『白衣の背中』5/11:文学フリマ東京40
丹路槇
白衣の背中(サンプル)
終礼から三十分後、デスクに据え置きのパソコンをようやくシャットダウンする。予定より十七分遅刻、電車なら二本遅れ。マグネットフックにかけていたリュックをデスクの下から引き出して、マウスの周りに置いていた私物をぞんざいにしまう。夕方の時間に珍しく会議に出ていない上司が、自席から声をかけてきた。
「能崎くん、明日出勤だよね?」
本当は今日のうちに尋ねておきたいことを、帰宅間際の今ではなく明日の朝まで待ってくれるらしい。
「はい、朝イチで伺います」
お先に失礼します、とその上司と隣席の女性社員に声をかけ、足早に事務所を出る。ストラップを首から外しながら階段を駆け下り、スタッフ通路で退勤の打刻をしてから外に出た。
停車した救急車両の赤いパトランプが景色の上を横回転している。ストレッチャーを下ろして間もなくなのか、車両は後部ドアが開いたままになっていた。
そういえば今週、内科系の救急ローテって言ってたっけ。選択科で今月からのこどもセンター研修を楽しみにしていたな。本院の診療科へ行っていた期間は特にしつこく口にしていた。よほどその時の科が嫌だったのだろう。
今の職場である病院の外観を眺めながら、ふとここで働く研修医のことを考えてしまう。腕時計を確認すると予想外に時間が進んでいて、思わず小さく声が漏れた。
六分後に発車する電車に飛び乗るために駅まで走る。メトロの改札まで階段を一段飛ばしでずんずん降りた。ホームに降り立つ時にちょうど安全扉が開く。いちばん手前のドアから後ろ向きに乗ってドア前の吊り革を掴んだ。発車します、ご注意ください。次に走って移動が必要な駅までに息を整える。
昨日もこなしたこれからのルーティンについて、正確な段取りを思考の中で巡らせなくてはならない。
保育園のお迎え、水筒を必ず持ち帰り用の手提げ袋へしまう。スーパーは駅の東口の方で、パックのリンゴジュースを忘れずに。風呂、夕食、夜の寝かしつけの時には約束していた絵本を読む。
いずれも昨日叶えてやれなかった息子の〝日常〟だった。知らなかった、不注意だった、いつもそれを行なっている人間に確認しなかった。大人であれば簡単に状況を説明して次の改善を約束できるが、その時に俺は彼にただ「ごめん」としか言わなかったことも大いに反省していた。三歳の息子は拗ねたり癇癪を起こしたりするでもなく、ただしょんぼりと小さくなって、そっかぁ、と寂しそうにうなだれるだけだった。
彼と特別チームを組んで、ふたりだけの生活をすることになってから、明日で一週間になる。
息子の方がよほどしっかりしていて頼りになる。前回のふたり生活から少し時間が経っていてすっかり段取りを忘れてしまっているおれに、「おしたくセットはこれよ」「ナオくんは知らないと思うけど」などと言って物の場所や持ち物の揃え方を教えてくれた。給食用のナプキンの畳み方と替えの靴下の管理が完璧で昨日は褒めるのも忘れてただ感嘆してしまった場面もある。小さなこどもは言って聞かせても分からない、まだできなくて当然などと言った大人はどこの誰だろうか。夕食後にキッチンまで食器を運んでくる息子に「おまえは天才か」とつい言ってしまうと、その小さなひとに「ちがーう!」と怒られる。
「ぼく、テンサイじゃなくて、エラカミトカレになりたいの!」
エラカミトカレ? なんだそれは。
六時十八分、園舎に入るオートロックに暗証番号を入力する。延長保育の時間が確定していたが電車移動中に保育園に電話連絡ができなかった。ガラス窓を開けて縁側から迎えに行くと聞いていたがカーテンが引かれ人の気配もない。おそるおそる正面入口に回ると別の保護者と思しきパンプスが一組揃えておいてある。それを真似て革靴を脱ぎ、綺麗に磨かれたフローリングを歩いた。
小さな机を並べて子どもたちが軽食のせんべいを食べている。行儀よく両手でプラコップの麦茶を飲み、済んだ子どもは自分でそれを配膳台に下げていた。緑色のTシャツを着た幼児と目が合い、軽く手を振る。彼はいっしゅん、誰に会ったのか分からないというようなきょとんとした顔をして動作を止めた。おれが誰だか見えないのか、今度眼科にでも連れて行った方が良い? ガラス戸越しに「夏嵐」と名前を呼ぶと、保育士がすぐに気づいて彼を帰り支度へ連れて行った。
「おかえりなさい」
ピンクのエプロン姿の保育士がひとり出てくる。遅い時間だと全学年の園児がひと部屋に集められていて、スタッフも学年担当ではなく遅番が対応するので特に申し送りはない。怪我や事故が特になければ別に良い。トイレトレーニング中の粗相も、日中よく目を配っていてくれるからか、昨日今日と一着も失敗はなかった。
「遅くなってすみませんでした。明日は必ず事前に連絡します」
「いえいえ、お父さんお忙しいですから」
元気ではきはきした声が、「カランくーん、お仕度できたかなー」と促す。両足の靴下を丁寧に履き、自分の体と同じくらいのトートバッグをサンタクロースのように引っ張りながら、やや複雑な表情の息子が帰ってきた。
「お待たせ。帰りの挨拶しような」
膝を折って彼の後ろにしゃがみ、「今日もありがとうございました、明日もよろしくお願いします」とふたり声を揃えて保育士たちに挨拶してお辞儀をした。頭を上げ、そのままくるりとこちらへ向き直ると、夏嵐は首に腕を回してしがみつく。
「自分で歩かないのか」
「うん」
「遅くなって怒ってんのか」
「ううん」
頬に擦れた柔らかい横髪からは、醤油せんべいの匂いがした。前にいちどだけ研修医に、おれから炊いた米の匂いがすると言われたことを思い出す。
帰宅してからの時間はすべてのモーションにおいてもたった一秒が惜しい。風呂の給湯、明日の園バッグのセット、連絡帳の記入は翌朝に回すのでピアノの上にページを広げたまま置く。トートバッグに入っていた画用紙を息子に渡し、製作で描いた絵の説明をさせたり、今日の様子を聞いたりした。いつも習った歌を聞かせてくれるのだが、そのほとんどをおれが知らない。今までに聞いた中でいちばん好きだったのは、「てんとう虫が言いました」から始まる歌だった。
てんとうむしがいいました/生まれて初めて見た空は/あんなに青い/あんなに青い
拙い発音の子どもの声でそれを聞くと無性に沁みるものがある。夏嵐は歌がうまい、と褒めると、分かりやすく腰を揺すっていも虫のようにもじもじとなり赤くなるのだった。青葉を食むだけの姿が愛おしい、むくむくした体の生き物。いや、彼は草木につかまる青虫よりもよほど働き者だった。母の不在にも健気で心強い相棒だ。
急速炊飯のお知らせ音から遅れることおよそ十分、甘口の即席カレーにトッピングをした夕食が完成する。冷凍のブロッコリーは平日の救世主だ。分厚く切ったナルトは昨日のラーメンの残り。ミニトマトを添えると息子は手を叩いて喜んだ。コーンは夏嵐の頑なな辞退により今日は出番なし。大人はゆで卵と混ぜた納豆をプラスする。
「いただきます、乾杯」
「いただきます、かんぱい」
缶のままのハイボールと麦茶で宴会が始まった。やっとありついた夕飯は、既にいちばん温かかった時から少し経過している。ここまで休みなしに夜のルーティンを詰め込まれた息子は、食事中に好きな番組の録画を見られないと知ると、頭をキッズチェアの背もたれの向こうにぶらんと落とし、その場で激しく足をジタバタさせながら怒鳴った。
「なーんーでーなーのー!」
息子は生まれた時から手のかからない子だった。まず空腹で目を覚ますということ以外に夜に起き出して泣くことがなかった。生後四か月ほどで腹の持ちが良くなると、それきり夜泣きはやめてしまった。
イヤイヤ期もなかった。始まらなかった、と言っていいのだろうか。食事と風呂は今日までのいちどだって拒否されたことはなかった。出かけている時に癇癪を起こして地面に座り込む幼児ストライキも見たことがない。泣き叫んで手足を暴れさせる子を跳ねる鮮魚のように抱きかかえて逃げ去るということも経験しなかった。
それでも、彼のむず痒さや不機嫌に付き合うのには、仕事の時の心構えとはまた別の忍耐が必要になる。苦労して作った食事はまったく口をつけてくれない、冷静に説得しようとすると折檻されているみたいに高い声を上げて号泣する。
すごいよ、世の中の親たちは。これが起きた時の的確な対応策を既に知っているのだから。宥めて、むやみに傷つけずちゃんと褒め、少しだけ反省させて、話が終わると機嫌良く過ごさせる。それが時たまうまくいけば奇跡だと思うことを、おれ以外の人間はいとも簡単に何度でやってのける。曜子もそうだ。妻は育児や家事、家庭で行うべきすべてのタスクを、完全に彼女の管理下にしてつつがなく遂行する能力を持っていた。
涙と鼻水と涎が合流したあぶくだらけの息子の口にティッシュを当てて、飲み込む前のカレーが咀嚼の途中で吐き出されてしまうのを防いだ。むせて出てくる咳を吹きかけられると米粒が飛ぶ。自分の服や床に落ちたそれをティッシュで辛抱強く拾っていると、夏嵐はうえっと大きく音を立ててげっぷした。
う、う、と小さな喉がバイブみたいに短く唸っている。パジャマは後で総着替えだと諦めがついたころ、息子の鼻からぶっと出血が始まった。
ぼたぼたぼたっと一気に血が彼の手の上に落ちてくる。三歳は自分の小さな手を咄嗟に器にして鼻血を受け止めながら、恐怖して何も言わなくなった。
踵を返してボックスティッシュを手に取ると、まとめて引き抜いた束を赤くなった手のひらに押しつける。
「ちょっと待ってろ」
シンクにあるキッチンタオルをロールごと持ってくる。凝固した息子の手に白い受け皿を作ると、ティッシュをちぎって流血している方の鼻へ詰め物をした。小さく固められたティッシュはじわっと一瞬で赤黒く染まる。引き抜くとさらにだらだらと血が出た。
そんなつもりはなかったが、自分の思考に一瞬だけ絶望がよぎった。これは面倒ないことになった、とかその程度の。すぐに気を取り直し、ゴミ箱のポリ袋を引き抜いて椅子に置き、冷静に対処を続けているつもりだった。ほんの髪の毛一本分くらいの隙は、小さな相棒に簡単に見破られた。
「ごめんなさあい」
夏嵐はわんわん泣き出した。
「いいごにずるう、おとうさん、ごべんなさい」
あうあうと顎を動かして天を仰ぐと、逆流する鼻血が喉につかえて大きく咳き込む。状況が悪くなると彼はさらに大きな声で言葉にならない何かを腹から押し出し続けた。
半分乾いてこびりついた血を拭き取り、手にすっぽりと収まる頭を撫でてやった。それまでくだらないことについて刺々しい言葉で応じたり叱りつけたことがとても情けなくなった。怒ってない、夏嵐は悪くない、血が止まるまで一緒に待とう、カレーは後でまた温めような。かける言葉がすべて意味のなさないものに思えた。もちろん、今夜もおれと息子には母親という救援は来ない。
何をするのもひとりでやってのけてしまうのが、彼女のいいところだと思って結婚した。夫婦は助け合いといっても、互いの都合でなすりつけ合ったり、不満はあるが離れられない共依存の関係にはなりたくない。
一緒に住む時に曜子は、
「お互いできることをやればいいと思うの。洗濯とか掃除とか当番みたいなのは決めないで」
と言った。その通りに役割を決めずに生活すると、相手を責めることもないし、自分のしたことには感謝されるし、簡単なシステムはおれにとっても心地良かった。曜子は基本的にこちらに助けを求めるほど行き詰まることはなく、結婚後も仕事を続けながら過ごした。妊娠と出産を経ても、彼女の基本にあるスタンスは変わらなかった。
無理をしている、という信号がどこかにあったのならば、見通したおれに責任があると思う。助けを求めていなければ助けを欲していないという理屈が成立しないことも理解しているつもりだ。
はじめに子どもができたと言われた時、嬉しかった。自分が父親になることをずっと楽しみにしていたから。実家が面倒見のいい女系ばかりで父と話すことはほとんどなかったが、忙しい仕事の束の間に家に姿を現す時、顔を見るだけでほっとする存在だと思っていた。俺もいつか息子や娘からそんなふうに思われるようになる。漠然としたイメージだけがあった。
出産前の準備も、産後に新生児が家に戻ってきた時も、自分ができる限りのことはやった。さすがに育休は取れなかったが、買い物にミルクの世話、風呂に洗濯、寝かしつけもできる日には時間を惜しまず添い寝をした。
生まれたての人間の匂いを嗅ぐのは、新鮮な幸福感があった。はじめから夏嵐は本当に育てやすい子どもだった。周囲から聞きおよぶ夜泣きの恐怖や深夜の寝かしつけドライブの逸話、離乳食を床へこぼしたり周りに投げつけるという武勇伝を耳にするたび、息子と結びつかないことが多くて驚いた。
「たまにはおまえも、赤ちゃんらしく暴れたっていいんだぞ。がおーってさ」
いつか、お粥とペースト野菜を匙であげながら、気まぐれで乳児にそんなふうに声をかけたのだと思う。何気ない独り言のつもりだった。息子は言葉の意味を理解するでもなく、食事に満足して時折手を叩く。
「冗談でもそんなこと言わないでよ……!」
突然、後ろから曜子に怒鳴られた。いっしゅん誰の声か分からなくて、本当に彼女がそこに立っているのか、振り返って確かめるほどだった。
踵を返して妻はすぐにそこから歩き去った。少し時間をおいてから話し合いを持ちかけたけれど、その後何度その話に触れても、彼女は一切応じなかった。
それから、妻は一年足らずで育休から復帰して、夫婦共働きの生活に戻った。育児短時間勤務が適応される妻が自然と平日の役割を担うようになると、家庭の負担のバランスがあっという間に崩れた。連日彼女にほとんどひとりでこなしてもらわないといけないのが常態化すると、こちらは仕事を早く切り上げてきても帰宅した家ですげなくされるだけだった。
「もうぜんぶ終わってる。直くんにお願いしたいこと、今は特にないよ」
役割を分担しない。できる方がやる。やってもらった方は、相手に感謝の言葉を伝えられると良い。
完璧だったはずの理想のルールは、できない者はいなくていいというルールに変わった。
ある日、平日の昼休みに事務所の外へ出て食事を摂っていると、曜子からLINEが届く。
《今日、家のこと何もできない》
突然の役割交代宣言だった。返事を打つ前にその画面を凝視して、その日の退勤までのスケジュールをすぐに組み立てる。翌朝の保育園の送り出しまでひとりですべてこなすとなると、時差出勤を申請しておいた方が安心だ。
妻が風邪を引いたとうそをついて定時で上がり、小さい息子の世話をした。彼女はその夜、帰宅しなかった。このまま別居して離婚、分かりやすいフラグが脳裏に浮かんだが、今の自分が相手と適切なコミュニケーションが取れるとは思わなかった。翌朝保育園に息子を送り届けてすぐ、姉に連絡して週末まで助けを求めた。「実家じゃなくて姉貴の家に転がりこむなんて直らしいね」と揶揄われながら、妻が戻るまでのしばらく、食事をもらったり泊まったりして姉の力を借りた。
曜子が戻ってきたのはLINEから十日後だった。顔色もよく表情がすっきりしていて気に病む様子も後ろめたさを表すものもなかった。コートを脱ぐとまるで毎日そうしていたかのように息子を自然に抱きあげて、おれに向かってぱっと目を見開いた。
「私にできることをやりきると、あなたもできることをやってくれる。すごくいい関係ね。夏嵐も可愛いし、家に何の不満もない。私たち、とてもうまくいってる」
その言葉を聞いて理解した。彼女はできるところまでぜんぶやり遂げるが、ある時突然その手が動かなくなり、できないと認識すると、気が済むまでできないままの自分でいられるのだと。
その時に残された家族のことを思って罪悪感が湧くことも自己嫌悪に陥ることもない。自分が非稼働の時に交代で誰かが稼働している。昼夜の入れ替わり制のように効率良くそれが動いていると思っている。けれど、おれはそうではない。
不満と呼ぶにはあまりにも彼女との距離があって、その場での対話でどうにかなるとも到底考えにくかった。妻は今の状態を幸せに思っている。息子も離れて三日目くらいから母親を探さなくなった。おれは、仕事の調整が面倒ではあるけれど、根本的に家事と育児の役割をあてがわれることについて苦痛はない。自分への苛立ちはただ経験の浅さからくるもので、不在の妻を責めるつもりはなかった。
うまくいっている、うまくいっていない。
その後、何度か妻の〝電池切れ〟を乗り越えてから、何が正しいのかよく分からなくなっていた。
しばらく流れ続ける鼻血の対処をしつつ、止血までに少し時間がかかりすぎではないかと思い始めた。はじめのどっと出る感覚はおさまったものの、詰めたティッシュがすぐにじんと滲みてあっという間に吸い取られた赤に染まる状態が続いている。ポリ袋の口を縛って床に置いてから、息子を抱えてキッチンに連れていく。汚れた手をシンクで洗う間、彼はキッチンで手洗いをするのが初めてだと無邪気にはしゃいだ。
「お腹減ったろ。ティッシュの下からあーんして食う?」
フックにぶら下がったタオルを息子の届くところまで引っ張ると、小さな両手がパンパンと適当に水気を拭った。
「まだいいの。おとうさん、エラちゃんもってきて」
エラちゃん、また分からないのが出てきた。
「それ、おれでも分かるやつ?」
「わかるよ、まくらでねてるの。みどりのほうがエラちゃん、ピンクはサイくんね。エラちゃんおひざにのせたい。おねがい」
昨日までの生活でまったく見向きもされていなかったであろうそれが突然彼の注目を寄せていることに戸惑いながらも席を立つ。息子を床に下ろして食卓へ戻らせている間、寝室から〈エラちゃん〉を持ってくることにした。枕には外出のたびに増える大小夥しい数のぬいぐるみが敷き詰められている。エラという言葉で魚っぽい生き物を探したが、彼の言う緑色のぬいぐるみは、その中央に鎮座する新入りの四足動物のようだ。おれが不在の日に母と息子が外出でもした時、用事を済ませるついでに曜子が買い与えたのだろうか。
部屋に戻って掴んだぬいぐるみを差し出すと、詰めたティッシュが血で膨張しそうになったのを揺らしながら「エラちゃん!」と息子が手を叩いた。
「何、どこで買ったの、イグアナ?」
「ちがうの、エラカミトカレ」
「エラ? 夏嵐もう一回」
「エラカミ、トカレ」
「エラ……トカゲ? エリマキトカゲ?」
「そうよ!」
なんと息子は今、将来の夢をエリマキトカゲに設定しているらしい。図鑑や生き物番組か何かで見たのか、それとも短い四つ足に首のあたりに花びらみたいなフリルがついた、つぶらな目が少しまぬけだが愛らしい、実際の爬虫類ではなくデフォルメされ綿が詰められた姿をしたこの姿に憧れたのだろうか。
まだ血でぐちゃぐちゃになったティッシュを詰めている息子が、ぬいぐるみを膝に置くと血が止まったかもしれないと言った。詰め替えをすると本当にその通り勢いは収束し、ふたりはもう一度温めなおした甘口カレーをゆっくり食べた。
歳の離れた姉に鼻血のことを相談した方が良いかと思ったが、この後の自分がどうすれば動いていられるのか、とにかく意識が疲労困憊していた。ふたりでオーストラリア産の皮ごと食べられるぶどうをデザートにつまみ、動画配信サービスで見られる昔のクレイアニメを二話見てから、息子と並んで歯磨きをした。腰に手を当てて歯ブラシを動かす父親の癖を真似しながら口を大きく開けて「えへへっ」と笑う彼に、どうしてだかその時も、あまり優しく接してやれていない。
ふたりの子どもと二匹の猫を立派に育てる姉は、今のおれが感心するほど、昔から面倒見が良かった。夏嵐と遊びながらいつも、直がチビの頃はこれこれこうだった、と自身も子どもだった時の記憶を語る。はたしてそれがどこまでの信憑性があるのかは分からなかったが、息子のいる前でそんな風に声をかけられると、無性に嬉しくて腹の奥がじんわりした。
彼女は弟嫁の不在について何も言わなかった。両親が相手だったら言えないことも、姉になら少しずつ本音をこぼせた。仕事のことも、夫婦のことも、それから、ある研修医のことも。
大卒で医学系の大学で事務員をやると決めた時、大学の専攻で教職課程を取っていたので、両親の嘆きはそれはすごいものだった。学校教諭が将来安泰とか永年勤続とか年寄りを安心させる語彙を多分に含んだ職業なのは承知していて、おれはそれよりも偉ぶらない裏方がいいとその頃から決めていた。姉だけが賛成して背中を押してくれた。
「直は元来、人のためっていうよりも、自分に傲慢で貪欲なのよ。先生じゃなくて、そっちの方が向いてる」
ふと目を覚まして、いつの間にか寝室の掛け布団の上に横になって眠ってしまったことに気づく。廊下の明かりが見えるようにドアを少しだけ開けておいたのに意味がなかった。痺れた腕を枕から抜き取っても息子はまったく動かず、そのまま熟睡している。脇の下に挟まっていたエリマキトカゲを引っこ抜くと枕の上に置き直した。
今、何時だろう。ベッドから抜け出して冷たいフローリングをひたひたと歩く。廊下の向こうに戻れば、片付けをほったらかしにしたままの食器がシンクに溜まっている。明日の着替えセットの準備も、放り出して出てきた仕事のメールチェックもまだだった。どちらを先にすべきかを考える思考が動くより先に、洗面所の奥でくぐもった振動音が聞こえてそちらへ向かった。
暗がりの洗面所で、洗濯機の小さいモニターがモノアイみたいに赤く光っていた。点灯するランプが濯ぎの終盤であることを報せている。脱水が完了するまであと十二分。キッチンの片付けの時間にちょうど良い。
リビングに戻る。寝起きで頭がぼんやりしているせいか、さっきより室温が高いな、くらいしか思わなかった。重ね置きしてあったはずの食器と調理器具が宙返りでもしたのだろうか、すべて洗い籠に納まっている。今は奥のコンロでカレーを作ったのよりも浅い鍋がほかほかと湯気を上げていた。換気扇の下にひとが立っている。膨張した影で誰だかははっきり分からない。曜子か。眼鏡をかけ直す前に名前を呼ぶのを躊躇い、そろそろと食器棚の向こうへ顔を出した。
「能崎さん、おはよう」
もう朝まで起きないかと思った、と笑うのは、自分よりも七つ年下の、青年という言葉がしっくりくる男だった。いつも同じところが窪む大げさな癖毛に、頬のてっぺんにそばかすが残る相貌、意外に背が高いシルエットは全身黒い服で慎ましく抑えられている。
彼は袖を捲ってパスタの乾麺を茹でているところだった。今日の日勤は転院の搬送車同乗で遅出なので帰りも後ろにずれ込むと言われていたことをすっかり忘れていた。
「朝まで寝ると思ってたけど」
「悪い、先生、起こしてくれたら良かった」
伸びをしながらのろのろと足を出して絨毯を歩くと、猫みたい、と男は無防備に八重歯を出す。
帰り際、昼間にコードブルーかかってた患者さんがステっちゃったんだ。カルテ叩いたら先週までローテの同期が診てた。指導医がいない日でさ、QM(クオマネ)も帰っちゃってたから師長さん走らせちゃったんだよね。
彼を知るいちばん古い記憶では、拗ねた子のようにうつむいてばかりだったのに、今は下を向きながらよく微笑む青年になった。三鬼唯人、おれが先生と呼ぶこの男は、職場の臨海病院に所属する臨床研修医だ。つい最近、一か月の地域医療研修を終えて今は救急センターでローテしている。半年前まで、昼間は食事の手間を惜しんで、病院の階段の踊り場に立ったままひとり菓子パンを齧っていたやつが、今は湯沸かしをしておれより上等な晩飯を作っている。皮肉ではなく、嬉しい気持ちでそう思うと、彼にも多少は伝わっているようだった。
「お腹の具合は」
「うーん、まだ食う」
「お酒買ってきましたけど」
「飲む、おれのもあるなら」
やった、と言って、コンロから離れた研修医は食器棚からてきぱきとグラスをふたつ出した。ふだん使わないセットを選んでくるのは、単に先入観がないからなのか、見えないものを察する力が鋭敏なのか。我が家へペアグラスを贈った夫婦とは、その日の披露宴で会って以来、どこでなにをしているのかまったく知らないということだけを思い出して、受け取ったひとつに酒を注ぐために氷を入れた。少し薄めがいい、と頼む前に、開栓したばかりの瓶からジンがとぷっとひと波ぶん注がれる。
「もし、寝ている能崎さんがこんな風に起きることがあって、まだお腹減ってるって言ってくれて、パスタつまみにしながらちょっと喋る時間あったらいいなって思って、寄ってみたんです。ぜんぶ叶うんだ、すごいな」
炭酸水で割ったジンで乾杯する。洗濯回してくれたのか、と尋ねると、皺が嫌でなければそのまま乾燥までしてくれるようになっていると答えが返ってきた。それ以上のことで何を話すでもなく、夜食ができあがるまでキッチンで立ち飲みして待つ。
妻の不在時に若い研修医が現れて家に上がり込むことを、既に曜子には伝えていた。息子とも面識があって、休日に三人で公園に行ったこともある。夏嵐は三鬼が好きだから、自分の寝ている間に来て帰ったと知れば、翌日ひどくがっかりして「なんで起こしてくれなかったの」とむくれるだろう。さっき寝室から起き出した自分が、ほとんど三歳と同じ感情で彼と喋ったことに気づいて少しばつが悪くなる。
シンプルなペペロンチーノが完成した。ひとり分にはやや多めの量を盛り、取り分け皿とトングを出してテーブルに並べる。飲みかけのジンを運ぶ間にフローリングに結露の水が垂れた。木の椅子に向かい合って座ると、もうそこから立ち上がれなさそうにくたびれていることが分かる。
「いただきます」
「いただきます。先生、飯ありがとう」
取り皿にのったパスタをフォークに絡めて口に含んだ。辛い。粘膜のぴりぴりする感覚にすぐ洟をすする。
「意外、もっと辛いもの好きなのかと」
「なんで、ちがうけど」
「ちがうんですか。なんでそう思ったんだろう」
口の中に広がるちりちりとした刺激に慣れると、麺の食感やにんにくの風味を感じられるようになってくる。子ども用の甘口カレーがなんの抵抗もなく美味いと感じる舌が、強めのペペロンチーノをはあはあ言いながら夢中で食べるのはやや危険行為かもしれない。それがやめられずにジンを飲み足すと、いよいよ感覚情報が煩雑になりすぎて何も伝わらなくなった。
「美味い」
「よかった。俺も思い出しました。能崎さんが教務課にいた時、たまに地下の生協でカップ麺を食べていたのを見たことがあって、そのカップのパッケージのイメージ。メガサイズの、すごい辛そうなやつで」
「罰ゲームじゃねえの、それ」
「社会人がそんなことする? で、俺は能崎さんが生協にいるの見つけると、いつもちょっとだけ席移動して、いなくなるまでずっと見てましたよ」
なんでだろうな、とはぐらかすと、なんででしょうね、とまたうつむく微笑が垣間見える。
三鬼は俺がはじめの部署で教学関係の事務をしていた時の医学生だった。大学職員になったのだから履修成績のことや入試をやりたい、という漠然とした希望だけがあり、採用面接でそれをはっきりと告げた。希望叶って入職後は教務課に配属され、それから課内の配置換えをしつつ、五年あまりをその部署で過ごした。
三鬼の学年を担当したのは最後の二年だったと思う。毎年医学生は同じ学科に百二十人、その中で彼はおとなしくて特別に優等生でも怠惰で無精というわけではないが、たくさんいる同級生のなかでぽっと抜け出るような何かがある気がした。こいつはきっと卒業後は大学に留まらず、イイトコの研修病院に就職してそれきりになるのだろうな、と思っていた。開業医の息子でもなかったし、大学へ残るというしがらみを持っていない側の人間だった。
医者は今でも世襲と派閥の力関係が強烈に存在する旧社会だ。大学の附属病院に残って教育職をやるなら、本業の診療や研究とは別に、絶えず自らの位置関係の調整をはからなくてはならない。得意な人間もいるし、不向きで滅法だめな者もいる。おれの勘だと三鬼は前者だが、面倒がって早々に逃げだしてしまうだろう。
それから、法人の別部署の配置を数年経て、昨夏に臨海病院への異動が出た時、そういえばと思って調べたドクターの名簿に三鬼の名前を見つけた。城南の本院にも、病床数と病院規模がもっと大きな横浜あざみ野の附属病院にも行かず、臨海病院を選んだのが彼らしいな、と思った。
「今日、夏嵐が鼻血出して」
口からいったんペペロンチーノがなくなると、ひりひりした粘膜に代わりの緩衝材を当てるみたいに独り言が漏れた。これは姉に話すために作られた言葉が勝手に吐き出されたもの。研修医に打ち明けるようなことではない。
「どばどば止まらなくて、おれ子どもの頃あんなに出たことないから、平気って分かってても血の気引いて」
「うん」
「あと何分我慢してればおさまるんだって困って、でもぬいぐるみ抱かせたら終わった」
会話のない時間を普段は笑顔で埋めている男が、ふと立ち上がってふたり分のジンを作りにキッチンへ向かった。
「そっか。電話くれればよかった」
「先生に言ってれば、どうにかなった話なの」
製氷機から溶けた分の氷を入れ足す音が聞こえる。今すぐにでも寝直して十分な睡眠を取った方がいいという焦りよりも、もう一杯晩酌に付き合ってもらえるという安堵が勝った。三鬼は明日も遅出で搬送された患者の対応に追われるのだろうか。総病床数が四百ほどの大学附属病院にしては小ぢんまりとした規模だが、もちろん成人だけでなく小児や周産期の患者も多く、年間分娩数はおよそ千件、もちろん救急の母体搬送もしばしばある。
「まさか。小児の救急は外傷とかアナフィラキシーばっかりで、鼻血ってあんまりないし」
「だよな」
「でも、119って、話聞いてもらって安心して、冷静になる時間のための通話でしょ。オペレーターは医者じゃないけど、応急処置の仕方を教えてくれるし、たくさん経験があるから判断が早い。現状把握のために必要な情報を的確に聞き出してくれる」
「なるほど」
おかわりのジンを持って戻った三鬼からグラスを受け取った。ベッドで熟睡している息子の様子が少し気になったが、壁際に寝かせていてエリマキトカゲが縁石になっているからきっと大丈夫なはずだ。手のひらで両目を擦ってからもうひと口続きを飲む。
「そういう聞き上手なドクターに、俺はなりたいな。能崎さん、いい医者はえらそうな医者じゃない。何でも知ってる神様みたいな人間でもない。欲を言えば仙人くらいの知識はほしいけど」
「だから、鼻血の電話は先生によこせばよかったと」
「はは、だから違うよ」
口から離したグラスをテーブルに置く間も許されず、ひょいと取り上げられて手を空にさせられた。三鬼の利き手は左、パスタ皿の隣で腕がクロスする。彼はそのままおれの袖を引き、手先が濡れているのも構わず、前に屈んで下向きにした頭の上にぽんと乗せさせた。
「せめて人並みの医者になりたいから、俺にもっと頑張れって言ってください」
束ごとにもさもさと折り重なる、大味の癖毛。指と手のひらで押したり退いたりするとふわんふわんと形が変わる。
「ほどほどにな、頑張れよ」
頭を軽く撫でてから、そばかすの名残がついた頬を親指で擦ってやる。自分で強請ったくせに、顔に触るときまりが悪そうにするのは何なのか。
さっきまで息子を触っていた手が、大人の縮尺を感じるとびっくりするらしい。自分と同じような人間が食卓に突っ伏すという行儀の悪い格好を続けながら、何か言葉を求めるようにちらと上目遣いを送る。でかいな。思わず口から出ると、研修医は微かに悔しさを表情に浮かべて「そうだよ、もう社会人ですから」と小声で返した。
それからやおら腰を上げ、テーブルのこちら側まで歩いてくると、今度は立ったままおれの頭を腕ですっぽりと囲った。服が擦れる音が止むと、少しして彼の鼓動が聞こえる。元気だな、まだ眠くないのか。食後にシャワーを促そうと思っていたが、彼はこのままローテ中の診療科の予習復習を気が済むまでするかもしれないと思った。
「つまり今、寝ずに勉強しろとか言ってるわけじゃないから」
「うん。能崎さんも、あんまり頑張らないで。夏嵐くんも、俺も、曜子さんもいられる時は、みんな傍にいてくれるよ」
こちらも立ち上がって、向かい合って抱き合おうとすると、寝室からふにゃっと犬の仔が鳴くみたいな声がする。寝言を確かめるために腕を絡め合ったまま、相撲をとるみたいにして三鬼を後ろ向きに歩かせた。彼は声を殺しながら、くすぐったそうに笑う。
こんなこと、曜子とは絶対しない。三鬼が許してくれる限り、ただおれが甘えている。
こま切れの寝言はすぐに止んで、小さい息子が再び眠りの海に潜っていくのを見届けた。両目を閉じて地蔵みたいな表情をした丸い顔を眺めていると、自分も疲れていて今すぐにでもベッドに沈んでしまいたいという欲求を思い出していく。
「俺、帰るね」
こちらの真意を察したのか、三鬼が寝室の端でそっと言った。皿は洗って帰るけど。洗濯物はそのままでいいよね。そんな些末な心配までして、おれの腕からゆっくり離れる。
泊まっていけよ。そう引き留めて、彼の顔がくしゃくしゃになるのを見るのが怖かった。じゃあ俺も歯磨き、と言って、ふたりで廊下へ引き返した。
テーブルを片付けようとする青年に、いいから置いて行けとせっついて帰り支度をさせる。歯ブラシを咥えた格好で玄関まで見送りに出た。三鬼はまるでこれから午前の就業が始まるみたいなくっきりした双眸を開いて、短くため息を吐いた。
「また明日」
「ああ」
「病院で、って意味じゃないですよ」
「分かってるよ」
「能崎さん……朝こっちで食べていい?」
ばか、いいに決まってるだろ。
歯磨き粉を吐き出しそうになっているみっともないおれを見て、彼はへへっと声を漏らす。可愛いな、息子ほどでもないが、息子より可愛いよ。
口づけする代わりに、指を絡めて手を握り、すぐにそれを解いて別れた。
妻と子がいる、ヘテロで三十年以上生きてきた。けれど今は好きなひとがいる。混ぜるな危険がよく似合う、ありえないバランスだ。
ただ、それが許されている。曜子に夏嵐、三鬼に責められることなく、隠さず受け入れられている。
四人合わせて三人家族になる生活を始めて、じきに半年経とうとしていた。
*
土曜の宿直明け、俺の最後の仕事はインシデントレポートの作成だった。眠気はないし思考もはっきりしているが、とにかくやる気が出なくて手がまったく動かない。
発生時刻、覚えていない。レポート画面をいったん脇にどかし、入院患者のオーダー画面を開く。入力時間が三時十六分、コピペができないから手打ちする。
発生場所、六階A病棟スタッフステーション。
発生状況、患者に夜中たびたび目が覚めてしまうことを訴えられる。手足の倦怠感改善のために点滴処置をしたところ担当看護師に量が不適正ではないかと指摘を受け、事由が発覚した。
発生原因、オーダー時に患者の体重を誤読。
影響度、レベル1。
対応状況、たまたま夜勤帯に入っていたリーダーの畔野さんに「ちょっと先生、しっかりしてよ!」と叱り飛ばされて終了。
実際にはもっと丁寧で、専門職っぽい言い回しを多用したレポートを登録して画面を閉じた。電カルの古い端末はキーボードがでこぼこしていて遊びが多いから何度もミスタッチしてしまう。ローカルネットワーク下をいいことにOSもWindows8の塩漬け状態で予測変換もできない。やっと残務を終わらせてカウンター用のハイチェアで伸びすると、背後では既に看護師たちの申し送りが始まっているところだった。畔野さんと目が合う。腕を上げてよれた白衣ジャケットを引っ張って襟を直してからぺこりと頭を下げた。明け方の点滴騒動で俺の初歩ミスを爆笑してくれたリーダーは、これからフルマラソンが完走できそうなくらい、タフで覇気に溢れている。
午前八時、ICUの夜勤明けの指導医が病棟に上がってきて、「どんな感じ?」と声をかけてきた。
循環器センターのドクターは、内科も外科も独特な雰囲気の人間が多い。まず、女医がいない。これは俺の母校の大学附属病院だけかもしれないけれど、寝れない、帰れない仕事だというのがそれだけで伝わる。それから、笑顔の人間が多い。目は笑っていなくて、絶えず獲物を探しているような執着に似たものを感じる。今の日本の医学ではヒトの死は脳ではなく心臓だ。様々な病状や重症度はあるにせよ、最後には、患者の心臓が動き続けるかどうか、たぶんそれだけを考えて彼らは仕事をしている。
今のローテで俺の指導をしている、入局八年目の落合医師は、大学院の博士課程で最終年限まで在籍していたが、満期退学になり乙号で博士を取得した。大学に残る限り、ロンパク、いわゆる論文博士では教授になれない。いつかの休憩時間に缶コーヒーを飲んでいた彼は、それを「失敗した」と嘆いた。
「別に自分が出世したいとかはないけどさ、外科は大講座で教授枠持ってるんだよね。例えば前任の教授が定年でいなくなって、すぐ次に誰かを外から引っ張ってきて教授選やるとかじゃなく、普通に准教授が診療科長になって収まるとかあるわけだよ。定員枠はいったんそれで落ち着いちゃうから、僕らはしばらくお山の大将がいなくなるんだな。で、どうなるかっていうと、ほかのマイナー科と一緒で、機器予算の配分が減る、臨床責任者会で上座にいられなくなる、専門医と院生を入局で引っ張ってくる力がなくなる、診療科としての体力が落ちる。今でもだいぶきついけど、それでもいくらか金が回ってリクルートができているのは教授のおかげだよ。それを自分の代で誰かやるってなった時、才能あるなしに関わらず、少なくとも僕が教授になれない、選択肢を減らしたことがまずかった。ただそれだけ」
ごめんねどうでもいい話、と言って立ち上がり、自販機脇のダストボックスに空き缶を押し込んだ時の音が、思いの外どすんと重く響いた。広くて綺麗な病院が、途端に雑然とした狭い小屋のように見える。ずっと戸が閉ざされたままで風も通らない、古くてつまらないもの。白が清潔と誠実を示すものではなくなっているとずいぶん前から皆が気づき始めている。ケーシーではなく色つきのスクラブがユニフォームに取って代わったのは、新しい解釈への移行だと俺は思う。
先ほどつまらない始末書を作り終えたばかりの端末をログアウトして席を空けると、交代した落合医師は自分のIDを打ち込んでキーを叩いた。立て続けに四つのウィンドウをポップアップで表示させると、ざっと病棟の患者の様子を確認した。
「患者さん誰か変な動きとかあった?」
「記録以上の申し送りはないです」
「あーこれやらかしたな、とかは」
「生食のオーダーで分量間違えて、畔野さんに叱られて終わりました」
「はは、僕も畔野さんに今でも毎週怒られてるよ。異常なしね」
おつかれ、と肩を叩かれ、その日の宿直が明けたのだと分かった。落合医師に次は水曜日が出勤になることを告げる。研修医は一日宿直すると振休が二日間付与される。週末は土日が週休だから、一宿直四連休という奇妙な勤務シフトがすんなりできあがってしまう。研修医の給与補償と外勤禁止はありがたいが、今のルールには多分に病院側の過保護が働いている。研修したくてもできないばかりか強制的に休まされる、そう思っている同期も少なからずいることは確かだ。
俺とはまったく別世界のハードワークシフトで勤務を続ける指導医に、お疲れ様です、ありがとうございました、と一礼した。
「え、まだ研修あるよな? 月末まで」
「あります。先生とシフトあと四日かぶってます」
「……やめたり、しないよな?」
「しません。あの、院試って次、二月ですか」
俺にとっての終業の挨拶が、指導医にとって今上の別れみたいになったのがおかしかった。急に何の話だといわんばかりに眉尻を下げた彼はマスクの奥にある顎髭を軽く触り、ナントカ制度で春秋の二パターンあるとかだぞ、とふわふわした情報だけをくれた。そのナントカ制度について、別のところで確認すれば一瞬で解決できる気がしたので、シンプルに「分かりました」とだけ告げ、病棟を出る。
ロッカー室で昨日の夜に着ていた服に袖を通す。脱いだスクラブをひっくり返して振り、ペンやルミネスバッジが床に落ちてこないかを確認した。ポケットに手を突っ込んで確かめてもつけたままリネンボックスに出してしまうことが何度もあって、最終的に行き着いたのがこの方法だ。IP電話を思い切りスノコの上に落としたこともある。今日は製薬会社の粗品のボールペンふたつだけ、被害は最小限だ。
ポケットの中に入れてきたままになっていたオーダリング端末から出力された紙をロッカーの奥にある角二形封筒に突っ込む。いつかまとめてシュレッダーするつもりの皺だらけになった個人情報がその存在を思い出させるように、がさっと短い音を立ててからまた静かになった。
地下のスロープをゆっくり漕ぎだし、徐々に車輪が回転の軌道に乗ってくるのに合わせて腹筋に力を入れる。蔦を這わせた防波ブロックの外壁の間から地上にのぼっていくと、頭上では到着したばかりの救急車のアイドリング音がしていた。左手についたスマートウォッチの画面を顎でタップする。
八時三十七分。
夏嵐くんが食事と着替えを終えて、楽しみにしていた録画の番組を真剣に見ている時間だろうか。曜子さんはまだ布団の中にいるか、もしくは早朝に一瞬でスイッチがオンになってからすごい稼働量で家事を完璧にこなし、既に家を出ている頃かもしれない。曜子さんは子どもに知育やアクティビティを与えるのがすごく上手なお母さんで、年少になったばかりの彼らの息子はパズルも迷路も得意、楽譜も少し読めた。公園での外遊びも好きだが重度の恥ずかしがり屋さんだ。親なら気を揉むところだろうけど、俺は年相応の子どもらしくてそこがとっても可愛いところだと思う。
夏嵐くんは能崎さんにそっくりだった。よく、異性の親と目鼻立ちが似るとか言うけれど、能崎家はもしかすると曜子さんも能崎さんと顔のつくりが似ているのかも。三人並ぶとファッションブランドのビジュアルみたいな理想の家族の絵になった。その一枚絵を台無しにしようとはもとからまったく目論んでいない。猫じゃらしが揺れる原っぱに笑顔の三人家族とスクラブの男が立っていたら、それがサンローランのサマーコレクションでも、誰もそのバナーをクリックしようとは思わないでしょ。
湾岸の小さな埋め立ての島々を結ぶ橋を、東へ北へと渡っていく。病院から決まりのルートはいちばんの近道でかつ景色もそこそこにいい。バイクを持つより健康的で、電車で動くより自由だ。歩行者信号が青になる。ワイヤレスイヤホンを挿さない耳には風音のBGMでいっぱいになる。
いつか琴平通りの寿司屋に入ってみたいと思いながら、木場公園を背に隅田川の方へ進んだ。門前仲町の区画の細かい入り組んだ街並みを抜けていく。朝は車通りが少なくて走りやすいのが〝明け〟のいいところのひとつ。土曜も半日だけの授業があるのか、通りがかった小学校で予鈴が鳴る。
みんなの一日が始まる時に、俺の今日が終わって、まだ寝たくないと駄々をこねるのを能崎さんに早く宥めてもらいたくて自転車を漕いだ。服の下の肌が心待ちにしていて俄かにじいんと感覚が過敏になる。風が過ぎた後は襟足からぷつぷつと汗が湧いた。
九時十一分。
マンションの駐輪スペースにそろそろと愛車を連れていく。能崎さんにもらった部屋番号の入ったアクリルのタグをハンドルにつけて鍵をかけた。エレベーターでボタンを押して立っていると、上から降りてきた箱の中に曜子さんがいた。
「おはよう。少し遅い?」
「おはようございます。いや、道は空いてました」
ハイヒールの踵が鳴る音の方が曜子さんの声より高い。今から出かけて、丸の内に着いても未だどこの店も開いていなさそうだ。行き先が丸の内とは限らないけど。千疋屋でモーニングでも食べるのかな。
「行ってくるね」
「はい、また」
曜子さんは清潔に切り揃えられた髪を斜めに傾けて、ほんの一瞬、ひらっと手を振って出て行った。エントランスではなく脇のスロープ出口の方のスライドドアを開けて、かつかつと靴音を立てながら足早に歩き去っていく。
エレベーターで五階に上がると、まっすぐ伸びた通路を夏嵐くんが走ってくるところだった。おいこら待て、と後ろからお父さんが小さく怒鳴っている。その脇をすり抜けて子どもみたいに疾走してくるのは、能崎さんのお姉さん、浪江さんだ。あっという間に夏嵐くんに追いつき、ひょいと抱え上げてしまうと、「軽い!」と感嘆の声をあげている。
「おはようございます」
俺はさっきの曜子さんとの挨拶とまた少し調子の違う挨拶をした。
「ミキちゃんおはよ」
「おはよう、ミキ!」
夏嵐くんは小さな手を伯母さんの肩からぐんと伸ばしてぶんぶんと上下に羽ばたいている。反対の手には大きなぬいぐるみを持っていて、浪江さんはそれを避けようと首を大きく左右に振った。
「あれ、これなんだ? 初めてみた。カメレオン?」
「惜しい」
「ちがうのミキ、これはエラカミトカレよ」
「エリマキトカゲか、そうか、カメレオンは襟っていうより頭の上の飾りだね」
追いついた能崎さんが怪訝そうな顔をして、なんですぐに分かるの、と言った。男子が爬虫類を好きなのはわりと普通のことなんじゃないだろうか。子どもの頃、家の猫が蜥蜴を捕まえたから、体を開いて骨を見てみたいと思い、餌を奪って頬を散々引っ掻かれた。顔じゅうぼろぼろになった俺の方が母親にひどく怒られて腑に落ちなかった。二十年前の俺は、毎日そんな遊びばかりしていた気がするけれど。
五階で止まったままのエレベーターは浪江さんと夏嵐くんを乗せてゆっくりと降下していった。窓の向こうで箱が沈んでいくまで、能崎さんと俺は並んで手を振る。夏嵐くんはこれから能崎さんの姉家族へ連れられ、渓流のラフティング体験とバーベキューに出かける予定だ。夕方にはこちらへ戻ってくるみたいだけれど、夏嵐くんはそのまま従兄弟たちとお泊まり会になるらしい。明日もきっと今日の楽しかった余韻でくたくただろう。迎えは日曜の昼頃でいいよ、と言われていた。
浪江さんと会うのはこれで三度目だ。前の二度も今日みたいにほんの少ししか会話をしない程度だったけれど、俺のことはよく知っている、という顔にただ安心した。事情を知って黙って見過ごされているのではない、応援とまではいかないが、反対はされていない感じ。彼女は弟のことが大好きだった。はじめに会った時、自分は尽くすのが向いているから弟みたいな欲しがりとは相性が良いのだと言っていた。俺の方はまだ、彼のどのあたりがそんなに強欲かはよく分かっていない気がするけれど。
能崎さんの家でシャワーだけ借りて、ふたりで出かけることにした。少し仮眠するか、と聞かれたが、ここで目を瞑ったらそれこそ夕方までぜんぶ台無しになりそうだったので、お腹が減っているから外に出たい、と答えた。
給湯温度を一度下げて、適温になったシャワーを頭からかぶる。濡れそぼって垂れた毛先から落ちる水の流れが排水溝へ行き着くまでの何通りかのルートを立ったまま黙って眺めていると、あっという間に十分でも一時間でも過ぎてしまいそうだった。足のつけ根にぶさがっているものはどうしようもなく腫れて重怠くなっていて、今すぐ擦って吐き出して楽になりたい。風呂の折れ戸を拳で押し開け、能崎さんを呼び出したい衝動が猛烈に湧きあがった。
声を聞いて駆けつけた彼はとぼけた顔をしている。服を脱いで一緒に入ろうと腕を引くと、従順にうなづいて、整えられた服を洗面所へ落として裸になる。濡れていない能崎さんの体は綺麗だ。すぐに俺の勃起に気がつく。そっと手を添えて、もしかして一緒に束ねて擦ってくれるのかと思っていると、洗い場に膝をついてぱっくりと咥えられる。そんなつもりじゃなかった、無理はしなくていい、しどろもどろの釈明を無視されて、空いた手で根元を擦られ、陰嚢を持ち上げられる。
ばか、違う、今は抜かない。止まれ。
シャワーヘッドを持ち上げて乱暴に振りながら壁や床に向かってのぼった湯気を掻き消し、都合良く呼び寄せてしまった能崎さんを追い払った。本物の能崎さんは今、きっとダイニングでのんびりと新聞をめくりながら冷めかけのコーヒーを飲んでいる。
急いで髪と体を洗い、借りたバスタオルで適当に体を拭き上げて着替えを済ませた。洗面所の鏡に貼ってある時計が入った時から八分しか先に進んでいなくて安心した。
「お待たせ、終わりました」
「早いなぁ、あたまちゃんと乾かせよ」
洗面所から顔だけつき出して声をかけると、こちらを振り向かないままの背中が嬉しそうにちょっと屈んだ。
休日だ。ふたりで過ごせる時間が一日ある。病院から逃げ出したいなんて思ったことはないけれど、好きな時間に好きな場所で昼ご飯が食べられるのが無性に嬉しかった。それを彼に言うと、また大きい子どもみたいに扱われて脇腹あたりをくすぐられるのだろうか。能崎さんだって子どもじゃん、たまには俺にも甘えてよ。玄関で靴を履く時、そんな気持ちで彼の肩に手を置く。
「なんだ、甘たれ」
笑うとのぞく八重歯の三角がにくらしい。俺が眉を寄せていると、唇を撫でるだけのキスをされる。
能崎さんのCX―30に乗って谷根千の方へ遊びに行く。寝不足に運転はさせないと言われて助手席でオーディオの担当をあてがわれた。セブンイレブンのコーヒーをブラックでふたつ並べてエアコンの吹き出し口の前に置く。寛永寺の近くにあるコインパーキングを見つけて、勾配のある下町を散策することにした。
袋小路みたいな場所にガラス戸のパン屋があった気がする、と言われ、マップアプリで探しつつ細道を散歩する。長屋の店舗が並んだ一角にThinkというパン屋があった。小麦の匂いにつられて戸に手をかける。
「バケットだけで腹が膨れるのもったいなかったかな」
「どうだろ、一緒にコーヒー飲むならコンビニの我慢すればよかったですね」
「そう? 何杯飲んでも別にダメじゃないだろ」
そのまま袋小路に立ち並ぶ別の軒先へ入る。おしおりーぶという店では〈しおサイダー〉をふたつ買って、オープン席で買ったパンを分けて食べた。もう少し散策を続けると、雑貨屋とかスープカレー屋もあるらしい。こういうの、女の人とデートでもすれば自然と知っていくものなのだろうか。 それとも、彼は連れと出かける時には相手を飽きさせないように丹念に下調べをして、自分でも使ったことのある店へそつなく案内することが当たり前だと思っているのかもしれない。
そうやって二時間ほど食べ歩きや道沿いの商店を冷やかすなどしてのんびりと休日の街を楽しんだ。名所や偉人の墓などはぜんぶすっ飛ばして中洲のかたちみたいな街を縫うみたいに歩く。途中で招き猫の大きな置き物とか、面白そうな古本屋とか、安くて味のある器を野晒しで置いてあるギャラリーに出会ったが、どれも楽しい印象だけが残って、正確な場所と店の名前を忘れてしまった。隣にいる彼の顔色を伺いながらおそるおそる購入したマグカップは、レジで新聞紙にくるまれている間に「見てると良く思えてくるな」と言った能崎さんが真似して同じのを買った。
アクリル水彩で版画をやるアトリエで、夏嵐が好きそうなトカゲのポストカードを見つけた。
「媚びてるみたい?」
「いや、好きなものは好きでいいだろ」
それが能崎さんの手に渡ってから、木板にディスプレイされたたくさんの版画から別のデザインも選んだ。何に見える? と彼に聞きながら、それが俺にはたまごみたいにぱかっと割られた地球に思えた。能崎さんは背後を気にしながら少し遠ざかって、目を凝らしてからうーんと首を折った。
「口を開けたりんご飴」
「へえ、こう見るのね。ふふ、いいな、これ買いますよ。能崎さんが俺の彼氏で良かった」
「……何言ってるの」
「本当に。もう今更、どっか別を当たってくれ、とか嫌ですから」
今のは心からそう思って口に出した言葉だった。能崎さんにすら文句をつけられたくなくてはっきり言ってやった。彼は黙っていた。こちらが手を差し出すと、夏嵐くんに媚びるためのハガキを俺に返してくれる。
小さな長方形の芸術は、割れた地球から口のあるりんご飴に転生して、レジにいる作家ではない販売スタッフによって既製品の紙袋にさくっとしまわれる。チンと昔ながらのキャッシャーが大きな引き出しを押し開けると、値札に書かれたのと同じ価値の現金と交換された。
買ったカードは名刺より幅広で、スマホの端末と透明カバーの間に挟んで飾るのにちょうど良かった。縦横比が変な規格だと思っていたが、アーティストトレーディングカードという、作家同士が小品を交換するのを目的に作られたものらしい。ずっと車道側を歩く能崎さんがそれを説明してくれるのを聞きながら、このひとは病院で働くことが本当にやりたいことじゃなかったのではないかと、ふと思う。
上野桜木の交差点に戻ってきた。黄色い看板のカヤバ珈琲は少し興味があったが通り沿いの席は全て埋まっていた。二階に空きがあるかもしれないから聞こうか、と言って木戸の方へ向かおうとする彼の腕を絡めとる。
「入りにくいか、男ふたり」
「いや、それはまったく」
なに食べるのかなと思って。そう尋ねると、彼はやや思案した末に、プリン、と軽く口を尖らせて答えた。
固くて美味いんだ、変に甘くもなくてさ、卵の味がちゃんとする。
一階のボックス席はやはり満席だったけれど、靴を脱いで二階に上がるとちゃぶ台の席が空いていた。アイスコーヒーとプリンを頼んで、散策中に撮った写真を見返す。卓が丸いおかげで、向かい合って座ったところからあぐらの膝がくっつくまで近寄っても違和感がないのが落ち着く。田舎の祖父母の家があればこんな感覚になるのだろうか。
店員さんが階段をとんとんと調子よく上ってきて、盆に乗せたアイスコーヒーのグラスをふたつ、順に渡してくれる。もらったストローを袋から開けると環境に配慮された樹脂の山吹色がむき出しになった。焦茶の液体の中に沈めると、氷がころころと動いてグラスがじわりと汗をかいた。
「夏、すぐですね」
「ああ、あれ、研修医にはあるんだっけ、夏休み」
「団交で決まるやつだから一緒じゃないですか。去年、いつ何に使ったか忘れちゃった。今年はまあ、順当に使っていけばなくなるんだろうなって感じ」
「何、どっか出かけるの」
「能崎さんは俺と出かけないの」
「なんか今日、意固地だな。昔の先生みたいだよ」
ストローを咥えようとしている頬を軽くつねられる。能崎さんがすぐに手をぱっと離す。ひとに見られたくはないが、俺を他人みたいにしないで触ってくれる。夏嵐くんと同じようになら大丈夫だと自分の中で言い聞かせているのかもしれない。これは大きな子どもだ、面倒を見ているだけで息子とさほど変わらない、後ろめたい気持ちでは決して触っていません、って。
たっぷりクリームが乗ったカヤバ珈琲のプリンは、前評判の通り固くて美味しかった。半分くらい抉れてダムの提体みたいな形になってから、この店にきてから何も写真を撮っていないことに気づいたけれど、そのまま最後まで食べ終えた。
もう少し足をのばして不忍池の方まで散歩を続けられそうだと思いながら座布団に両手をつけて上を見ると、長い大きなあくびが出てしまった。目尻に滲んだ涙を除けようと瞬きしている間に、能崎さんは伝票を取り、車に戻るか、と言って先に立ち上がった。
コインパーキングに戻ってすぐ目的地の住所を打ち込む能崎さんに、行先を決めているのかと聞くと、デイユースの部屋を予約している、と言われた。
当日キャンセルもできるけど、どうする。
俺はどこでもいいです、当直ベッドとかロッカー室のシャワーとかでも。
そんな趣味あるのか、ばかだな。
会話のひとつひとつ、行って返ってを繰り返すだけで、穏やかなまどろみの膜が頭の上から下りてくる気がする。普段よりずっと太く大きく見えるスカイツリーに向かってマツダの赤い車は悠々と進んでいった。ナビに映るガジェットのアナログ時計は午後一時六分を指していた。
地下の駐車場のスロープへ入る時、ラブホテルみたいなオレンジ色の暖簾がかかっているのを見て、ラブホじゃん、と背中を浮かせて言ったらふたりの声が揃って、寝不足のテンションのせいで息が苦しくなるほど笑いながら車を下りた。能崎さんは手持ちの鞄の他にデイバッグを荷台から引っ張り出す。
「……お泊りセット?」
「食材。部屋にキッチンついてるんだよ。あと酒も少し」
「うそ、これから腰立たなくなるくらいヤるのに? 料理なんかできないんじゃないですか」
思ったままのことを言うと、彼は初心な少年みたいに紅くなって、そんなになるまでさすがにできないだろ、と顔を顰めた。
タッチパネルの操作でチェックインを済ませ、機械から吐き出されたICカードを翳してエレベーターに乗る。画面で見たチェックアウト時間は明日の十二時になっていた。本当に丸一日、明日までずっと、というか今までの時間も既に、彼は俺とふたりきりで過ごしているのだ。きっとこの先の、明日どころか彼女の気が済むまで曜子さんからの連絡が来ないことも、能崎さんがほとんど夏嵐くんの話をしなくなっているのも、俺にとっては落ち着かない、むず痒くてその場で跳ね上がって余分な息をぜんぶ吐ききってしまいたいような気分になった。なんだかオペ前の感覚に近いな。これ、能崎さんに言ったら機嫌を悪くするかな。
部屋は2DKのマンションの一室みたいで、玄関で靴を脱ぐシステムになっていた。リビングダイニング、四畳半くらいの床が上がった腰かけられるタイプの和室、いちばん広い部屋にキングサイズのベッドが置いてある。ラブホテルと違って窓があり、眼下には通りとオフィスビルの緑地帯が見えた。
冷蔵庫に酒と食材をしまっている能崎さんのところへ行く。絨毯に腰を下ろして片膝を立てながら小さな冷蔵室に野菜を詰め込む彼の腰に手を回し、背中に耳を当てたり、シャツのボタンをかりかりと爪でいじったりした。俺が急に触ったりもたれかかったりしても、彼は何も言わない。何かを堪えているみたいに、一言も漏らさない。
前みたいに気安く「お前」って呼べばいいのに。俺の前で油断した笑顔を見せて「三鬼ひとりでつかまって、運悪かったな」って。教務課の能崎さんの顔をして、たくさんいる同期の他の連中と同じように、仕事でかかわるだけの大きさにちぎった優しさをぽんと手に置くようにして。
言え、言え、言えってずっと念じていたら、何かがちゃんと伝わって、能崎さんはパタンと冷蔵庫の戸を閉じた。
「三鬼、どうした」
床に座ったままふたりで抱き合う。キスするともったいない気がして、首に回した手で襟足のほくろを軽く擦った。眉毛の形が緩やかな弓形で、眉間には小さな皺がある。鼻面を寄せるといつもの花畑みたいな芳香のするシャンプーの名残を拾った。このひと、絶対浮気しないんだろうな。何も隠せないことを諦めているのが可愛く思えて、両手で頬を挟んだ。
やっぱりいただきます。心の中で呟いて、じゅっと口を吸う。
「待て、三鬼、先生、少し」
軽く洟を啜る能崎さんから顔を離す。鼻腔に透明の鼻水が僅かに垂れていたので、近くのボックスティッシュから一枚引き抜いてそれを綺麗に拭き取った。子どもみたいに世話を焼かれることに彼は特に何か言うでもなく、ただ待てと再び言った。
「準備したいから? 俺が手伝うのに」
「尻の具合は話してない。お前の面がそんなだから」
能崎さんの手が大袈裟に俺の肩を叩く。隠し事をしたのに、親から唯人は優しくていい子だから、とか何とか言われて、脆くなって、わあっと泣いてしまう時みたいな、幼い心がそうしたくなるような瞬間にぐっと喉が詰まった。
〈後略〉
『白衣の背中』5/11:文学フリマ東京40 丹路槇 @niro_maki
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