第3話

 厳冬盛夏は別として晴れた日ならばベンチがあればじゅうぶんだった。各々読みかけの本とおにぎり、時季により熱湯または氷水を入れた魔法瓶とインスタントコーヒーの粉、たばことライター、携帯、財布あたりを小ぶりの肩掛けに背負(しょ)って出かけるのだ。時刻は何時と決まらない、空が白み始めればその時だ。板橋練馬の辺りには大小の公園、緑地が充実しておりてくてく歩けば大概は五分、どんなに長くても十五分に一回以上の頻度でベンチに出くわす。出くわしたからと言って必ず座るというような決まりはない。鳥の糞に汚れたり、カビ苔に侵食されたような不潔すぎるものは通り過ぎていい。それでもすぐに次が見つかる。手頃なのがあると二人は並んでとか向かい合ってとか思い思いの位置に腰をおろし携帯のタイマーをスタートさせて本を読むのだ。たまにはどちらかがスケッチを始めてみたり、何か書き物をすることもあったがだいたいは揃って本を開いた。本は小説だったり、資格試験の教科書・参考書だったり、雑誌だったりしたが何にせよ二十五分が経ってアラームが鳴るとぱしん、

                    ぱしん、と音が出るほどきつく閉じ、肩掛けにしまい、雑談などしながら歩き始める。それでまた五分十分歩いていると次のが見つかるからそれに座ってタイマーをセットして二十五分、本を読む。途中でどちらかがふざけ始めるようなこともあるがそれでいい。重要なのは二十五分以上集中しないことであって、二十五分は集中しなければならないのではないのだ。

 私有地と見分けのつかないような小さな草地のベンチ、

 川沿いのベンチ、

 街路樹の下にぽつんと置かれたベンチ、

 児童遊園のベンチ、

 高架下の公園のベンチ、

 そうやって、途中々々の小島で休憩を取りながら別の大陸を目指す鳥らのようにベンチからベンチへと渡り歩いていると例えば星丘台地公園、赤沼公園、新三園国定梅林など、大陸というと大げさだが、大きめの島にたどり着く。大きめの島の中にはたくさんのベンチとテーブルさえ用意されていることもあり、良さそうなのを見つけてそろそろ昼時、季節によって熱いのや冷たいコーヒーを淹れ、おにぎりを食べる。気分次第でコンビニやファーストフード店で弁当やパン類を買って食べることもある。喫煙所があれば喫煙所で、なければ迷惑にならなそうな片隅を探してこっそりたばこを吸い、また二十五分ずつ次々ベンチを替えながら本を読む。日が傾いて来ると公園を後にして、帰り道にも一つか二つのベンチを経由して、日の暮れる前には夕飯の食材を買って帰宅する。

 雨の日や風の強い日ならば図書館を利用した。新三園図書館、赤沼図書館、、平光図書館下古倉分館、星丘台地図書館と徒歩圏内だけでも枚挙に暇がない。青く晴れた空の下で、なるべく緑の多い細道など選びながらベンチからベンチへさすらうのがもちろん一番良いには良いのだが、日照りも強風も雷雨もはねのけてくれる公の丈夫な建物の中で、窓際、頬杖ついて、「明日は晴れるかしら」「晴れるといいね」「きっと晴れるわね」「うん。きっとね」などとひそひそ言葉を交わすのもそれはそれで悪くなかったというようなそんなような日常はきっかり一昨年までの話だ――新型とされるコロナウィルスが去年一月だか二月だかにはすんなり日本にも入ってきて速やかに広まった。「水際ってなぁに?」と子が問うと「水面と陸地の接するところ。それ以外の意味は一切ない」と母だか父だかが答える暇もなく三月には東京北海道を皮切りに各府県順次侵されて行き緊急事態宣言が発令されたのは四月に入ってからだった。市場からマスクが尽きハンドソープと除菌用アルコールが消え水も食料も品薄が続きデマゴギーだけが盛んに飛び交い何一つとして本当のことは伝えられなかった。何が本当なのか誰にも分からなかった。陰謀論を陰謀論だと言って否定する情報がプロパガンダの塊だった。逆にプロパガンダと見せかけて深い暗い淀みの底の勢力の工作のようにも思われプロパガンダなんて言葉を使うからにはその意味をよくよく調べてからにしろよいったい何のことを言ってるんだ戦争のない国でいったい何がプロパガンダかお前はこれは陰謀論ではなく陰謀なのだと本質からかけ離れて行く者と踏みとどまる者と現れていずれにせよ何故それが陰謀論と言えるのかプロパガンダと言い切れるのか陰謀と言い切れるのかプロパガンダ論と言い切れるのかの説明を誰もしなかった。仮にしたとしても彼自身の存在と所属の信憑性が胡散臭すぎて話にならなかったりそもそもの発信力が欠缺していた。結局めいめい信じたいデータに基づいて信じたい人の主張を信じたいように曲解して信じるか全く同一の事由に【論】とか【説】とかをつけて裏返しにして否定するしかなかった。トイレットペーパーがなくなるというのはデマだという情報を信じてのんきにしていたら本当にどこに行っても紙が売られていないことになっていて試しにネット通販のサイトを覗いてみればワンロール3980本当に必要な方に届きますようにとのメッセージとぽつんと置かれた本当にワンロールだけの剥き身のトイレットペーパーの写真付きで出品されているのを目のあたりにして次からは誰よりも早く買い占めるのだ次回のデマには絶対に乗り遅れてなるものかと決意を固くした者があり、だからこそ自分だけはそれでもなおデマには踊らない絶対にと決意した崇高な者もあって、どちらが正しいのか誰にも分からないでいるうちにオリンピックとパラリンピックの延期が決まった。葉奈はこの時分「次には虫除けスプレーや蚊取り線香の類いがなくなるでしょう」と預言者めいた低い口調で学に言いつけ「でもくれぐれも買い占めてはいけません、今夏分だけ春の内に買っておけば十分でしょう」とつまりは蚊がウィルスを媒介するというデマが流れるであろうそうなると虫除け虫殺しの品物が次の買い占めの標的になるであろうと告げたのだった。「さすが葉奈、天才だ」と言って学が薬局に走ってフマキラーやらノーマット、蚊取り線香、キンカンやらを一揃いだけ購入してきた。こんなやりとりは葉奈にも学にも遊び半分の暇つぶしでしかなかった筈なのだけれども遊び半分のもう半分は真剣だったのでもあり、だから学は本当に買いに走ったのであるし、葉奈は学に告げたのと同じような内容を自身のツイッターにおいて一揃いの虫除けグッズの画像も添えて呟いたのだった。そうしたところ、

――貴女のような人のせいで今回トイレットペーパーがなくなったということが理解できませんか?

――死ねよババア

――悪質過ぎると思います。通報しました。本当に。もしあなたが逮捕されないようであれば何度でも警察に理由を問いただすつもりです。あなたが逮捕されるまで執拗に。

――バカのくせにしゃしゃるなくそばばあが。

――死ね転売屋。死ね。

――私は葉奈ちゃんは善意で投稿したんだって分かってるけど、これは誤解されても仕方ないよ

――劇団、今週末公演するってなってるけど本気? テロじゃん

――了解です! 次は殺虫剤買い占めればいいんですね!

――ブス


 かれこれ五年程かけてフォロワー二千人になろうかというアカウントだった。SNS自体にもともとそこまで興味はなかったが、つてで零細な劇団の芝居の役者の手伝いのようなこともしていた関係上、周囲からのすすめもあって渋々始めたのだった。自分の言葉や時間を安売りするようで抵抗感が最初は強かったが、少しずつフォロワーが増えて行くのは純粋に嬉しかったし、いいねがつくのも楽しくなってきてだんだんとどういうことを言えばいいねが多くつくかばかり考えて呟くようになっている自分に気付き、いや、あたしはそういうんじゃない、自分の道を行くんだ、迎合してなるものか、と反骨心に燃え思いのままをそのまんまツイートするとそのツイートに過去最高数のいいねが来て、ぅわーやったぁ、と手を打ち合わせるなどして、つまりいつの間にかドはまりしていた。五年で二千人弱というのが多いのか少ないのかは見方にもよるが葉奈なりにここまで頑張って育ててきたアカウントではあった。

 ところでこれまでも誹謗中傷や、セクハラのようなコメントがぽろぽろ混じっているということはままあったが、今回のように上から下まで罵詈雑言で埋め尽くされるというような経験はこれが初めてだった。葉奈はわなわなと震える指先で、自分は買い占めを勧めたわけではなく、買い占められる前に必要な分だけ買い置いておくことを自分のフォロワーに伝えたかったのだということ、いつも応援してくれている人達の役に少しでも立てればと言う気持ちしかなかったということ、転売などは1ミリも考えてない、それどころかマスクやトイレットペーパーの件では自分も手に入れることができなかったのであり、転売屋を憎む側の人間であること、添付した画像は一見たくさんに見えるけれども虫除けスプレーと、虫除けの線香、刺されてしまった場合の塗り薬などをこの夏に使い切ってしまうであろう分だけ買ったのであり買い占めどころか買い溜めとも言えないような分量しか本当に買っていないこと、それでも今多くの人からの意見を聞いて落ち着いてツイートを見直すと、自分が買い占めたようにも取れなくはないし、買い占めを勧めているようにも誘発しているようにも取れなくはないと気付いて反省中であること、劇団の公演については自分もこの時期どうかと思っているが主催者がやると言っているので自分に文句を言わないで欲しいこと、そもそも自分は今回ほとんど台詞もない端役中の端役だから決行も中止も何の発言権もないから今ここで公演のことを言うのはやめて欲しいこと、自粛はしている、多分あなた方よりもしてると思うということ、じゃあどうすればいいですか? 消せばいいんですか? ていうかそもそも転売って必ずしも悪いことと言い切れるんですか? などということを連投したのであるが返って火に油を注ぐ結果にしかならず、ますます「ばばあ」「バカ」「ブス」などの比率が上がって行くばかりでもう葉奈には手に負えない程に燃え上がってしまったのだった。連携して時々利用していたフェイスブックやインスタグラムの方までわざわざ行って罵倒や嫌みのコメントを残していく者も相当数出て来て、それはもう葉奈の今回のツイートに対して怒っているのではなく、葉奈という人間をまるごとに潰したいのだと葉奈には思われた。更に、所属しているというわけでもない、手伝いで、ただ端役でちょっと出るだけの予定だった劇団のページやその劇団員他関係者らのSNSにまで飛び火してテロだの人殺しだの書かれた。

――劇団に罪なすりつけて自分だけ助かろうとして余計叩かれてて草

――お前やお前のフォロワーだけが確保に走って、そのそれぞれが家族親族友人知人はもとよりSNS等で拡散始めたら他がそのせいで困るだろ。言い訳が頭悪すぎ

――どこまでも自己中な女

――ついでに劇団からも嫌われてそうで草

――こんなきれいな墓穴を初めて見た

――劇団員て臭そう


 中には今まで本気で応援してくれていると思っていたアカウントもあった。ファン、などという言葉は気恥ずかしいので葉奈自身は使わないのだがしばしば自分は葉奈さんのファンです大好きですと言ってきてくれて憎からず思っていたアカウントが今は葉奈を「ブスばばあ」とののしっていた。意地でも通知機能をONにしているために、ひっきりなしに鳴動し続ける携帯のディスプレイが霞んだ。泣いたのではない。すぐに真上を向いた。葉奈はこの時ロフトであぐらをかていたからつい目と鼻の先に天井があった。天井は傾いていた。そうして黄ばんでいた。泣いているのではない、泣いているわけがないと五、六度、目をパチパチさせた。ばかじゃないの、こんなしょうもないことであたしは何とも思っていない、もともとがSNSなんて暇なさみしがり屋が寄り集まってぺらっぺらの言葉を並べて。ツイッターもフェイスブックもインスタグラムも同じ、あんな素人どもの。あんな時間つぶし。あたしは全然もともと本気じゃなかったし。ずっとバカにしてただけ。楽しくもなかった。どうでもいい。でもみんながいいねを「ふっぅうう!」いいねを、押してくれたり、お、お、応援をぉ、「おっぉ!」してくれたのとかは「ゑぐどぅっ!」と携帯をふとんの上に放り投げると、返す動作、大急ぎで、両の手で両方の頬っぺたを力いっぱい、つねった。たちまち涙がこぼれ落ちた。ただ頬が痛かったからだ。

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