第13話 「いったいなんのために、戦っているんだ……」
マルゥがアリスを抱えて走り始めて2時間が経とうとしていた。道の先で煙が上がっているのを捉える。
「あの辺りか」
煙はもう白く、燃焼しているわけではなさそうだ。瓦礫の下でくすぶっている火の煙なのだろう。しかし、それがまだ上がっているということはやはり襲撃は最近のことだったように思える。
煙を目印に走っていると、瓦礫の山が見えて来た。白いコンクリートがそこかしこに散っている。これは中に入った補完派が暴れまわったというより外から爆破したというように思える。考えても見れば無人の施設なのだから中で暴れまわる必要などない。
「ここって無人の施設なのよね。なんで爆破なんてしたのかしら? 中に入ってイニシエーターだけ殺して回れば済む話なのに」
壁が崩れてほとんど外枠だけになった元建物を見回してアリスが言った。地面のコンクリートすら所々剥がれている。
「無人の施設だからだ。動物が間違って入れないようにすべてのドアに鍵が掛かってんだ。シリアルナンバーを打ち込めば誰でも入れるが、逆に誰が入ったのかバレちまう。ならぶっ壊しても同じっていう考えだろうよ」
乱暴ではあるが、補完派ならそうしてもおかしくない。彼らはことイニシエーターとなると問答無用なのだ。
「魔力は感じるか?」
マルゥの問いにアリスは首を振る。
「でも、旧人類は誰もが魔力を持っているわけではないわ。イットウサイはまだ——」
「もう死んでいるぞ」
突然に声が飛んできた。
声の先には、壁に持たれ掛かっている人物がいた。日陰になった場所でもよくわかる赤いロングコートを着た銀髪の男——アビスだ。
「お前が殺したのか?」
「だとしたらなんだ? 貴様はオレたちの思惑を知っているだろう。ラストイニシエーターがいる。ならば殺す。それがオレたち補完派の考えだ」
アビスは壁から背中を離した。
「だが、イットウサイを殺したのはオレではない。いや、オレたちのグループではないと言った方が良いな」
怪訝な顔つきのマルゥを無視してアビスは続ける。
「オレは他のグループからこの保管施設の爆撃の知らせを受けて、死亡確認をしに来ただけだ。結果、ここにいるラストイニシエーターたちは全員死んでいたことがわかった」
「さっきから言ってる他のグループってなんだ。それに、どうやって連絡を受けた? お前らテロ組織が
「あるじゃあないか。貴様たちも使っていた」
そう言ってアビスは親指と小指を伸ばした状態で拳を作り顔の横に持って行った。
「電話……」
「そうだ。ナンナが作った電話。あれにはシリアルナンバーがいらないし、クター粒子を展開していても有線だからなにも問題がない。誰にも傍受されることなく、情報交換が可能だ」
どれだけ便利なものでも、悪用されれば兵器になりうる。
「まさか利用されないと思っていたのか? 少し考えればわかるだろう。この通信手段がなくなったら貴様たちが困る。なら壊すのが当然なのにどうして壊さずにいたのか。電話そのものじゃなくても電線を断ってしまえば良かったというのに。答えは簡単。オレたちが扱っても有効性が高いためだ。ニンフルサグの真似をさせて貴様たちを陥れようとしたときに察知されたときはさすがだと思ったが、それ以上は考えも及ばなかったようだな」
アビスは肩を竦め、さらに続ける。
「それで、他のグループはなんだという問いだが、彼らは同じ補完派の違う支部の仲間だよ。維持派の中から次々に補完派に入ってきている」
「そんなバカなことがあるかよ」
「バカはどちらだろうなあ。マルゥよ。一度冷静になって考えてみるがいい」
アビスはアリスに指を向けた。
「そこに居るのはなんだ?」
「アリスだろ」
「アリスとは?」
「ラストイニシエーターだ」
「ラストイニシエーターは守るべき存在か?」
「当たり前だろ。お前たちとは思想が違うが、解放派なら守って当然だ」
「ふむ。ならば解放派はなぜラストイニシエーターを必要とする?」
「人類のために必要だからだよ」
「貴様は人類のためにラストイニシエーターを守っていると」
「それもあるけど、ポテトのためだ。ポテトがアリスと会いたがっていた。そうだ、てめえ、ポテトをどうしたんだよ」
マルゥの問いにアビスは指を立てる。
「以前にも言っただろう。貴様がアリスを殺したら教えてやる」
「ふざけんな」
マルゥの小さな怒りにアビスは鼻を鳴らす。
「今のやり取りではなぜ補完派が増え続けているのか見えてこないだろう。もう一度冷静になれ。そして、質問を変えよう。アリスとはラストイニシエーターを指すのだったな。ならばラストイニシエーターとはなんだ?」
「旧人類の中で選ばれた存在だ」
「旧人類とは」
「はあ? 旧人類は俺らの前身だろ?」
「ならば旧人類にとっての前身——旧人類にとっての旧人類とはなににあたる?」
「えっと……うーん……サル?」
「そうだ」
アビスはニヤリと口元を歪ませた。アリスは不愉快そうな顔をしている。それに気付いてマルゥは小声で謝った。
「そこの旧人類が怒るのも無理はないな。だがこの認識は事実だ。そしてそれはマルゥやアヌンナキたちより我々の概念に深く根差しているものだ。新人類にとっての旧人類は、旧人類にとってのサルも同然。ラストイニシエーターの保管とは優秀なサルを保管しているだけに過ぎん。人類の役に立つかもしれないからと。だからそれを大切にするというのも頷ける。別段、解放派の意見がまったくわからんと言うわけではないさ。だがここで一つ問題だ。オレが保管施設を襲撃したのはサル園を襲ったのと変わりない。これは旧人類の法律に則るなら、犯罪行為だろう。だがあくまでも傷付けたのはサルのみだ」
「てめえは俺とも戦っただろう。それに保管施設に居た従業員たちも傷付けた」
「さあそれはどうかな?
「てめえ……」
「従業員の一人から話を聞くとこうだ。襲撃を受けてラストイニシエーターたちのコールドスリープを解除した。しかし、目覚めたラストイニシエーターたちが次々に従業員を襲って行った。我々補完派は元々ラストイニシエーターたちを殺すつもり出来ていたから、ためらいなく殺せた。そもそも補完派の連中が襲撃したのが悪いが、やはりラストイニシエーターは危険な一面もあるようだ。結果論ではあるがそれが明るみになった、と」
「全部てめえのせいじゃねえか! いい加減にしろよ!」
「まあ事実はどうあれ、あのあと従業員たちは治したさ。全員生きている。無論これでサル園を襲撃したことを帳消しにしろとは言わない。オレはたくさんのサルを殺した。受け入れよう。さて。それではここで、今度は貴様にこれまでやってきたことを振り返ってもらうぞ。貴様は、我らが同胞を何人殺した?」
言われてマルゥは目を見開いた。今までずっと敵に囲まれたから仕方なく反撃をしてきた。手を抜けば殺されていた。だから完膚なきまでに壊してきたのだ。
「答えられないほど、殺したか?」
マルゥは俯く。
「でも、それはお前らがアリスを殺そうとしたから」
「おお。それはその通りだ。悪いな。申し訳ない。ふむふむ。わかるわかる。わかるぞぉ。つまり貴様は愛しいサル一匹を守るために、たくさんの人の命を奪って行った。と、そういうことだな?」
マルゥは自分が行ってきた正義に愕然とした。旧人類も新人類も同じ人類で、解放派として当たり前のことをしたと思っていたし、悪いのは補完派だと思っていた。
「それがただのサルならまだ被害者面もできただろう。だがそのサルは人を傷付けている。人を襲ったサルはどうなる? サル園から抜け出してまた人を襲うかもしれない害獣を、野放しにしておくわけがないだろう? 害獣が狩猟の対象になるのは必然だ。その害獣を一匹連れまわして退治しに来た人々を次々に殺した貴様は、なんだ?」
アビスは両手を開いて前かがみになり、大きく口を開けて笑った。
マルゥはなにも言い返せず、アリスは隣で震えていた。怒りによるものなのか悲しみによるものなのかわからない。
「最初はオレもこのテロ行為がどう転ぶかわからなかった。だが貴様はニンフルサグの子。アヌンナキの系譜。必ず間違えるはずだと思ったよ。貴様は、ずっと判断を誤って来たのだ。旧人類と同じ戦争という間違いを犯した。イットウサイのピンチに間に合わなかったのも貴様が戦うことを選んだからだ。どうして戦った? すぐに向かえば助かったのに。貴様はエリアe14でラストイニシエーターを助けたかったわけじゃあない。オレたちを試し斬りしたかっただけだ。新しく手に入った武器を使ってみたかっただけなのだ。マルゥよ、今貴様は自分自身が正しいと胸を張って言えるか? 言えないだろう? これが旧人類だ! オレを捨てた旧人類の根幹にあるものだ! 自分のための行いを正義と呼び、信じて疑わない。自分の正義ではないものを悪と決めつけ、いくらでも傷付ける。利己的で理不尽で傲慢な生物なのだよ!」
彼は笑い続けた。豪快な笑い声はまるで雄叫びだった。
マルゥは刀の柄に手を掛けた。
「おっと。やはり殺人鬼は怖いな。気が立つとすぐに殺そうとする。……というのを、きっと
アビスは下卑た笑みを浮かべた。
クター粒子は展開されていない。つまり、今までの彼の演説は総人類に発信されている内容だったのだ。
「貴様たちがそんな風だから、補完派が飛行機を使っても誰もなにも文句を言わないのだ」
イナンナが懸念していたことの回答だった。補完派はバレることも辞さない腹積もりなのではなくて、バレたところで痛くもかゆくもないほどに世間が味方に付いていたのだ。
このまま煽りに乗ってマルゥが刀を振るえば人類を敵に回すことになる。だがこのまま言わせておいてさらに民意がアビスに味方すれば、アリスが殺される口実ができてしまう。害獣を駆除するかのように。
マルゥは刀の柄から手を離し、それとわからないように両手を広げた。
クター粒子展開。タイプ・
自分を中心に展開されるタイプ・
「そう来ると思ったよ。野蛮な猿回しだ」
「黙れ!」
マルゥは駆け出し、抜刀と同時に斬りかかった。
——が、
刃は空間に貼り付けにされたようにピタリと止まった。
「な……」
目の前に突然女性が現れたからだ。彼女は隙間なく張り付いたタートルネックの長袖の上にフリルの付いたエプロンを掛け、腰のくびれから足首に掛けてふんわりと開いたスカートを穿いていた。
マルゥの刃先は彼女の頭の上に載ったカチューシャの前で止まっていた。
「ぽ、ぽて……」
しかしマルゥの言葉を遮るように、二丁の銃口がこちらを向いた。咄嗟に仰け反ると遅れて弾丸が飛び出す。ハードボーラーの銃口から硝煙が上がった。
マルゥは刀でハンドガンを斬ろうとしたが、バックステップで大きく距離を取られた。ハンドガンの間合いだ。
「ポテト! なんでだよ!」
しかし彼女は答えない。代わりにアビスが微笑む。
「先ほど言っただろう? 施設に居た人間は全員治した。彼女も一度オレに敗北したが、治してやったのさ。そして二度とオレに逆らわないように——」
「操ってんのか」
「人聞きは悪いが否定はしない。ついでに言うとこれは解除できん」
「ならもう、そいつはポテトじゃあないな」
マルゥは刀を握り直す。もちろんだからと言ってすぐに斬れるわけではない。強がりだ。アビスの調子に合わせないための。
「ふむ。それはどうかな? なあ、テセウスの船と言う、旧人類が考えた哲学を知っているか? テセウスが持つ船のオールをすべて取り替えたら、果たしてそれはテセウスの船と言えるのか。つまり、同じ入れ物に入っている中身がすべて変わってもアイデンティティは保たれるのか。という問いかけだ」
「なにが言いてえんだ」
「実に興味深い話で答えなどないように思えるのだが、旧人類の哲学者たちの中でこれは『同じである』という答えを出している。なぜなら『製造番号が記されているから』だそうだよ。ポテトのシリアルナンバーは、立派なアイデンティティだということ」
「はっ。喋りもしない、お前の命令しか聞かないやつのなにがアイデンティティだよ。それに、ポテトはアリスを守れと俺に託した。俺と戦うなんて、ポテトの意志と矛盾するだろ。今のこいつは別人だ」
マルゥは必死にそう思い込んだ。さもなくば付け入られそうだった。
「喋れるぞ? それに記憶もある」
アビスがそう言ったとき、ポテトのオニキスの瞳が揺れた。動揺のように感じ取れた。その動揺がマルゥを動揺させた。
「今見ている景色も認識できているし、貴様の言葉も理解している。ただ、ポテトは貴様に戦うことをためらわせないために口を噤んでいるのだろうな。なんともいじらしいではないか」
ポテトの視線は外れない。だが、明らかな戸惑いが浮かんでいる。
「さて、ここでもう一度交渉と行こう。アリスを殺せ。そうしたら、ポテトを開放してやる。もちろん元通りにする。オレは別に貴様が憎いわけでも、ポテトに恨みがあるわけでもない。ただラストイニシエーターを駆逐したいだけだ。その目的が達成するのなら、別に殺し合わせる必要性はないと思っている」
アビスの言っていることは本当だろう。利害が一致する。このまま戦ってポテトが倒れたら次に狙われるのはアビスなのだ。ここでポテトを避けてアビスだけを殺すことは不可能なことではない。しかしそうなれば残ったポテトはどうなるのか。意識と記憶を保ったまま友達を殺そうとし続ける彼女に、明るい未来はない。アビスに直させる必要がある。
この逡巡に、アビスは目を見開いて笑い始める。
「はっ! ははははっ! 見たかアリスよ! 迷っている! 迷っているぞマルゥが! アハハ、アハハハハハハッ! やはり貴様はマルゥにサルだと思われているのだ! それはそうだ! わかるぞマルゥよ! 人間で友達の女を取るかメスザルを取るかと問われているのだ! 寧ろ迷っているだけ動物にやさしいぞ貴様は!」
すべてを呪いきった笑顔だった。アビスの旧人類に対する憎悪は計り知れない。
マルゥは迷いの果てにポテトを見た。ポテトは穏やかな表情をしている。同時に、エリアd01の保管施設で見せた、ためらいのない表情でもあった。
「僕を殺せ、マルゥ」
ポテトの言葉にアビスが肩を竦める。
「ようやく喋ったと思ったらそんなことか。友達を迷わせるだけだぞ。それに、サルのために命を投げ出す必要はないだろう?」
「黙れ。僕にとって彼女はサルじゃあない。命の恩人なんだ」
「そうか。ならば友達を傷付けてくるが良い」
アビスがほくそ笑むのと同時に、ポテトは銃を構えた。言葉は思い通りでも体は別の行動を取ってしまう。彼女の悔しそうな表情がマルゥの心を痛めた。
ポテトのハードボーラーが弾丸を放つ。マルゥはそれを避けて距離を詰めた。せめて銃を落とせればポテトを傷付けないで確保することができるかもしれない。
「マルゥ、手加減をするな!」
ポテトの悲鳴にも似た懇願に、しかしマルゥは応じない。刀を振りかぶる。
「嫌だね!」
拳銃に向けて刀を振り抜くがポテトはそれを躱して前進する。通常の彼女の動きではない。ハンドガンを得物にしている戦士ならば自分だけが有利に戦えるレンジに敵を置く。距離を取るはずだ。虚を突かれたマルゥは一拍遅れでバックステップ。体を捩じって刀を引き、峰を摘まんだ。刀の柄を握っている右手は前に、峰を持った左手はうしろに。そこからもう一度体を捩じることで前進してくるポテトを躱す。彼女がこちらを向くより早く峰を離すと、刀が素早く翻る。
——“
デコピンと同じ要領の高速斬撃だ。ポテトの横を取っての一撃は腕を狙ったものだったが、逆側の掌がそれを防いだ。いや、防ぎきれていない。掌に深々とめり込んでいる。持っていたはずの拳銃はいつの間にか地面に落ちていた。ここで引き抜けば手が千切れ跳ぶ。攻撃手段が減れば制圧しやすくなる。普通ならばそうする。元々のそのつもりで攻撃をしたはずだ。しかし親友の手を切り落とすと言う行為自体にためらいが生まれた。
「斬れマルゥ!」
迷いを叱咤するように叫んだポテト。同時にハードボーラーが咆える。
——ガゥンッ!
弾丸はポテト自身の掌を砕いた。
「えっ」
そして同時にその掌が握っていた刀——
自分の手を犠牲に刀を破壊したのだ。こんな戦い方があるのか。
呆気に取られたマルゥの顔面に銃口が向く。トリガーが引かれる瞬間に頭を下げて躱した。折れた刀の残った部分で下から切り上げ銃口に当てる。銃口は潰れた。その刹那にポテトは銃をマルゥに向かってぶん投げ、先ほど落とした銃を拾い上げてバックステップをした。
——ドサッ。
不意に背中の方でなにかが落ちる音がした。視線をうしろに回せないマルゥの代わりにポテトが叫ぶ。
「マリエル!」
ポテトのうしろに控えていたアビスが鼻を鳴らす。
「ポテトが不甲斐ないのでな。保険だ。そこのメスザルには気絶してもらったよ」
ポテトは銃を構えて掌が無くなった方の腕でトリガーを隠した。自分が引き金を引くタイミングを悟られないための策だ。
これならばマルゥの
「マルゥ。君の勝ちだ。だからさっさと僕を殺して、マリエルを——」
「ざけんな!」
「そうだぞポテト。お友達を困らせるようなことを言ったらダメじゃあないか、なあ?」
そう言ってアビスはポテトの背中を触った。
「なにを……う、うぐぁあああああああああぁぁぁぁぁああああぁぁぁああああああああ!!」
「ポテト!?」
ポテトは変わらず拳銃を構えたままだが、表情だけが苦悶の表情を浮かべていた。
「なにしやがったてめえ!!」
「ポテトが貴様を困らせるようなことを言っただろう? 自分を殺せだなんて。そんなの、痛みのない人間が言うことだと思わないか?」
「痛み……」
アビスはポテトの痛覚神経をオンにしたのだ。弾丸で破壊した掌の痛みが、今さらに伝わって来たのだ。
「ゲスがぁああ!」
「おっと。貴様の相手はオレではない」
アビスの言葉に反応するようにポテトが前に出る。苦痛に顔を歪ませながら、トリガーを引き続ける。マルゥはそれを避けながらに前進しようとするが踏みとどまる。痛覚が戻ったポテトに刀を突き付けられるのか。その迷いがマルゥをその場に縛った。
「マルゥ。君の間違いはおそらく『判断』じゃあない。僕が同じ立場でもきっと同じ判断をしてきた。間違いはない」
弾丸が放たれた。マルゥは避ける。
「でもイットウサイは死んだ」
今度はマルゥが前蹴りを放った。防御をしたがよろめいて後退る。
「アビスの言っていたことは嘘だ。ここが攻撃を受けたのは君がここに来るずっと前だ。仮に君が真っ直ぐここを目指していても間に合わなかったさ」
向かってきたポテトを外側へいなし足を掛ける。
「なら俺はなにを間違えてここに立っている」
転びそうになったポテトだったがすぐに向き直る。
「なにも間違えてない。むしろこれから間違いを犯す。僕を殺すと言う間違いを」
「できるわけないだろ!」
マルゥは掌底を放った。ポテトはそれをがっちりと受け止めている。
「できる。いや、やってくれ。僕は君を殺したくないし、なによりマリエルを殺したくない。君がここで死ねば僕はマリエルを殺さなければいけない。それだけは絶対に嫌だ。頼む。間違いを犯してくれ!」
今にも泣きそうな顔をしていた。もしも彼女に涙を流す機能が搭載されていれば、泣いていただろう。マルゥは彼女の泣いた姿を見たことがない。そして同時に、これほど真剣に頼んでくる彼女もまた。
友を殺すことは間違いだ。だが、友に殺させて、最愛の人を殺させるのもまた間違いだ。新人類は間違いを犯さないが、それは誰にとっての間違いなのか。
「お願いだ。僕をこの地獄から救ってくれ。君には酷なお願い事をしているという自覚はあるんだ。でも、もう、つらいんだ。助けてくれ。楽にしてくれ」
マルゥは刀の柄を強く握った。彼女にはこれ以上してあげられることがない。意を決し、折れた刀を走らせた。
左脇腹から右肩に閃く。一本の線。
ポテトの胸部からは細い銅線をいくつも飛び出し、そこからパチパチとスパークが上がった。
神経回路のほとんどが切られた彼女は銃を落とし、そのまま前に倒れて来る。マルゥはそれを受け止めた。
「ありがとう」
とても明瞭で、安らかな声だった。
マルゥが前を見ると、アビスと視線が交差した。
「まさか、友を殺してしまうとはな……。いやはや、いくらなんでも計算外だったぞ。痛覚を戻してやったらさすがに降参してアリスを殺すと言うと思ったのだが」
わざとらしく驚きを口にしているが、目じりでニタニタと笑っている。
アビスの横にアリスを抱えた男が来た。彼女はまだ意識を失ったままだ。
「このメスザル一匹にどれだけの価値があると言うのだろうな。少し興味が出て来たぞ」
そう言ってアビスは一枚のカードを投げた。
ヒュルヒュルと回転しながらマルゥの元まで来たそれを指先でキャッチする。
「地図だ。アリスを取り戻したければ来い」
そう言ってアビスたちはアリスを連れて去って行った。
マルゥはポテトを抱えたまま、ぼんやりとそれを見送った。今追い掛けて刺激するのも良くないだろう。気絶しているアリスを殺すことなどわけないのだから。
「マルゥ……」
か細い声が聞こえた。
「ポテト!」
マルゥはポテトの手を掴んだ。
「君には悪いことをしたね」
「俺の方こそ。やっぱり友を殺すなんて、間違っていた。これは、悪い間違えだった」
「間違えに、悪い間違えも良い間違えもないだろう。君はとにかく間違えることができたんだ。君が間違えてくれたおかげで僕はマリエルを殺さずに済んだ。やっぱりエリアd01でした僕の決断は間違ってなかった。マリエルを守るのは君が適任だ。間違えられる君と間違わない僕だったから、この結果に辿り着けた」
「こんな結果にしかできなくて、すまない」
「ふふ、君はやさしいね。ところでマリエルは、僕のことを覚えていたかな?」
その問いに正直に言おうか逡巡しているとポテトが破顔した。どうやら胸中を読まれたらしい。
「そう悲しい顔をしないでくれよ。大丈夫。ラストイニシエーターの記憶は消されている。それはわかっているから」
「なんだよ、試すようなこと言って」
「ふふ、ごめんごめん。でも、もしかしたら覚えているかなって、少しだけ期待が在った。でもどうやら覚えてなかったようだ」
彼女は笑っていたが、マルゥはやりきれない思いが在った。
「お前はわかっていたのに助けに行ったんだよな。しかもあの状況だ。初めから危険だってことも明らかだったのに。なんでだ?」
「言っただろう? マリエルには恩が在った」
「でもその恩も、覚えちゃいなかったぜ」
「僕のことを覚えていないからと言って彼女が僕にしてくれたことがなかったことになることはないし、マリエルではなくなることはないんだよ。記憶がなくたって、彼女は彼女だ。また生きて思い出を作ればいい」
割り切っていると言うよりは、達観したうえでさらにアリスの未来を思っているようだ。
「まあでも僕のことを忘れてくれていて、良かった」
その言葉にマルゥは眉をひそめる。
「良かねーだろ」
「良いんだよ。僕はもうすぐ死ぬ。もしも彼女が僕のことを覚えていたら、とても悲しい気持ちにさせるだろう? 彼女の心の負担になりたくはないんだ。この思いは僕が一人で抱いて行くよ」
どれほどの思いがあれば、彼女をここまで献身的にすることができるのか。
「でもよ、それってつらくねえか?」
「つらいよ」
あっけらかんと言われて、マルゥは言葉を失った。
「けどね、そのつらさも丸ごと、思い出として持っておきたいんだよ」
「それが、心と言うもんか」
「いいや」
ポテトはマルゥから目を切って天井を見つめた。煤けた骨組みの先には青空が広がっている。彼女はそこにアリスを思い浮かべているのだろうか。眉が上がり目じりが下がる。
「愛だよ」
「愛……」
マルゥは息を飲んだ。目の前のポテトが、それはそれは愛おしそうに虚空を見つめている。まるでそこにアリスがいるように、慈愛に溢れた表情をしている。
「君に、もう一つ頼みがあるんだ」
視線がマルゥに戻った。
「なんだ」
「アビスは罠を張っているだろう。あいつは君に対してとても警戒している。僕をけしかけたのも、さっきマリエルを殺さなかったのも、君との直接対峙を避けるためだ。わざわざあとから指定の場所に来させると言うのも、確実に勝てる万全の状態で君を迎え撃ちたいのだろうね。君とは戦いたくないが、脅威をそのままにしておきたくはないということさ」
「そうか」
「でも、……マリエルのために、行ってほしい」
「ああ。わかった」
二つ返事だった。
「君ってやつは……どうしてそこまで」
マルゥは笑顔を向ける。
「ダチだろ。そいつが困ってる。なら助ける。そんだけだ」
ポテトは満足そうに目を細めた。輝きの増した瞳は、さながら星空のよう。
「僕は本当に幸せ者だよ。ありがとう。もしも生まれ変わっても、また君の友達になりたいな。こんなに心がポカポカする人は、他に居ないからね」
「俺もお前とまた一緒に、畑を耕したいぜ」
かつてマルゥは月で働きたいと言った。だが思い通りに行かないことの愚痴を聞いてくれる親友が傍で畑を耕してくれると言う日常が、なににも代えがたい美しき日々だったと今さらにして気が付いた。本当に大切なものは、戦わずとも初めから得ていた。
「ありがとう」
彼女は穏やかな笑顔を浮かべて、それから瞳を閉じた。先ほどまで本当に死ぬのか疑わしいほど明瞭で快活な声を出していたのに、その唇が動くことは二度となかった。
遠くで細く上がっていた煙が棚引いて、マルゥの周りを包んだ。視界が、仄かに白くなった。
「俺は……」
誰もいなくなった廃墟の中心で、呟く。
「いったいなんのために、戦っているんだ……」
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