第14話

 コーポは丘の中腹にある。

 この丘を一番高いところまで登り切ってから左に折れて私道だか公道だか判然としない藪の小道を一分ほど歩くと崖の突端に直面し、視界が一気に広がって、和光市の平野と荒川の向こうに川口市のビル群を見晴らせる。絶景とも行かないが、歩いて五分で見ることのできる景色としてはじゅうぶん贅沢ではある。もしかしたらこれは崖ではなく、坂と言うのが正確なのかも知れないが、ぱっと見の印象はやはり崖でありその崖に階段が――百四十二段の石製の、幅の狭い階段がべったりとへばりついている。何とか人間が二人は並んで歩けるかというくらいの幅しかないのである。しかし崖に階段が設置されているというのもおかしな話なのでやはりこれは坂と呼称するのが妥当だろう。妥当だろうとは思うのにどうしても咄嗟には崖と言いたくなる、それくらいに急峻な坂だから当然ながら階段の角度もするどい。転べば死ぬだろう。「崖」じみた「坂」に設置された「梯子」まがいの「階段」、この階段がもしなかったとしても、それ程遠回りとも思われぬ迂回路はあるので、住民の利便性の観点からというよりは施工者の意地とか挑戦とか、もしかしたら酔狂でこんな所に敢えて階段を設置したのではと疑いたくなるようなそんな階段である。

 その最上段に女が一人、腰をおろしている。しょんぼりしたような背である。葉奈である。夜景を眺めている。ちりぢり、ぢりり。何か虫が鳴いている。

 ところへ男がやって来た。その額には汗がにじんでいる。息はぜえぜえと荒い。学である。学は方々を一時間近く走って葉奈を探したのだった。本当にこのまま帰って来ないつもりかも知れないとも思ったのだ。だから埼玉へ向いて階段に座っている葉奈の後ろ姿を認めると、結果的に、家からほんの五分のところにいたのか、という徒労感と、こんな近場に座り込んで全然どこにも行く気が無いじゃないか、という安堵が自然に笑みとなって頬をこぼれた。そして少し離れた背後に立ってしばらく息が落ち着くのを待ってから、丁寧な動作で隣に座り、

「淫乱って言ってごめんね」

 学が切り出すと、葉奈は短く「ぅ」と呻き、掌は地面を触って汚れていたから手首のあたり、動脈の通うところで目の下を拭った。そして鼻をすするような音はさせてから、ちょっと黙ったままだった。敢えて学は前を見ていた。涙がすっかり蒸発するまでの時間稼ぎにもう少し何か言葉を足すべきか、と考え始めたとき、

「いいよ本気じゃなかったでしょ。あたしも暴力ふるってごめんね。怪我してない?」

 と葉奈は全く震えることのない、まっすぐに進んで行くことのできる声で言った。それからはもう星の運行のような滞りなさで、昼と夜のような交互さで、次のように言葉だけが交わされた。

学「全然。手加減してくれたの嬉しかった。貞節のジャングル」

葉奈「よかった。ごめんね。さっきもしかして何か渡そうとしてた?」

学「うん。これ」

葉奈「ありがとう。そうだね。もう公園解禁しよ」

学「そうしよ。似合ってる」

葉奈「あの一群れの光って池袋かな?」

学「方向違うんじゃない? 川口らしいよ」

葉奈「川越じゃなくて?」

学「川口らしいよ」

葉奈「朝霞でもない?」

学「川口らしいよ」

葉奈「すーん、すーんて。抜けてく。外って気持ちいいね」

学「25分したらいったん帰ろうか」

葉奈「そうね。それで、少し眠って明るくなったら、公園に行こう。ごめんね?」

学「いいよ」

 星はまばら。月は陰っている。どちらからというのでもなく肩と肩、こめかみと頬とを寄せ合うと、傍目にはどうにも不安定そうに見えるこのもたれ合いに、実は独立の小銀河が生じていて、互いにほとんど力を使わず座っていられた。もう余計な調整は要らなかったから、後は無言で風に吹かれた。五月の乾いた夜の風だった。

 ――およそこのような経緯を辿っての、一年ぶりの解禁初日が星丘台地公園であった。背伸ばしベンチ2号であった。

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