第15話
にも拘わらず、
「起こして」
空と土とが逆さまになって血が葉奈の頭にはじゅうじゅうと音を立てて逆流する一方だった、巡らせるためのこの健康器具なのに溜まっていくのだ、滞っていくのだ、頭ばかり重たくなっていくのだ。このまま血の充実が行われ続ければいずれぼと、と首のところがちぎれてもげ落ちてしまいそうだ、と葉奈は思った。そんなことになるのは嫌だ、そんな、こんな、ぱんぱんになった頭を最後にぼとっと世に落として死ぬなんていうのは嫌だ、でもちぎれてしまえばちぎれたところから血が逃げていくだろうから大丈夫なんだろうか?否、否否、大丈夫なわけがないだろうと思うと未だに悠長にサングラスをずらし、葉奈の目の様子を確認しようと試みる学の気の利かなさとのろまさに改めて腹が立って来た。半笑いの唇をして、少し怯えたようでもなくはないような目蓋をして、あたかも冗談でしょう? 本気じゃないでしょう? と信じ切った子どもが無邪気さを振りかざして自分は既に、そして常に、赦された存在でしょう? と訴えかけるようなまなざし――、逆さまからではありながらそのまなざしにその気持ちがありありと葉奈には見て取れるのだった。サングラスをずらされた以上、学にも葉奈が泣いているのだということはもう明らかな筈なのに何をぐずぐずしているのだ、という点がまずひっかかるし、わざわざサングラスをずらしてまで人の泣いているのを見てやろうというそのあさましい心根にもひっかかる。そもそもこんなことで泣いてしまっている自分、昨日の情けない喧嘩と仲直り――そう、確かにきれいに仲直りした筈ではあったのに――を経ての「今日」というものそのものがもどかしかった。
「いいから一回起こしてって」
と両腕を突き出してかかげながら葉奈は自分でも何でこんなに情緒不安定なんだろうと思うのだった。何が気に入らなかったのかが自分でもよく分からない。腹を叩かれたのはいい。冗談に決まっている。その叩き方が加減を超えて強かったかというと別にそういうわけでもない。あまりにしつこく叩かれたからか、というとそれも違うのだ。
かかげられた葉奈の両手首を学がつかみ、
「自分でも起きられるでしょうに」
とちょっと不平っぽく言いながらも結局引っ張って起こしてくれた。
自分で起きられたか起きられなかったかと言えば起きられた。独力で起き上がれなくなるような攻めた器具が区立の公園に置かれているわけがなかった。故に起きられた。学の言う通りなのだが葉奈としては気に入らない。言い方がなんだか気に入らない。でしょうに、の部分が妙に癪に障る。けれども、もういい加減自分の理不尽な不機嫌にも辟易で、こんな所で昨日のような口論を始めたくはなく、何より今日は一年ぶりの公園を楽しみたいという思いも勝り、ここは忍んで大人で行こうと決めた。それで譲歩のつもりで、
「こういうのは起こしてもらうことが重要なんだよ」
と限界まで頬に息を溜めて、唇をとがらせて誇張してみせた。その顔が学にも見えるようにという意図と、単に濡れて苦しかったからという理由でマスクを外した。サングラスもわざわざ取った。最大の譲歩だった。
「ははっ! 変な顔!」
と手を叩いて猿のように笑う学は、どうやら久しぶりの外出を特にてらいもなく楽しんでいるようであり、昨夜の口論も、暴力も、既に全く気にしていないように見えた。――それでいい、それでこそ学だ、あたしは笑わせようと思って変な顔をしたのだから笑ってもらって一向に構わない、「変な顔」、と何の工夫もないのも学らしくていいじゃないか、OK、笑ってくれてありがとう、と思おう、と葉奈は自分の心に言い聞かせた。その上、ハハ、と自らも短く笑った。齟齬が生じている、と思った。何かがずれていると感じた。頭や胸ではなくもっと腹の奥の方、深い暗いところが半熟でひずんでいる感覚があった。
「ねぇ、はは! ね、今の顔はは! もう一回やって」
と言う学の目が輝いている。やっぱりずれている、と葉奈は思った。自分で面白い顔をしておいて、それを笑われてむかついている、・・・・・・どう考えたってずれているのは自分なのだ、理不尽に不機嫌なのはこの場合自分の方なのだと自覚しているから、どうやって穏便に要求を断ったらいいかも思いつかず、仕方なく、もう一度同様の、学の言う所の「変な顔」をした。
「はは!」
と学は今度も大受けの様相で「もう一回やって」と言うのだ。
三回目はしたくないな、二回が限度だな、と葉奈は思った。一回目は自分の意思だったからまだよいとして、実は二回目もかなり渋々やったというのに、さすがに三回目はできない。かと言って「三回目はしない」とにべもない直球で断れば、一応和解したということになっているこの空気、一年ぶりの公園に来て開放感に酔いしれているというこの空気に水を差すことになる気がした。しかしそれを踏まえて尚、三回目をやりたくはなく、けれども昨日からの流れを考えればやはりここは自分が飽くまで譲歩すべきだろうとも思われ、深く息を吸って目を閉じた。極力落ち着いた調子で、
「あのね、ごめん学、一回、落ち着こっか。ううん、あたしが落ち着きたいから、いったん、静かにして、あたしも静かにするから」
「はは! その顔も面白い! はは!」
やらない、という雰囲気を出しながらやる、というのをやっているのだと学は勘違いしていた。ということなのだと葉奈にも分かった。確かにそう取られても仕方のない表情をしてしまった気がしないでもなかった。
「分かった。笑っていいよ、OK.でも今ので最後だから、終わりね。本当に、もうしないから。もう笑わないで。今笑ってるのが収まってからでいいから、収まったらちょっとだけあたしに時間ちょうだい、これは、ほんとに、――いや、ほんとに、気持ちの整理つけたいから」
「うん」
と学はやがて笑いやんで、葉奈の方を心配げに、あるいは期待に満ちて、見つめ始めた。
葉奈はもう一度、
「ちょっとでいいから、静かにさせてね。抑えるから。急にごめんだけど静かにしててね」
と念を押してから、目を閉じ、自分の腹のあたりに手をあてた。腹は熱いようだった。これはかなしみだろうか? と確かめようとして強く触れればたちまち破れ、壊れてしまいそうな半熟の感情がそこにはあって、本能的にこれ以上力を加えるわけには行かないと感じられた。何なのかしらこの感じ。白川さんのこと? 怒ってるだろうなぁ。『やっぱり仕事やりません飲みにも行きません』からの着拒。白川さんの立場からしたら意味分からなすぎるもんね、何であんなことしちゃったかな。あとで謝らないと。やっぱり仕事をさせて欲しい、という方向性ではなく、まずは社会人として、人として、あるまじき行動だった、と純粋に謝罪する方向性で入って、あんなことをしてしまった以上もう仕事を振ってもらえるとは思っていませんが、純粋にごめんなさいの気持ちだけは伝えるべきかと思いまして・・・・・・という方向性で行けば多分行ける。学がきっとその辺は何とか丸く収めてくれる。OK。司法書士試験、まあこんなふざけた態度でうかるような試験じゃないからね、でも一応頑張ろう、OK。現状ぬいぐるみの販売が主な収入源になっている、これが心もとないか? まあ本当に困ったら学にもバイトでも何でもしてもらって何とかなる。OK。こどものこと。そろそろ生んどいた方がいいかも。要らないか。子どものいる世界線といない世界線と。要らないか。その前に結婚しといた方がいいかな。その辺の話、学はしてこないけれど、どう思ってるのかしら。まあ多分言えばすぐ結婚してくれるし子種もくれるだろう。あたし次第だ。OK。それにしてもそろそろあたしも、時々かっとなるのはやめよう。OK。やめた。これからは大人になる。OK。ざっつおーる。だいぶ落ち着いた。静かに深い呼吸を試みた、するとまた学が、
「はは! ! ! 豚! はは!」
と今度こそ狂ったように笑い始めたのだったが葉奈としてはやっているつもりは全くなかった。真面目だった。豚などと愚弄される謂れは断じてなかった。
おい、
お前な、
と思いかけたのだが、あまりにも楽しそうに学が笑うものだから、葉奈もいつの間にかつられて笑ってしまっており、笑ってみれば本当に楽しいようにも思われて来、腕にも足にも胴にも急にぐぐと力が漲った。それは種の時期も苗の時期も飛ばして忽然と稲穂であるというような藪から棒な力で、自分が力を使うのか力に自分が使われるのかが分からないような狂躁だった。胸と腹と頭と四肢で、ない交ぜになって見極めが利かず、水底が沸騰する。水面にはじけて、痛いような涅槃がぱッと同心円に広がって、
「 !」笛の音は、ひび割れて、
既に笑いすぎてほとんど芝の上に膝をついた態勢の学の首もとに思い切り飛びかかって行った。乱暴にくっついた。その勢いに押し潰れた滴が一部飛沫となって散り一帯の名も知れぬ草と土とを潤した。すると虹の下で茎が育ち虹をはみ出して花々が開いた。「殺してやる! 今日こそほんとにぶち殺してやるよ!」うなりを上げてのしかかる。逃れようとして器用に動く学の身体を葉奈の力ずくの四肢が竦めて逃がさない。逃がさない。離れたくない。背中に呼吸をあてて、汗とも涙とも区別のできない甘酸っぱい滴りを無遠慮になすりつけながら、こうやってこの人が笑うからいつもごまかされて来たのだと思った。こうやってこの人がこれからも笑い続けるのならまだもうしばらくはごまかして行けるのだろうとも思った。他はどうでもいい。滅びろ。なんだかお腹が空焚きするようだわ、ああ、熱いわ、何も温めるものなんてないのに熱だけが暴走するみたい、少し苦しい、でももうとりあえず今日はそれでいい、そんな日もある、こいつをぶち殺しさえ出来ればそれでいいんだ、そのように思う葉奈の下で、学は、朝湿りも残る草地に組み伏せられて、嬉しそうに土に濡れ、葉奈に濡れ、自らも得体の知れない蒸気をしとどに発しながら芝の先が胸や腹の皮膚を突いてちくちくするよ、痛い痛いと一頻り笑い続けた。
完
葉奈と学 天丘 歩太郎 @amaokasyouin
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