第4話 玲子様、幽霊と仲良くなります

 玲子の母・千賀子は、榊原隆之が故郷の三国へ帰省した際、親のこさえた借金のかたに東京へ連れて来られた女性だった。

美しい容姿が隆之の目に留まり、妻としてではなく、いわゆる愛妾として離れに住まわされた。そして、玲子がまだ五つの頃、千賀子は忽然と姿を消した。一説には男と駆け落ちしたと言う話しだ。


 そんな過去を持つ玲子に、正妻である百合絵が愛情を向けるはずもない。玲子は榊原の籍を持ちながらも、居候のような娘として扱われ、幼い頃から一度も「家族」として迎えられたことはなかった。


 気づけば、玲子の居場所は、家の奥まった離れと決まっていた。

朝は誰よりも早く起き、誰よりも遅く眠る。炊事洗濯をこなし、作った食事の残りをひとり静かに口に運ぶ生活。男爵家の令嬢であるにも関わらず、下働きのような生活を送り、針仕事を請け負うことで、僅かな金銭を受け取り、かろうじて生き繋いでいた。

誰にも期待しない。

誰にも頼らない。

 いつしかそれが、玲子の生き方となっていた。


 だから、こうして舞踏会に立たされているのも、父の「顔を売ってこい」の一言がすべてだった。

 玲子にとって、この場所は“居場所”ではなく、ただ、命じられた通り立っている、それだけだった。


 着慣れぬドレスは継母のもの。丈が合わず、肩が浮いてしまう。華奢すぎる自分の体がそれを着こなせるはずもなく、鏡に映る姿に思わず視線を逸らしてしまった。

華やかな社交場に咲く花たちの中で、玲子はただの影だった。

 

そんな時だった。

ふと気づいた、部屋の隅にたたずむ侍姿の幽霊。

玲子には、霊が視える。

それが己に備わった“異能”なのか“呪い”なのか、判断はつかない。

ただ一つだけ分かっているのは、視えてしまうものは、大抵“哀しみ”をまとっているということ。


その幽霊もまた、誰からも気づかれず、孤独の底に沈んでいるようだった。


玲子の中では、幽霊という存在は“恐れるべきもの”ではなく、“自分と似た、世界に馴染めぬ者”。

そして、目の前のこの侍の幽霊である藤堂一将は、確かに玲子に似ていた。

誰からも見えず、誰からも呼ばれず。ただそこにいるだけ。

玲子はその姿に、ひとりの「友人」を見出した気がしていた。



 一将と名乗る幽霊は、凛々しくも親しみを湛えた面差しをしており、不思議と居心地がよかった。


『話し相手くらいなら付き合えるが、伴侶に望まれても困るぞ。拙者はもう、手遅れゆえな』


 冗談めかす口調に、玲子は思わず微笑む。けれどすぐに、少しだけ陰りのある瞳を落とした。


「……そのような意味ではありません。ただ、わたくしには……誰かに必要とされる資格があるのか、時折、分からなくなってしまうのです」


 それは玲子の、深い本音だった。

 何かを望んではいけないと思っていた。

 笑ってはいけないと思っていた。

 ただ黙って、生きていればそれでいいと、そう教えられてきた。


『玲子殿……』


 それ以上の言葉はなかったが、一将の目には静かな慈愛が宿っていた。


「でも、一将様とお話できて……少し、心が軽くなりました。ありがとうございます」


 玲子がそう言った時だった。

 視線の先、談笑する将吾と尚文のもとに、飲み物を乗せた給仕が現れた。尚文が声をかけ、ふたつのグラスを受け取る。

 刹那。

 玲子の肌に、突如として冷気が走った。

 一将の気配が、明らかに変わったのだ。


『……あのグラス、ただならぬ気が漂っておる。頼む、玲子殿。将吾が口にする前に、止めてくだされ!』


「えっ?」


『尚文のではない、将吾の方だ!』


 玲子は、条件反射のように駆け出していた。

舞踏会のきらびやかな場にふさわしくない行動だと、頭ではわかっていた。


 けれど身体が……心が、動いていた。


(止めなきゃ……飲ませちゃダメ!)


 将吾が唇にグラスを寄せた、その瞬間。


「――っ!」


 玲子は手を振り抜き、グラスをはじき飛ばした。

 パリンッ 。

グラスが砕け、液体が床へ飛び散る。

 しん……と、場の空気が凍りついた。

 玲子の身体が震える。

 一斉に集まった冷たい視線が、痛いほど突き刺さる。

この場でやってはならない事をしてしまったのだと、全身が告げていた。


「君は……」


 将吾の手が、玲子に向かって伸びてくる。


「……ご、ごめんなさい!」


 玲子はその手を避けるように踵を返し、そのまま駆け出した。

割れたグラスの破片、注がれた視線、誰かの囁き。

 全部から逃れるように……。


(どうしよう……。

 藤堂将吾様に手を上げたと、お父様に知られたら、どんなお叱りを受けるのだろうか。きっと、お義母様から、お父様に告げ口をされる)


 不安に駆られた玲子の心臓は、バクバクと音を立て、冷たい汗が頬を伝う。


 

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