないか! ふざけるな! サインなんてしない、しないぞ。こんなもの」


「じゃあ、私のサインだけで提出します。もう16才を過ぎたので、役所で受理して貰えますから。さようなら、お父様」


 表情のない愛娘の態度に、恐怖で体が震えるダブン。

 何が起きているのか分からない彼に、エバー夫人は説明することにした。

 事の経緯を何もかも。


「そ、そんな……。俺は良かれと思って。これでアトナイゼも反省すると思っていたんだ。本気でスパイにする気はなかった。まあ、ヒントくらい持ってくればとは思ったが。話は分かったし、誤解もあった。謝るから離籍だけは勘弁してくれ、キルトよ! すまなかった!」


 父親の態度に、今更ながら怒りを滲ませる娘キルト。


「ずっと、ずーっと、言ってきたのに。聞いてなかったのね。私はアトナイゼと結婚して、平民として暮らすわ。私が一番大事なのは彼だから! 従業員を使って脅すなんて脅迫じゃない。最低よ、もう嫌い!」


 娘の態度に泣き崩れるダブン。

 人は悪くないが脳筋であまり人の話を聞かない。

 彼には息子がおり跡取りはいる。


 けれど3年前に死に別れた、愛する妻に誓ったのだ。娘を幸せにすることを。


「あの子はしっかりしているけど、まだまだ若く危なっかしいわ。……私の分まで見てあげてね」

「分かってる。心配するな、大丈夫だから……」


 そんなことがあったのに、まさか娘の方から捨てられそうになるなんて。

 そんな彼へ助け船を出すように、割って入るエバー夫人。この時ばかりは拝みそうになったダブンだ。




「まあまあ、キルトさん。その言い方は少しきついわ。貴女のことを思っていたのは、私にも分かるもの。だからね、こう伝えてあげたら良いわ。結婚式のことはこのエバーが責任を持つから、気楽に参加してねって」


 なんだこのアマ、泥舟じゃねえか。

 拝みそうになって損したぜ。


 けれどその時、再度ノックが響きアトナイゼが入室してきた。こちらも話は聞いていたようだ。


「ダブン子爵、こんなことになってすみませんでした。けれど僕はキルトさんが好きです。支え続けてくれた彼女と結婚するつもりです。どうぞ許して下さい。許可を得られなくても結婚するつもりです。ご不快ならば、どこか遠くで暮らします。今までお世話になりました」


(何だ、こいつは!

俺に挨拶する態度じゃねえだろうが!

くそっ、どこで間違った。

あんなに怯えていた癖に、何でこんな強きなんだ。

駄目に決まってるだろうが!)


 憤るダブンだが、「もう大人である2人を縛るのは止めなさい」と声がかけられた。夫である宰相の力があれば、スパイを放った子爵家等、あっさり潰せることだろう。


 でも、でも。

 ダブンも譲れないことがある。


「……娘に食わせて貰う情けない男は駄目だ。甲斐性なしはお前も娘の未来も潰すことになる。お前はただでさえ病気持ちで金がかかる。

例えお前と闘っても、許してはやれん!」


 その言葉にアトナイゼも反論する。


「それは僕も分かっています。だから、王宮の職員試験を受験していたのです。4月から勤務も決まりました。今は有給消化中です。少し早めですが、図書館の職員さんも応援してくれました。僕が有給を使わずに頑張ってくれたと言って。ですので、大丈夫だと思います」


「そうか。そうだったのか…………。じゃあ、許すよ。もう勝手にすれば良い」


 寂しく項垂れるダブンに、付き添いの男達が声をかけた。


「帰りましょう。社長」

「……ああ、そうしよう」


 そのあとは何も言わず、俯いたままで部屋を出ていくダブン。


 誰も声を出せず、その日は解散となった。




◇◇◇

 その後アトナイゼは、エバー夫人に許された。


 キルトが離籍証明書を役所に提出した後、アトナイゼも伯爵夫妻の元を訪れ、離籍証明書にサインを貰って同じく役所に提出した。


 彼の兄弟は心配したが、どうせ長男以外は爵位がなければ平民となるので変わらないことを話した。


「親が嫌になったのなら仕方がない。けれど俺達は兄弟だ。辛い時は頼ってくれよ」


「お兄ちゃんが出ていく必要なんてないのに。でも両親に会いたくないならそれも良いのかな? 僕だってそのうち平民になるから、その時はよろしくね」


 兄弟の温かい眼差しと視線は、アトナイゼの心に勇気を与えた。


「ありがとう、2人とも。僕は兄弟に恵まれたな。本当に幸せだよ」


「水くさいな」


「そうだよ、今さらだよ」


「うんうん、そうだね」


 アトナイゼは穏やかに家を出ることになった。


 お世話になった使用人達には、ケーキをたくさん買って来て渡した。


「受けた恩には全然足りないけど、今までありがとう。アレルギーでも生きて来れたのは、みんなのお陰だよ。元気でいてね」


「ああ、坊っちゃん。立派になられて」

「新天地でも頑張って下さいね」


「結婚式には呼んで下さいね」

「本当に良かったです」

「これからきっと、たくさんの幸せが待ってますよ」


 そんな風に送り出してくれた。

 彼には彼らの方が、親のように感じていた。


「ありがとう、みんな。新居には遊びに来てね。僕も平民だから、遠慮はいらないよ」


 手を振って、笑顔で伯爵家を後にする。

 両親に大事にされなかった彼の荷物は少ない。

 けれど大切な思い出は、心にたくさん詰まっているのだ。




◇◇◇

 アトナイゼはキルトと子犬で、小さな家をエバー夫人の紹介で借りて暮らしている。


 こんなに穏やかで、落ち着いた暮らしができると思っていなかった。


 アトナイゼは、エバー夫人の息子で宰相のモーリスの下で働いている。立派な宰相補佐の1人だ。

 今は貴族、平民は関係なく、役職は実力で決められている。


 モーリスはアトナイゼのアレルギーの大変さを聞いたことで、その病気で悩んでいる人を救う為の政策に乗り出した。


「僕は健康だけど、アレルギーは命にかかわるそうだから。これからいろいろ研究と支援をしていこう。力を貸してくれよ、アトナイゼ」


「はい。勿論でございます」


 アレルギーを持つ人の救済に当たる計画をアトナイゼが中心となり、モーリスに任されることになった。


 アトナイゼは社交に出ない分、いつも部屋で勉強していた。その知識と、図書館で時間が許すかぎり興味のある本を読んで得た情報が、彼の力になっていた。


 何が役に立つか分からないものだと、後に彼は振り返る。

 そんな彼を陰日向で支えたキルトは、高給取りになった彼を今も支えている。


 元々アトナイゼへ出した資金は、キルトが商会でカツラ作りを手伝って得た正当なものだ。


 ドレスや宝石を買う代わりに、アトナイゼに使っていただけなのである。


 彼女は幼い時は何も助けられず、悔しい思いをしていた。料理ができるようになってからは、卵抜きのおやつを開発して渡し、やっと役立てたと嬉しさに浸っていたのだ。


 彼の微笑みは、彼女の喜びであった。


「いつもありがとう、キルト。大好きだよ」

「私もよ、アトナイゼ。いつもご苦労様です」


「君もありがとうね。ヌエッタ。いつも癒されているよ」

「くう~ん。くう~ん。わふっ」


 あの時の子犬はアトナイゼから離れず、いつも彼を守っている。茶色と黒の真ん丸子犬は、何の犬種かは不明だが、キルトと仲良く留守番していて大人しい。


 一度彼の両親の伯爵夫妻が訪れた際は、激しく吠えてアトナイゼに近づくことを阻止した。昔のことを知らないはずなのに、この忠犬ぶりである。


 それを見たアトナイゼとキルトが、ヌエッタをさらに愛したのは言うまでもないことだ。




◇◇◇

 そもそもアトナイゼの髪は、どうして急激に伸びたのか?


 最初は20%、次は30%、40%と、次第に濃度の高いシャンプーの治験を気づかずに受けていたが、子犬と出会った時は丁度使用後1か月目になっていた。


 思えば馬用のシャンプーを使用した伯爵令嬢アルフェ・モランも、使用1か月くらいにいろいろと効果が現れていた。


 使用後1か月が、発毛の鍵になるのかもしれない。


 それを目安に各濃度のシャンプーの治験結果を纏めると、概ね同じように1か月で生え始めていた。


 濃度により生え方に多少の差はあるが、20%でも十分な効果が得られていた。量産するならこの濃度をメインに売るのが良いかもしれない。


 ただアトナイゼのようにアレルギーが多い人は、育毛剤にも影響を受けるかもしれない。


 アトナイゼが子犬を助けた時、彼はとっさにシャンプーを使い、質量を増やそうとした。その時渡した濃度は70%だった。


 彼にはアレルギーテストをしてから使用して貰っていたが、使い続けていくことでアレルギーを発症する可能性もある。今後も追跡調査は必要である。


 それにしても、執事が倒れている彼を見つけた時、さらに1メートル近く髪が伸びていたそうだ。その時の彼はかなり衰弱し、体の栄養を吸い取られていたように思えたと言う。医師の採血でも、栄養状態が悪い値が出ていたらしい。所謂、栄養失調のような。



 急激に伸びたのか、助けたくて気合いで伸ばしたのか、詳細は不明である。けれど伸びていなければ、子犬は助からなかったかもしれない。


 これが奇跡なのだろう。


 けれどこれは例外すぎて、データには組み込めない。

 特例として除外することにする。


 この治験がアトナイゼの罰として、無罪放免としている。元から怪しい彼には監視が付けられていたので、何れにしても流出はされることはなかったのだ。   分かりやすくて逆に不振がられたのは内緒の話だ。


 宰相モーリスは、この治験の前にアトナイゼの内定を決めていた。

 スパイもどきのことはとっくに調べていたが、それを差し引いても能力を認めていた。

 いざとなったら母にお願いして、表にでないお咎めに変更して貰うことに決めていたのだ。




◇◇◇

 アトナイゼが宰相補佐として勤務しだした時、彼の両親は周囲から羨望の眼差しを受けていた、


「あまり社交にでない次男は、優秀らしいそうじゃないか?」

「宰相の補佐なんて、なかなかなれるものじゃないぞ。すごいじゃないか、伯爵」


「あ、ああ。それほどでもないかな。はははっ」




伯爵夫人もお茶会や夜会で、質問ぜめにあっていた。


「ねえ夫人。アトナイゼ様に婚約者はいるのかしら? 家の娘も良い年なのよ。どうかしら?」

「あ、あーと、既に婚約者がいるのですよ。ダブン・イケルハーズ子爵の娘さんなのよ」


「まあ、子爵の娘さんなの? 宰相補佐をしているのなら、もっと力のある家の方のほうが良いんじゃないの? 紹介するわよ」

「ええと、それはありがたいですが。仲の良い2人なので……」


「「「そうなの? 残念ね」」」



 何とかその場を逃げ切る伯爵夫妻。

 急いでアトナイゼに連絡を取り、王宮に乗り込んできたのだった。


「離籍は取り消してやる。出世するにも貴族籍はあった方が良いだろう」

「そうよ、アトナイゼ。出世するなら妻も力のある家から貰いなさいな。紹介するわよ」


 昼休みに駆けつけ、こんなことを叫ぶ元両親に幻滅が隠せないアトナイゼ。

 もう面倒くさいから言っちゃえ。


「兄弟達には式に来て貰ったから知っているけれど、もう僕はキルトと結婚しているし、一緒に暮らしているよ。僕のことは心配無用ですから、放って置いて貰って良いですからね。伯爵夫妻もお元気でいて下さい。では、仕事がありますので。失礼します」


「えっ、結婚? 式を挙げたのか?」

「一緒に暮らしているなんて」


「「それに伯爵夫妻って!!!」」


 今まで構わず、声もかけない次男だったのに、現金なものである。もう二度と彼が父と母と呼ぶことはない。

 大事なのは傍に居てくれるキルトとヌエッタ、お世話になった使用人達、心配してくれた兄弟達と職場の人なのだから。


 彼はあっさりと踵を返し、振り返ることもなかった。




 その後、父伯爵は『スグヌケール』を愛人に盛られた。逆算すると、丁度別れ話が出た時だったらしい。


 未だ育毛剤は市販していないので、彼は『ノッセルーゼ』に駆け込んだ。


「急いで作ってくれ、子爵。金はいくらでも出すから、頼むよ!」

「分かったよ。でも艶が良い毛は高いからな!」


「良いから、頼む。トホホッ」


 その後出来上がったカツラは、伯爵の髪質にあった素晴らしいものだった。


「ありがとう、子爵。恩に着るよ。賃金は弾むからな!」


 喜んで帰る伯爵に、ダブンはやれやれとため息を吐いた。


「手をかけない息子の世話になって、情けないことだ。まあ俺も、大概娘に怒られたけどな。仕方ない親だな、俺もあんたも」



◇◇◇

 結局ダブンは娘に平謝りし、アトナイゼにも脅したことを謝った。


 ただ彼の傍にいる筋肉達は、昔からのダブンの友人で仕事の仲間でもある。

 護衛ではなく、心配しているだけだった。

 因みに黒眼鏡サングラスは目が疲れる仕事なので、目の保護用のものだった。


 ダブンと職場の3人はボディービル仲間であり、仕事の時は頭だけ日焼けするのを防ぐ意味と、宣伝の為にカツラを使用していた。


 彼らが自社のカツラを使用しているのは、周囲はみんな知っているそうだ。


 当然後ろ暗い組織ではなく、アトナイゼには腹いせに行って来いと嫌がらせしただけだった。

 それを知ったキルトは怒りまくり、離籍した理由の一つになっていた。


 エバーはキルトとダブンの間に入り、和解に助力した。カツラ部門はエバー夫人との共同事業が進められ、ダブンの商会『ノッセルーゼ』の利益も守られることになった。今後も共に、質の向上が図られることだろう。


 アトナイゼの父伯爵が購入したカツラは、アトナイゼが子犬を助ける時に伸びた分の髪である。親子のものなので、余計しっくりきたのだろう。


 そのカツラの賃金は、ダブンからアトナイゼに渡された。


「お前の髪で作ったんだから、これはやる。今まで親から碌に世話もされなかったんだろ? その分には少ないが、パァーと使っちまいな。伯爵の頭は見事にツルツルだ。ちょっとスッキリしたか? ワハハッ」


 豪快に笑うダブンを見て、アトナイゼも微笑んだ。

「ありがとうございます。ダブンさん。ありがたく頂きます」


 頭を下げてお礼をするアトナイゼに、ダブンは続けた。

「お前さ、いつまで俺のことをダブンさんって言うんだよ。まだ許してないのかよ。……もう他人じゃねえだろが!」


 キョトンとするアトナイゼだが、

「いや、あの。ダブンさんとキルトは離籍したままなので、僕も困っていまして。以前にキルトに聞いたら、「他人よ、他人。下手に甘くしたら付け上がるから」って言うので。すみません」と、正直に答える。


 アトナイゼは真面目な男だった。


 ダブンは焦った。

 このままだと孫にも近寄れないかも知れない。

 辛い、それは辛すぎる。


「キルト、頼むよ。もう許してくれ。籍はもう戻さなくて良いけど、俺を身内だと認めてくれ。アトナイゼにもお義父さんと呼んで貰うように言ってくれ。頼むよ!」


「調子に乗るから、駄目よ。今のままで良いじゃない。何にも困らないわ」


「わん、わん、わーん♪」


 ダブンはキルトを追いかけまわす、それをヌエッタが楽しそうに追いかける、それを見るアトナイゼは何だかほっこりしていた。


(何か良いなあ、平和だなあ)


 その後生まれた子供達には、ちゃんとお爺ちゃんと呼ばれ喜ぶダブン。


 今でもボディービルの大会に出ている、ダブンと仲間達。


「切れてるよ。背筋バリバリ!」


「良い血管出てます!」


「肩メロン乗せてるぞ!」


「二頭がチョモランマ!」


 応援には、アトナイゼ、キルト、ヌエッタ、アトナイゼの兄弟、キルトの兄と、従業員。それとエバー夫人、アルトワ、モーリスがこっそり見に来ていた。


 何だかんだと、賑やかに日々は過ぎていくのだった。





 アトナイゼの元両親の伯爵夫妻は、アトナイゼが離籍したことがバレて呆れられていた。

 エバー夫人がちゃんと、彼らの所業を社交会に広めていたからだ。



 羞恥に晒されたのは、因果応報である。




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不毛な話 ねこまんまときみどりのことり @sachi-go

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