名前のない精霊王 第一部
深い闇の中に、名も知らぬ光が落ちていった。
それは夢だった。
いや、夢とすら呼べない、もっと原初の記憶の底。
まるで世界の始まりを覗き込んでしまったような、理(ことわり)なき景色。
大気は蒼白く、風は声を持ち、炎は命を抱き、水は記憶を抱いて流れる。
そこに生まれたばかりの意識――それが、彼だった。
彼は自分に名前がないことを知っていた。
しかし、それを不思議には思わなかった。
ただ世界の“声”に、静かに耳を澄ませていた。
世界の果てで、竜が哭いていた。
「……嗚呼、なんと……懐かしい響きだ」
誰かの声ではない。彼自身の意識がそう告げた。
竜の哭き声は、絶望ではなかった。祈りだった。
何かを失い、何かを望み、誰かを探していた。
その声は、彼の心を強く揺らした。
竜の咆哮が過ぎたあと、風がそっと問いかけてきた。
――お前は、何者か。
彼は答えられなかった。
まだ自分が何なのかを知らなかったから。
だが、その問いがあまりにも温かくて、気づけば声にならない声で応えようとしていた。
けれど言葉にならなかった。
なぜなら、彼には“名”がなかったから。
そのとき、大地が震え、空が割れ、海が笑った。
精霊たちの誕生だった。
火の精、風の精、水の精、土の精……この世界を彩る多くの存在が、彼の意識の中から溢れ出していった。
彼は理解した。
自分は、彼らの源なのだと。
名もなきまま、命を分け与える者――精霊王。
けれど誰も彼に名前を与えてくれなかった。
彼を讃える言葉も、讃える者すらも、まだ存在しなかった。
だからこそ、彼は静かにその場に佇み、名を持たぬまま、ただ見守っていた。
炎が命を温め、風が言葉を運び、水が記憶を流し、土が全てを抱くのを。
――そのはずだった。
だが。
彼の静寂を破る存在が現れたのは、それからどれほど経った頃だっただろう。
白銀の鱗をまとい、蒼き瞳に星を宿す竜。
他の何者とも違う、孤独な魂を抱いた竜が、彼の元を訪れたのだ。
「……なぜ、泣いている」
その竜が、初めて言葉を持った存在だった。
彼に向かって、直接問いかけた者だった。
その一言に、彼の胸の奥がきしむ。
――なぜ、泣いている。
そうだ、彼は……泣いていたのだ。
名も、形も持たず、ただ在るだけの存在として。
だが、竜は彼に触れた。
言葉でなく、鱗でもなく、魂で。
名もなき精霊王の、名を持たぬ孤独に。
「お前に、名をやろう」
その言葉が、世界に響いた瞬間。
全ての精霊たちが、風を揺らし、水面を震わせ、命を歌った。
それが契りの始まりだった。
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