明治恋奇譚 〜藤堂様、ミエテマスヨ!〜

安里海

第1話  プロローグ




 バシッ。

 衝撃が走った瞬間、藤堂将吾の手からグラスが消えた。


 将吾の視界に薄明の空のような碧色が飛び込んで来る。


その色を纏ったドレス姿の女性に手を叩かれたからだと理解した瞬間、パリンと派手な音を立てグラスが割れた。



すると、舞踏会を盛り上げていた楽団の音楽がピッタと止まり、賑やかだった会場はシーンと静まり返った。


人々の視線は、音楽を止めた原因である二人に集まり、それに気づいた彼女の黒い瞳が、突然戸惑ったように揺れた。

 

「君は……」


何故このような真似をしたのか、問いかけようと将吾は手を伸ばした。だが、彼女は後退り、将吾の手をすり抜ける。


「ご……ごめんなさい」


 そう言って、彼女は踵を返し、早足に舞踏会の会場から立ち去ってしまった。

 取り残された将吾は何が起きたのか、なぜ自分が見ず知らずの女性に手を叩かれたのか、訳が分からずに呆然と立ちつくしてしまう。

 すると、ひそひそと話し声が聞こえてくる。


「玲子様だわ。あの方、やっぱり狐に憑かれているのではないかしら?」


「あら、藤堂様の気を引きたくて、なさったのではなくて?」


「まあ、はしたない。榊原家と言えば、ご当主は現職の議員でいらっしゃるのに……」


「お家の面汚しね」


 噂話から推測すると、先ほどの女性は榊原玲子と言うらしい。

 将吾は、彼女と会った事があったのか……。

記憶の糸をたどるが、いくら考えても全く心当たりがなかった。

 

 給仕によって、グラスの破片が片付け終わり、再び会場に音楽が流れ出した。すると、何事もなかったように、紳士淑女が手を取り合い円舞曲を踊り始める。


 華やかなダンスが繰り広げられる横で、佇んだままの将吾は、彼女の瞳を思い出していた。

 心の奥まで映すような黒い瞳が、気になって仕方ないのだ。



 そして、将吾は彼女の後を追うように会場の出口へと向かう。

 途中、視界に入った花瓶には、真っ白なシャクヤクが、幾重にも花びらを重ね優美に咲き誇っている。

それは、グラスが飛んだ先に飾られていたものだ。

 白いはずのシャクヤクの花弁の一部が、葡萄酒が掛かったのか、茶色く変色していた。

 いや、葡萄酒で色が変わったなら、赤紫になっているはずだ。

 茶色に変色しているという事は、あのグラスに何か良からぬ物……例えば、毒物が混入されていたのかも知れない。


「彼女は何か知っていたのではないだろうか?」

 

 将吾は、小さくつぶやき玲子の姿を探し始めた。


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