第4話

 ロフトで葉奈がこのようになっていた時、下で、学は『あつまれ動物の森』をやっていた。

 ゲームに限らず、音楽、動画など、二人で一緒にそれをしよう・楽しもうという合意――黙示も含め――がある時は別として、学も葉奈も基本的にはイヤホンまたはヘッドホンで音を聞いた。固有の時間を過ごす際にはだいたい学が下、七畳にいて、葉奈は上、四畳のロフトでそれぞれ過ごすというのが慣習化していたのであるが、上と下とに別れるとは言っても所詮は同じ部屋の中のことだから、一方がクラシックを聴こうという時に他方がトランスを聴いていたのではお互い邪魔になるし、一方が静かに本を読みたいときに他方が詩吟の動画を流しているというのでは気に障る。そうでなくても壁の薄い木造のアパートだから、隣の部屋、階下の部屋に対する迷惑を考えれば好き放題の音量でスピーカーから音を出すこと自体がはばかられた。 それでこの時も学はヘッドホンをして、【みすず】という名の虹色の小熊を自分の島に迎え入れるべくひたすら離島を巡っていたのであるが、どうやらロフトの方からしきりに葉奈の携帯が鳴っているらしい音が、ゲームの音響の合間々々を縫って聞こえて来た。まあ今は気軽なゲームのその中でもかなり単純作業に属する行程をぼおっとこなしているだけだったから別に不快に思ったというようなことでは全然なかったが気になり始めてから二十分も経とうかという頃になるとそれにしても鳴りすぎでは? と不審に思われて来てヘッドホンを外してロフトの様子に耳を傾けた。するとやはり携帯の鳴動する音が続く中に、時折、舌打ちする音、「もーおおおおぉ」「ぅああああぁぁ」という、うめき声ともため息ともつかぬ息づかい、更には「もうやなんだけど!」と明確に発声せられるのも聞こえ来、とは言えまだこの段階では下に学がいることでもあるし一応声を抑えようと努めているらしいことは伺え、学は下から声をかけようか、それとも様子を見に梯子を上って行こうか、としばらく思案している内に、ため息やうめき声がだんだんえづく感じになって行きやがてもう極まってしまって辛抱のしようがなくなったというような嗚咽と慟哭に転じて来るとさすがに居てもおられず葉奈、葉奈、何してるの? と声を上げながら梯子に、こんな時こそ慎重に、足をかけた。

 梯子を数段上ればロフトの様子が目に入る。マジックハウスのようだ。天井は傾斜している。直上が屋根であって屋根に沿って傾いているのだ。初期には平衡感覚が狂ってダメかもと言っていた。が三日もするとむしろ落ち着くと葉奈は言った。四畳のスペースにノートパソコン、イラストを描くためと思われる何やら電子的な五十センチ四方の板、ぬいぐるみや洋服作製のための色とりどりの布や綿と大小のおびただしいボタン、裁縫箱、国家試験の教科書参考書問題集ノート八十数冊ほどはおよそ十冊ごとに重ねられて林立するのに完成したか完成間近のベア数体が丁寧にもたせかけられている。電子ギター、タオル、電子ピアノ、ヘッドホン、本物はさすがに置けぬからままごとの鏡台、化粧品の詰まった箱、家着のジャージ数着、外着のティーシャツ、コート、下着類、カーデガン、ベスト、セーター、ゆるやかなラグラン、タイトジーンズ、キュロット等の横溢して破裂しそうな半透明ブルーのケース三つ、スキャナーとプリンター、飴とチョコレートの詰まった袋、たばこのカートン。灰皿、電子系のそれぞれからタコ足コンセントに伸びる無数のコード。そうなると必然ふとんの上より他に居場所はないのにその、頼みのふとんすら今や四面楚歌に折れ曲がってめくれ上がって変な形。葉奈自身も縮み上がったように小さくなってその変な形のふとんに突っ伏して、右手も左手も掛け布団をぎゅっと引き掴んでいた。左足と右足も手ほどの器用さではないもののそれでも真剣に指は折りたたまれてふとんの綿をくわえていた。その体勢で一見静止して、嗚咽も慟哭も今は止んで、ただ呼吸のためにかろうじて背中が上下していた。呼吸はゆっくりだったけれども自然ではなく、ゆっくり息をするんだと懸命に意識してするようなリズムで、時々ぴく、とか、ぶるぶる、とか腹の辺りが動いていた。あれだけ嗚咽し慟哭したのであるから何かしら特別な、どちらかと言えばあまり良くはない何かしらがあったことは明らかで、学がそれを知っていることを葉奈も当然分かっていて、葉奈が分かっていることを学も当然分かっていることも葉奈には分かっている筈で、その上で、葉奈が学の声がけに応えない・応えられないのは、簡単には学にも打ち明けたくないような性質の事なのか、そうであれば学もそれを無理にも聞き出そうとは思わない、そっとしておく方が良い場合もある、と思いはしたのだが、既に声をかけてしまった以上、葉奈の反応がないのを見てそのままに引き下がっていくというのもそれはそれでおかしな行動のようにも感じられ、「言いたくなかったらいいよ」と気持ちを素直に伝えるだけ伝えてしばらくは放っておくのが良いか、それはそれでほんの少し抑揚を間違えれば険のある聞こえ方にはならないか、そうではなくこのまま梯子を上り切って寄り添いその背をさするのが良いか、と考えるけれどもそもそも葉奈が何故このような情態になっているのかが掴めないので上にも下にも動きかねていると、葉奈がぬくと身を起こした。学の方を見て、

「ん? あ、ごめん、うるさかった?」

 と、きょとんとして言ったのだが、涙はふとんに染ませたとは言え明らかに目は泣いた後の赤い目であるし、両の頬には二つ三つと傷が付いて少し血がにじんでいるようでもあってとうていきょとんでは通らない顔なのである。「マナーにするね」と葉奈はずっと鳴っている携帯を拾うと二、三いじってその鳴動を止め、それから再び学の方へ向けられた目がやはりきょとんとしようとしていた。更に葉奈は、

「【みすず】来た?」

 とまるで「あっけらかん」の意味を異星人に伝える時の例示のような、ひとたまりもない顔で言う。

 とても通らない。きょとんのわけがない。あっけらかんである筈がない。通らないのではあるが、葉奈がどうしても押し通そう・通してくれというのであれば学はいつも通す。

「全然来ない。でももうちょっと頑張ってみる」

 と引き下がって行こうとする学に向かって、葉奈は短い親指をぐっと上に向けて突き立てるとともに、きゅっと唇を引き結び、口角を上げて見せた。学も同じ挨拶を返すと、踏み外すことのないよう慎重に、下りた。


 という一幕を経たは経たものの、結局その日の夜には葉奈は全部を学に打ち明けることになったのではある。

 椎茸、エノキダケ、白菜、豚肉、長ネギ等を真水で茹でて、ポン酢で食すだけの簡易な食事の用意を学がして、そろそろ落ち着いてもいるだろうと声をかけると果たして葉奈は下りて来て、普段通り、背の低いガラスのテーブルの脇に置かれた座椅子に座った。それでもまだいつものような元気はない様子で手指消毒の上「いただきます」と手を合わせ箸を取る葉奈の向かいに座って学が考えていたことは、葉奈の頬の、おそらくは自分で何かしたのであろう痛々しく傷になっていることだった。さっき学は葉奈の心情をくみ取ったつもりで核心には触れずに、だからその頬の傷のことにも一切触れずに済ましてしまったが、あれから数時間経ってなお、どうやら爪のあとと思しき傷が残っているのだ。言いたくないものを無理に言わせる必要はなかったしそれ自体は今でも間違った対応だったとは思わないが、その結果として結局俺は葉奈の頬の傷を、しっかりと見ておきながら放置したのではなかったか。二、三日で消えるものとは思うけれども万一、傷から悪い菌など入って化膿などすることがないとも限らぬというのに。傷自体が化膿しなくても傷から入ったばい菌が全く別の病気を引き起こさないとも言い切れぬというのに。それなのに俺はそういった心配を全然せずに、いや、心配な気持ちを確かにこの胸に自覚しながら、機嫌を損ねることを嫌ってなあなあに済ましてしまったのではなかったか、本当にそれでよかったか、このまま知らぬふりで傷を放置するのが優しさだろうか? 時々痛そうに頬に手をやったりしながらも気丈に、痛みなど、そもそも傷などないのだという態を装いながら、それでいて普段は一口で行くのが当たり前の椎茸をあまり顎を開けないで済むようかじって食べている葉奈を見ていると、逆にそのような虚偽の振る舞いを強いているのは自分なのではないか、とも思われて来て、とにかくも傷の消毒をしなければならない・したい、という気持ちが突き上げて来、

「消毒した方がいいかも」

 勃然と立って、冷蔵庫の上の常備薬の箱を取ったのである。

「べ、べつに――」

 と、葉奈が何か言いかけるのを遮って、

「さっきも気付いてたのに、ほんとはすぐ消毒した方が良かったのに、言って上げられなくてごめんね。言いたくないことは何も言わなくていいから傷だけ消毒しよう」

 と学は何か怒ったようにも見えなくはない顔つきで脱脂綿にマキロンを染ませる。

 そのような学の有無を言わせぬ態度に、学如きが生意気な、と葉奈は思いながら何故だかまた急に、もうすっかり収まったと思った筈の涙がさっきとはまた違ったニュアンスでむしろさっきよりも激しくこみ上げて来るのを感じた。今度は上を向いたり頬をつねったりの言い訳をする術もないから、もう堂々と泣くよりないようにも思われたが、このような成り行きのべっとりと後々まつわりついて来るであろう種類の涙は自分のためにも学のためにも何としてもこらえたいと考え、

「いいよ、自分でやるから」

 と、脱脂綿を学の手からひったくると乱暴に顔にぬりたくり、思いのほか傷に浸みて純粋に痛くて泣きそうになるのもここだけはとこらえ、「別にさぁ。何を気を回してるのか知らないけど。言うまでもないから言わなかっただけなんだけど」

 と、できるだけどうでも良いことのようにことのあらましを語ってしまってから、さっきは初めてのことで面食らってしまったのもあって見苦しい所を見せてしまったが、その後数時間も考えてみれば意地とかポーズとかではなく、スタンスでもなく、実際、本当にどうでも良いことのように思えてきた、今もどうでも良いことと思っている、思おうとしているのではなく思っているのだ、と述べた。あれだけ無様な姿をさらしたのだから気を遣われるのも仕方ないしありがたいという気持ちもないではないがこれ以上は必要ないからもう忘れて欲しい、とも付け加えた。

「分かった」

 とだけ学は言った。

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