壁
草森ゆき
壁
大きな笑い声と手を打ち鳴らす音が部屋中に響き渡り、猪本はビクンと体を跳ねさせ瞼を開いた。眠っていたが、目覚めてしまった。
舌打ちをしながら体を起こし、
「今日もかよ……クソが……」
と忌々しげに呟くも、再びの笑い声に掻き消された。
もう数週間は続く騒音に、猪本は眠れないまま朝を迎える日々を過ごしていた。
猪本の住むアパートは古めかしく、築四十年は経つ物件だ。朽ち掛けている外観のさることながら、各部屋の壁の薄さもかなり際立っている。壁紙自体は剥がれているし、穴が空いたまま放置されている部屋も存在する。その代わりに家賃は破格の安さだ。そのため、フリーターである猪本は住み続けていた。
潔癖症でもなければ住まいに対する拘りもなく、立腐れそうな部屋に居続けて何の問題もなかった筈だが、安寧が崩れ去ったのは隣部屋が埋まってからだ。
「やっほ!やほやほ!サバンナ!チャンス!!」
突如派手に鳴り響いた音に猪本は驚いた。何かしらの曲で、続いてドラムロールのような音が響く。どんどんどん、と三回単発の音が鳴る。大量の細かい金属をじゃらじゃらと落とす音がする。
ここまで来れば猪本もわかった。スロットである。隣部屋に入った人間はスロット台を所持しており、遊びとして部屋の中で回していたのだ。
「うるっせえ……!」
猪本は耳を塞ぎつつ、すぐさま隣部屋に注意しに行った。時間は二十三時頃で、翌朝五時には起きるからもう眠りたく、スロットの音など聞かされていてはたまらなかった。
呼び鈴を鳴らすと眼鏡に髭という出で立ちの男が顔を出した。
「すみません、うるさいんでスロットやめてもらえませんか?」
と猪本が注意すると露骨に顔を顰めたが、このアパートの壁の薄さやスロット音量の大きさや隣人である自分の生活時間などを滾々と説明していけば、最後には渋々と言った様子で頷いた。
分かってもらえたのなら良かったと安堵するも、甘かった。
スロットは猪本の不在時にしかやらなくなったが、今度は壁を通過する声量で話すようになったのだ。
もちろん猪本は抗議に向かった。しかし隣人はにやにやと薄汚く笑いながら言った。
「おれ、お笑い芸人なんすよ。ネタ合わせは仕事ですし、ダブルワークでコンビニバイトもしてるんで、この時間しか相方と話せないんですよねえ。おれの生活時間なんで、耳栓とかで対応してくれません?」
仕事と生活時間を持ち出されてしまえば引き下がるしかなかった。
こうして猪本の順当だった暮らしは睡眠不足に陥った。
耳栓で対応と言われ、はじめは試した。しかし高性能な耳栓にしてしまえば精度が良いあまりにアラームが聞こえず、安物の耳栓にすれば隣部屋の音が一切遮断されず眠れなかった。
睡眠負債は溜まる一方だった。あれから数度抗議に向かいはしたが梨の礫で無意味だった。それならばと大家に隣人の騒音について相談するも、こちらはこちらでまともに対応する気はなさそうだった。
大家は気色ばむ猪本を制し、半笑いで言った。
「そもそもこの築四十年のおんぼろ激安アパートで、騒音がない方がおかしいですよ。壁は薄いし防音なんてほとんどしてないし……申し訳ないんですけど、こっちで出来るのは隣人さんに多少注意することくらいですねえ。まあ、今度伝えておきますよ」
話はこれで終わった。大家は一応隣人に注意をしたが、状況は一切変わらなかった。
猪本は毎夜毎夜ネタ合わせと称した雑談を聞かされ続け、どんどんと眠れなくなっていった。隣人の騒音がない日ですら笑い声や手を叩く音を幻聴として聞いてしまい、飛び起きるようになってしまった。
半年耐えた。その間に、睡眠時間が一時間を切った。医者にかかり睡眠薬をもらったが、飲んでもうまく眠れない日が続いた。常に脳がぼんやりとし、どんな音も騒音に聞こえるようになった。特に話し声だ。笑いながら歩いている女子高生のグループがとんでもなく煩く感じ、殴り掛かりたくなって拳を握ったがなんとか抑えた。光の眩しさが異様で、目の奥が常に疼痛に支配されていた。仕事中は気力で動いた。疲弊して帰り床に就くと笑い声と手を叩く音が響いて脳が覚醒し続けた。
「いい加減にしろよ!!」
猪本は壁を殴った。その一瞬だけ音が止んだ。壁はめりめりと音を立てていた。また笑い声。手を鳴らす音。壁を殴る。音が止む。笑い声。話し声。殴る。めりめり、ばきばき。
何かが聞こえなくなるまで壁を殴った。猪本はいつの間にか昏倒しており、目覚めると朝だった。何度も殴った壁にはヒビが入っていた。壁紙をはがし、拳でどんどん叩き、ヒビの奥をほじ繰り返すと、腕力ではどうにもならないコンクリートが現れた。猪本は構わずにコンクリートを殴った。隣人は特に何の反応も示さなかった。
猪本は夜中に声が聞こえる度に壁、コンクリートを殴るようになった。笑い声や話し声がぶつ切りになる様子は愉快だったし、コンクリートに対する単純な暴力はストレス解消にもなった。どんどん、どんどん、猪本は壁を叩き続けた。
隣人はそのうちに笑わなくなり、話さなくなった。
引っ越したのだった。それでもストレス解消として味を占めた猪本は、叩くことをやめられなかった。拳は血が滲み、豆ができて、盛り上がった。壁に付着した血は茶色くこびりついて汚らしかった。拭きもせず、殴った。コンクリートはこの程度では割れなかったが殴る度に揺れた。みしみしと音が鳴り、それは部屋全体に響き渡った。時折天井から細かな破片が落ちてきた。
猪本は満足したところで手を止め、睡眠薬を口に放り込んでから布団に入った。もう朝方の四時頃だった。二時間ほど眠ってから仕事に向かい、壁を殴る感触を反芻しながら働いた。
その帰り道である。猪本は偶然、地下にある居酒屋へと足を運んだ。店内に公演スペースのある居酒屋で、ちょうど無名の若手芸人が漫才を披露していた。猪本はすぐに気が付いた。
隣人だった。
漫才終了後に簡単な挨拶をして店外へ出て行った隣人を猪本は追い掛けた。相方らしき男もいたが、気にしなかった。隣人の肩を乱暴に掴み、部屋のコンクリートの壁を思い浮かべた。無拍子で殴った。鼻と頬骨の中間辺りに拳がめり込み、隣人の眼鏡と鼻血が道路上にぼとりと落ちた。悲鳴と絶叫を聴きながら、猪本は足を振り上げた。勢いよく上がった爪先は偶然鳩尾に入った。うずくまる隣人を猪本は更に蹴って、殴った。相方らしき男はいつの間にか逃げておりどこにもおらず、周囲には喧嘩を眺める人集りが出来ていった。
猪本は満足したところで手を止め、帰ることにした。
人集りは猪本が振り向くと蜘蛛の子を散らすようにざっとばらけた。その波の中に紛れ、猪本はアパートまで上機嫌で向かった。
自分を苦しめ不眠症にまでした男に復讐出来て心地良かった。猪本は部屋に入り、缶ビールを開け、日課のように壁をどんと殴り付けた。
その数分後に、部屋の呼び鈴が鳴らされた。誰かと思って出てみれば大家たった。半笑いを浮かべながら猪本の頭から爪先までを眺めたあと、溜め息を吐いてから言った。
「猪本さん、ドンドンドンドンうるさくて眠れないって他の住民から苦情があるんですけどねえ。おたく、以前は隣人がうるさいって文句を言っていたくせに、今度は自分がクレームもらってるんじゃあ世話ないですよ。まあ、注意しかしませんけどね、気を付けてくださいよ……ああ後、壁の修理費は退去のタイミングで請求するんで、よろしくお願いしますねえ」
無意識に握った拳は壁にも大家にも振り上げられなかった。
何もない空間に向けて一度だけ拳を突き出してみたが猪本を少しも満足させはしなかったし、これからも続く眠れない日々が壁の側面をむなしく転がるばかりだった。
壁 草森ゆき @kusakuitai
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