私は昨日を読まされる
N氏@ほんトモ
第1話
夜が明けるたび、私は“昨日”を読まされる。
目覚まし時計のアラームが鳴り響く。最初は夢の中にいるような感覚だった。音が遠くから聞こえてくる。まるで自分がこの世界の一部ではないかのように、音だけが浮遊している。でも、次第にその音が現実のものだと認識し、私は目を開けた。
目に入ってくるのは、見慣れた天井、白い漆喰の壁、そしてくすんだベージュのカーテン。それが私の部屋だと思い込んでいる。でも、どこかでそれが本当だと確信できない。何もかもがどこか不安定で、霧の中を歩いているような感覚に包まれる。私は立っているけれど、地面に足がしっかりと着いていないような浮遊感が抜けない。
“これは私の部屋。間違いない。”
でも、それが正しいのかどうか、確認したくてもできない。目の前に広がるこの景色に意味を見いだせない。目をこすりながら、息を大きく吸って、その感覚を振り払おうとする。でも、振り払えない。だからこそ、私はいつも目覚めるたびに、この部屋に何度も問いかける。自分の名前、歳、今日の日付、どんな一日が待っているのかを、確認するために。こんなにも、確認し続けることが必要だと思っている自分に、嫌悪感すら抱く。
この世界では、記憶は夜にリセットされる。病名は「連続性健忘症候群」。通称、スリープ・シンドローム。感染性の脳内タンパク質が原因とされ、世界人口の98%が発症している。かつてはワクチン接種後の副反応と言われたが、今ではもう、原因などどうでもよくなった。ただ事実として、世界中の人々が「記憶を引き継げない」という現実の中で生きている。
だから人々は、日記、メモ、録音、手書きの地図などを駆使して、自分という人間の輪郭を毎朝なぞるしかない。だが、そこに“嘘”が入り込めば? 書き換えられたメモを真実だと思い込んだまま、私たちは日常を演じる。
寝返りを打つと、枕元に置かれたノートが目に入る。茶色いクラフト紙の表紙。手に取ると、少しだけ湿っているような感触が指先に伝わる。毎晩、何かを書いたのだろうか。書くことが私の日課であり、唯一、自分をつなぎ止める手段だと感じている。
ノートを開くと、ページには黒いインクで筆記体が踊るように書かれている。初めて見る文字ではない。私自身が書いたものだと、確信している。でも、どこかで違和感を覚える。それがまるで他人の手によって書かれたかのように感じる瞬間があるからだ。
「あなたの名前は橘ユキ。27歳。編集者。今日も昨日も、きっと明日も記憶は失われる。」
その言葉を、目の前で繰り返す自分の声が、頭の中で響く。いや、耳の奥で震えるような感覚だ。私は、今日もまた、記憶を失ってしまうのだろうか。失われてしまった過去が、私を裏切っているように感じる。記憶が無い分、自分がどこに立っているのかも分からない。過去を探し続けるけれど、その足元があまりにも不安定で、踏みしめる大地が崩れ落ちるのではないかという恐怖がついて回る。
ページをめくると、そこに「今週の目標」と題されたリストがあった。
・編集部に10時集合
・前日の自分からのメモを、朝イチで必ず確認
・会議は週3(月・水・金)午後2時から。議事録を必ず取る。
・黒い表紙のノート=社内共有。白いノート=自分専用。絶対に間違えない。
・「特集:記憶と手帳」企画のリード原稿、火曜までに提出
・コウジに近づかないこと
・誰かがメモを改ざんしていた疑いあり。気をつけて。
「コウジに近づかないこと…?」その言葉が私の心に刺さった。コウジ? 誰だっけ?ノートを確認してみる。自分の勤め先の人間関係の一覧の一番上にその名前と写真があった。メモによると同期の同僚で席も隣、普通に食事に行く仲らしい。そんな人に対してどうして昨日の私が「近づかない」ことを決めたのか、それを全く思い出せない。記録に頼らなければ、自分の心がそのままの自分でいられないということが、こんなにも恐ろしい。
手が震える。コウジに近づかないこと、という一文が、まるで予言のように私に重くのしかかる。もしかしたら、彼は私にとって危険な存在なのかもしれない。もし、そうだとしたら、私はどこでそれを確認したのだろうか?
その日、私は編集部に向かうために準備を始める。支度をしながら、頭の中でコウジのことをを想像する。同期の同僚、席も隣。彼がどんな顔をして私に話しかけてくるだろう? それを想像するだけで、胸が締めつけられる。もし、彼が“何かを隠している”ならば、私はそれに気づけるのだろうか?
編集部に到着すると、もうコウジはそこにいた。明るい笑顔を浮かべている。彼の笑顔は、まるで太陽のように、私の心に温かさを与えてくれるはずだった。しかし、今はその笑顔が、私の心に疑念を投げかけている。
「おはようユキ。いつも綺麗な笑顔だね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸に痛みが走った。どうしてこんなにも心がざわつくのか? 昨日の私は何を思い、何を感じていたのか。それを知りたくても、知るすべがない。私が昨日感じたことが、今、確かに存在しているのだろうか? それとも、それもまた、誰かによって書き換えられているのだろうか?
「昨日、私と何かあったっけ?」なるべく普通を装って話しかける。
「え?」コウジは少し間を置いてから、自分のシャツポケットに手を伸ばした。そして、小さなメモ帳を取り出した。「あ、うーん……」彼はメモ帳をパラパラとめくりながら、何かを確認しているようだ。「ああ、そうだね。昨日、ランチに行ったよ。君が行きたいって言ったカフェにね。」
「行きたいって…言った?私が?」その言葉が頭をよぎる。私がそんなことを言ったのか? 当然だが記憶にない。記憶がまるでパズルのように欠けている。この空白が怖くてたまらない。記憶の断片は、断ち切られているような感覚だ。
「でも、君、昨日は元気そうだったと思うよ。特別普段とは違ったことは無かったと思うけどな」コウジが言ったその瞬間、私は彼の表情に一瞬違和感を覚える。彼の言葉は、優しさに包まれているように見えるが、その中に何か、計算されたような冷徹さが潜んでいる気がする。私はそれに気づいた瞬間、全身に鳥肌が立つ。
彼はどこかで私を欺いているのだろうか? それとも、私自身が何も覚えていないだけなのか?
退勤直前に、私はコウジからメッセージを受け取る。「この後、会えないか。話したいことがある。」その一文が、私の心を完全に支配した。彼の言葉が、私を恐怖に駆り立てる。彼は何を話そうとしているのか? それが嘘でないのか? もし、これまでのすべてが嘘だったのだとしたら、私はどうすればいいのか?
私は、自分の記憶を信じることができない。
でも、どうしても答えを求めずにはいられない。
夜のカフェ。コウジは既にいた。私が席に着くと彼はノートを取り出した。
「見せるよ、僕の昨日を。これがすべてだ」
私はノートを受け取り、急いでめくった。そこには、私と過ごしたランチの記録、店のスケッチ、そして最後にこう記されていた。
「ユキにメモを書き換えたことを、いつか告白しなければならないかもしれない。でも、それは彼女を守るためだった。」
その一文を目にした瞬間、胸の奥が熱くなり、喉の奥がつまった。言葉が、出なかった。けれど、心だけが叫んでいた――なぜ?
しばらくしてようやく声を絞り出す。
「……どうして、そんなことを?」
コウジはどこか遠くを見つめるような目で、静かに口を開いた。
「昨日、君のノートが開いたままになっていて……ふと、目に入ってしまったんだ」
「え……?」私は一瞬、息を飲んだ。
コウジはゆっくりと、まるで言葉を選びながら語った。
「そこにね、『死にたい』って書いてあった」
時間が止まったようだった。音も、光も、空気さえも、すべてが遠ざかる。
その静寂を破るように、彼が小さく、しかし確かな声で続ける。
「昨日の君は、そう思っていたんだろうね。でも、今日の君には、そのことを知らないままでいてほしかったんだ。」
<了>
私は昨日を読まされる N氏@ほんトモ @hontomo_n4
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