私の桜 ―― あの木の下には、まだ〝それ〟がいる

青色豆乳

私の桜 ―― あの木の下には、まだ〝それ〟がいる

 子どもの頃、よく遊んでいた公園の奥に、登りやすい木があった。子どもの手に届く高さに枝があり、その枝にぶら下がって、ぐいと体を持ち上げれば、一番下の股に足をかけることができた。運動音痴の私にも登れる木だった。


 私にとって特別な木だった。


 幹は深い蘇枋色をしていて、陽光を浴びるとほのかに光沢があった。横に細い筋が何本も走っていて、触れると指の腹にささやかな凹凸が感じられた。木は桜の若木で、春には白に近い花が密に咲いた。その様はまるで光を纏ったようで、木全体が静かに発光しているようにすら見えた。


 その木から、何度も空を見上げた。花の頃も、青葉がしげり、紅葉した葉が落ち、寒さに耐える季節も。私はよく意味もなくそこに登っては、一人でぼんやりと過ごしていた。


 広い公園だった。今では〝○○森林公園〟などという立派な名前がつき、アスレチックやバーベキュー場も整備されているけれど、当時はもっと雑然としていて、自然のままの植生がそのまま残っているような場所も多かった。整地されていない道はぬかるみやすく、虫やカエルがたくさんいた。


それらは一人ぼっちの私のおもちゃだった。子どもらしい残酷さで、私は虫を分解したり、カエルを潰したりすることがあった。それは他の子どもに見つかることとなり、私はますます仲間外れになった。


 ある日の夕方、私はまた一人でその公園にいた。


 私は公園の端にある池のそばを歩いていた。帰る途中だったと思う。池には冬越しの、枯れた背の高い葦がたくさん生えていて、隙間から濁った水面が見えていた。


 そのとき、池を囲む柵の隙間から、何かが出てきた。


 猫くらいの大きさだった。だが、全体が黒い。漆黒というよりも、墨を水に落としたような曖昧さで、まわりとの境界がぼんやりとしていた。ぬらりとして、輪郭が常に溶けているような存在。金属臭の混ざったような沼の臭い。


 何か、これは悪いものだ。私は直感した。思考より先に、身体が後ずさっていた。


 ぞろり、ぞろり。


 黒い塊が私の方へ向かって移動してきた。素早いわけではない。でも確実に、逃げようとする私との距離を詰めてくる。


 ぞろり、ぞろり。


 砂利をすり潰すような音を立てながら、黒い塊は追いかけてくる。私は、恐怖に突き動かされるようにして走り出した。木々の間を縫うように、必死で足を動かした。草むらをかき分け、枝に引っかかりながらも、とにかく前へ、前へ。


「こっちを見てる――!」


 振り返ってはいけないのに、私は見てしまった。黒い塊には目がなかった。だけど、間違いなく〝こっち〟を見ていた。私の通った後をなぞるように、ゆっくりと、だが正確に追ってくる。


 足がもつれ、転んだ。手のひらが泥で濡れた。痛い。息が苦しい。叫びたいのに声が出ない。全身が硬直して、立ち上がれない。


 そのときだった。かすかに、白い光が前方に見えた。あの木だった。光は花だった。


 声にならない声で叫びながら、私は這うようにしてあの桜の木へと向かった。導かれるように枝を掴み、登った。花が、私の体を包むように、やさしく揺れていた。


 黒い塊は木の下まで来ると、しばらくその場に留まり、うねるように形を変えてから――音もなく、すうっと消えた。


 どっと汗が噴き出してくる。荒い息を必死で抑えて、私は幹にしがみついた。


 風の音、木のざわめき、盲人用信号の音楽、近くのモノレールの駅に車両が止まる音。急に世界が戻ってきた。あの塊が出す音以外の音が、いっせいに耳に飛び込んでくる。


「何時まで遊んでいるの!」


 突然下から声をかけられて、私は文字通り飛び上がった。危うく落ちそうになった。木の下には、恐い顔をした母が立っていた。


 私は木から転がり落ちるように降りて、母にしがみついて泣いた。母のエプロンから、カレーの匂いがした。母は頭をなでてくれた。また、よその子どもに虐められたと思ったのだろう。


 私はこの話を誰にもできなかった。思い出すのが怖かったからだ。


 そして私は大人になり、あの時の記憶は薄れ、夢でも見たのだろうと思うようになった。


 ――――


 何年かぶりに地元に戻ってきたのは、母が亡くなったからだ。葬儀では、白髪の増えた兄弟に、不義理を責められた。私だけが遠くへ行って、連絡を疎かにしていたのだから、何も言い返せなかった。


 斎場を出たあと、空気は生ぬるく湿っていた。春なのに、肌にまとわりつくような湿っぽさだった。私はふと、あの木を見に行こうと思った。


 公園の構造はすっかり変わっていて、当時の面影を探すのは難しかった。けれど、記憶に導かれるようにして、私は奥へ奥へと進んだ。


 そして、あの木を見つけた。


 地面から1メートルほどを残して切られた幹。その表面は黒ずみ、ぼこぼこと小さな瘤がいくつもできていた。

 ところどころ、白っぽい緑の乾いた苔のようなものが張りついていた。幹の側面から直接、新芽が芽吹いていた。

 新芽は緑の紐のように幹に絡みついて、木から最後の命を搾り取っているように見えた。ひこばえが何本も、脇から伸びていた。木は、死を待つだけの老木になっていた。


「戻って来なければ良かったのに」


 どこからともなく声がした。昼間なのに空が暗くなり、急に温度が下がった。世界が裏返ったような、気味の悪さが背中を撫でていく。そして、あの、沼の臭い。


 ぞろり、ぞろり。


 後ろで、あの音がする。私は振り向くことができなかった。膝が震え、視界が歪む。それなのに、首だけが、勝手に動こうとする。


 いやだ。見たくない。


 それでも、私の体は、ゆっくりと、拒否する意思とは裏腹に振り向いてしまった。

 切り株の影から、あの黒い塊が顔を出していた。いや、〝顔〟ではない。ただ、そこにある〝闇〟が、私を見ている。


 ひこばえの枝先に咲いた花が、かすかに揺れていた。

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