此岸の大火と激流の船頭

ミド

此岸の大火と激流の船頭

 静寂の中、布を擦る音と時たまの溜息だけがあった。その部屋の中では一人の青年が目を見開き、張り詰めた表情で下絵を描いていた。紙面に描かれつつあるのは観音菩薩の顔で、青年ソナム・パサンは僧院に付置された仏画工房の弟子だった。

 その背後に、親ほど歳の離れた一人の僧が歩み寄った。病に侵されたその足取りはぎこちない。しかしソナム・パサンは気づかない。僧はそのまま彼の正面に回り、画を覗き込んだ。そこまでして漸く若者は師僧の存在に気づき、驚いて顔を上げた。相手の視線も彼に向いた。そして気づいてくれたことを喜ぶかのように笑いかけた。

「ギャルツェン様、どうして俺なんかのところに?」

 僧ギャルツェンは僧院長であり、また僧院の僧達を菩提心へ導く為に記憶を保持したまま転生するとされる化身ラマである。ソナム・パサンが言外に示唆するとおり、立場上もまた体調の面でも、本来は僧院内を気軽に歩き回るような人物ではない。

 しかし、当の僧院長はそうした指摘を気に留めることもなく、年々皴の増える顔を綻ばせソナム・パサンに笑みを向けている。少年の頃から見つめてきた笑顔だ。叔父の伝手で家族の幸せ――子弟が僧になれば家族が徳を積めるという信仰上の理由と、四男二女を抱える家では後の方に生まれた子の面倒を見る余裕はないという世俗的な理由――の為に、ソナム・パサンが初めて僧院に入った日、迎えてくれたギャルツェン師の満面の笑みと暖かい手が、少年の胸にこれ以上ない安堵感を与えてくれた。菩薩とはこの人のような者を指すのだろうと幼いソナム・パサンは確信した。

「どうやらもう長くないからねえ、きみにも挨拶しておこうと思ってね。といっても、私は必ずまた戻って来るけれどね。過去の悪業が為した結果とはいえ、世俗が不穏な時期に暫くここを離れなければならないのは心苦しいものだねえ」

 師僧ギャルツェンはそう言うと今度は窓を見た。僧院を訪れる参拝者、寄進者、近隣の村の人々の噂に思考を向けているのだろう。異国の軍隊が侵略の用意をしているらしいという、衆生を脅かす流言についてはソナム・パサンを含む僧院の者達も耳にしている。

 ただし、この時仏画工房の弟子の心を占めたのは寧ろ、ラマの遷化への言及だった。彼に返せる言葉はない。去年からこのラマは直弟子に自分の死を覚悟するよう言い聞かせていた。誰もが今生に永住できず死を迎えると理解し、我が死をも悟りに至る道の観想の手立てとせよとは、実に化身ラマらしい言葉である。しかしソナム・パサンはそれを素晴らしいと感じられないでいた。

(師僧達はそうかもしれないが、俺はどうせ、この方の最期に立ち会えるわけでもない。)

 ソナム・パサンは才覚に溢れているわけでもなく、僧院での教育を一通り受けた後、単に席が空いていたから工房に入ったに過ぎない。彼とギャルツェン師の間には、何の関係もないことになっている。

「俺は、ギャルツェン様には当分今生の命に留まっていただきたいですがね。『次』は俺のことを覚えていてくださる保障はありません。俺はただの画僧見習いですから」

「それは善くない考えだねえ。私が僧達を役職で区分すると考えているのならば、即ちきみは私の菩提心を否定しているよ。熱心でない者、大悲を解さない者を窘めはするけれど、慈しむべき者に分け隔ては無いよ」

 ギャルツェンの笑みは今この時も暖かい。だが、それを見たソナム・パサンの胸は締め付けられた。

(そうじゃない……俺は)

 師が僧の年齢や位、又は相手が俗人であれば職業などを理由に他者への目つきを変えることなどないと知っている。このラマは全ての有情を慈しみの目で見る、といえば聞こえはいいが、それは彼が誰でもない「その他大勢」に過ぎないと宣告されるに等しい。

 彼が望んでいるのはその真逆である。この師僧がソナム・パサンをソナム・パサンとして見て、あわよくば傍に置いてくれはしないかと願ってしまう。彼がそれに相応しい学も積めておらず、才も持たないにも関わらずだ。その願望は彼の我儘であり、僧にあるまじき執着である。彼のラマもそれを見抜いているからこそ、敢えて先程は言葉の表面だけを捉えたかのように振る舞ったのだろう。

 ギャルツェンは部屋の壁に並べられた絵を眺め、ふと思い出したように言った。

「あれ、以前に来た時はターラー菩薩様を描いていただろう。まだ完成していないのかな」

 ソナム・パサンはぎくりとした。彼に任されたターラー菩薩の画は完成はしていた。だが、ここにはない。

「あれは……描き損じました、ので、瞑想の援けにはならないかと……」

 彼がしどろもどろになりながらそう答えると、師僧はやや低い声で尋ねた。

「差し上げたのかな、必要としている方に」

「はい、あげました。ですが、その……お金と、引き換えに」

 仏画工房の弟子は、子供の頃からの習性で聞かれた以上のことを正直に話してしまった。ギャルツェン師に向かって嘘を吐くことなど彼にはできない。それは僧院での教育で見に付いた慣習でもあるが、相手に失望される事への無自覚の恐怖からくる態度でもあった。

 もっとも、彼が本来売り物にしてはならない仏画掛軸を行商人に売ったのは、工房の師の指示によるものだ。出来の悪い彼が僧院に貢献できる手立てだと唆されては反論しようもない。諸仏への加持祈祷では救いの得られない社会経済の悪化から物価は高騰し周辺の村からの寄進は減少し、出家者の道に反する行いに手を染めなければこの小さな僧院の運営は成り立たなくなりつつあるのだ。

「ああ、きみを責めてはいないよ。それで、買い取ったのはよく息子に会いに来るあの行商人かな。彼は僧院に寄進してくれるけれど、出家者をいつまでも我が子と見過ぎる点は困った人だね」

 ソナム・パサンはただ目の前の作成途中の画を見つめながらギャルツェン師の言葉を聞くほかなかった。

「……そうそう、一つ思い出したよ。私はきみに、その行商人の息子のニマ・トゥンドゥブに渡す画を描くよう頼んだと思うけれど、仕上がったかな。あの子は気を付けて導かないと、道を踏み外しそうだからね」

 師僧が言及した少年は数年前に出家した近隣の村の子供で、修行熱心ではあるが生意気で頭でっかちの悪癖があった。戒めの為に絵を描いてやってくれと言われたのだが、ソナム・パサンは乗り気ではなく、後回しにしていた。ギャルツェン師があの高慢な少年に目を掛けていることへの暗黙の抗議の心算であった。それこそ子供のような拗ね方である。

「あいつははっきり叱られた方が良いんじゃないでしょうか。それに描いたところで、それこそ父親が売る為に取り上げて持って行きますよ」

 ギャルツェン師が彼の意見に同意するはずはない。渋々であろうと描いた方が師に喜ばれるに違いなく、それは彼の願望を叶える道にも通じるはずであるのだと、ソナム・パサンも頭では理解しているのだが……

「私は今生でも色々な子供を見て来たけれど、聞かん坊でもよい先輩を付けると一年の内にはきちんとした沙弥になったり、かと思えば真面目だった者が急に還俗したいと言い出したり僧院を脱走したり、色々あるよ。そうそう、きみ、自分の小さい頃は覚えているかなあ」

 想定通りに僧達への思い遣りに満ちた師の返答を、ソナム・パサンは半ば聞き流していた。ところがギャルツェンが珍しく彼について話し始めたために、画僧見習いは思わず顔を上げて師を見た。彼のラマは幼子を慈しむかのような表情を浮かべていた。

「僧院に来たばかりの頃に、よく恐ろしい夢を見たと言って泣いて先輩達を困らせていたね。一度は私に抱き付いて来たこともあったねえ。今でも見るかい、目の前の川を渡れない夢を」

 ソナム・パサンは師の言葉に覚えがある。確かに彼は幼い頃から川の夢をしばしば見た。夢の中で彼は決まって川岸に立っていた。真夜中で、周囲を照らすのは赤々とした背後の炎だけだった。此岸は燃えていた。当然、子供の判断力でも安全な対岸に渡るべきだと考える。だが目の前の川は轟々と音を立てて流れる急流で、子供の脚にはあまりに深くまた広かった。彼はじりじりと押し寄せる火の熱さを背中に感じながら川岸に座り込んで泣く他なかった。

「ええ。残念ながらまだ見ますよ。……子供の頃、ギャルツェン様は俺に、真面目に勉強していれば恐怖は消えるとおっしゃいましたが、どうやら俺には空性はさっぱり理解できなかったようです」

 彼は確かに一旦はギャルツェン師の言葉を聞いて真剣にラマ達の教えを理解しようと努力した。だが子供は大人に向かってあらゆる点が成長する。ソナム・パサンはやがて、多くの少年が他者に対しそれまでになく強い情欲を抱く時期を迎えた。彼に心の奥底から沸き上がる衝動を起こさせたのが、他ならぬギャルツェンだった。即ち、執着を捨てよ、諸々の欲に囚われるなと説くまさにその師に執着し欲望を見てしまったのだ。それが引き金となり、彼は遂に教え全てに疑念を持ってしまった。これでは悟りに向けて心を起こすどころではない。

「嘘は善くないね。火の正体に関するきみの推測は仏の教えを分かっているからこそ生じたのだろう。今はどう見えているのかなあ」

 ギャルツェンはゆっくり歩み寄り、ソナム・パサンを見上げた。

「夢に出るのは、煮え滾った鉄でできた手の群れです。皆して俺を掴んで、地獄に連れて行こうとする。そして俺は、夢の中で対岸にいるギャルツェン様に助けを求めているんです」

「そうだね。確かにきみから一度そう聞いた。そのとき私は、随分と前に川岸で出会った者のことを思い出したんだよ。ずっと黙っていたけれど、今生が終わってしまいそうだからね、そろそろ告げておこうと思ってねえ」

 ソナム・パサンは絶句した。雷に打たれたかのように大きく仰け反り、その場から逃げたい衝動に駆られた。彼の認識している全てが心の蓋を撥ね退けて暴れ出すかのような感覚がある。

 他者には決して口外したことはなかったが、端的に言えば、ソナム・パサンには幾つもの過去生の記憶がある。生まれた時からではない。記憶が蘇ったのは、情欲に支配されるまま師の衣の裾を掴んだ時だった。

「嬉しかったよ。きみとここで再び会えたからには、幾らでも話ができるからね」

「やめてくれ!」

 勝手に浮かんでくる記憶は悪行ばかりだ。ある時は悪逆非道の盗賊であった。自分より弱い者が目に入れば片端から奪い、快楽の為に幾らでも殺した。またある時は野犬に生まれて人肉の味を覚え、幼子を抱えた母親を襲って親子共々食い散らかした。隊商の仲間を斬り殺し金を奪って逃げたこともある。それら全てへの罪の意識が、彼の夢を変貌させ地獄へ引きずり込もうとした。或いは、最初から燃える此岸の夢は無自覚の罪悪感の産物だったのかもしれない。

 彼はまた、ギャルツェン師の過去生をも幾度か手に掛けようとした。業の為す報いとは恐ろしいもので、彼は記憶が戻ると同時に、殺そうとした相手の現在の姿と、それが今の師への思いに繋がっていることを直感的に理解してしまった。命を奪ってでも自分の物にしてしまいたかったが、果たせなかった。だから今も彼が欲しくてたまらないのだ、夢でも川岸にいる師に助けられたいが自分が助からないなら道連れにしたいのだ、と。

「それなら……あんたは俺が救い難い下衆だと知っていながら、今まで……何故俺を責めなかった、僧院にいて良い者ではないと追い出さなかったんだ……」

 ソナム・パサンは呻いた。彼は絶えず混乱し、矛盾していた。ギャルツェン師の好意を欲して身を焼くような熱を感じている。だがそれは愚かな執着と呼ぶ事すら生温いものだ。いずれあの悍ましい残虐な衝動が蘇るのではないかと恐怖している。ならば彼への望みの一切を離れようと、敢えて逆らいもした。自分の行動は、時折自分でも理解できない。

「確かに過去の私は、死にたくも苦しい目に遭いたくもなかった。だが、きみの悪事を止めるには、まずきみが私の話を聞いてくれなければならなかったわけだよ。そう考えれば、今のきみは私の望んだとおりにしているとも言えるね」

「そんな筈はない! 俺はあんたの言う事なんて何一つ守っていないだろ!」

 衝動的に反駁したが、ラマは困る様子もなく静かに答えた。

「ある面ではそうだね。きみは教えを受け入れることを頑なに拒んでいる。それには私も困っているけれど、それでも人を殺めて微塵も悔やまない山賊と比べれば随分前進したのだし、きみの解脱までの道程はこれまでの輪廻から考えればあと少しなのだとも考えられるねえ」

「無理な相談だ、俺は……今だって、あんたが、欲しい。俺はここで、ただ厚かましく僧衣を着ているだけだ。執着を消すのも、空性を悟るのも拒否して……そんな者が、赦される筈がない。もし赦されるなら、あんたの教えはなんなんだ」

 答えながらソナム・パサンは泣いていた。結局のところ、彼は目の前の存在に対して行った過去の全ての行為を「赦されたい」のだ。そうでなければ、拒絶される恐怖が拭えない。

「やれやれ、きみは落ち着くべきだよ。悟りを記憶を失うことかなにかのように捉えているね。もっとも私も完全なる涅槃には到底至らないけれど、その認識が誤りらしいことはわかる。束縛から解かれるだけだよ。仮に今この瞬間に涅槃したところで私はきみを忘れも拒みもしないし、ここに留まるだろうねえ。まず私が欲しいと言うけれどもね、きみは一体私の何が欲しいか自分で理解しているかなあ。例えばね、私の命を奪ったら私の死体しか残らないんだ。ではどうするか、望みの真の姿を追求するほかないよ」

「知ってますよ。それも空性の理解でしょう。何度も聞きました。先生らしいお話です。俺はそうじゃなく……」

 尚も口答えを続けるソナム・パサンの肩にギャルツェンの手が置かれた。彼は驚いて身を震わせた。触れられた部分は暖かく、考えていたことが不思議と口から素直に出せるように感じた。

「俺は……まずは、あんたと一緒にいたい。だが、ただの落ちこぼれに認められる願いじゃない。それにそれで俺の心が収まるとは到底思えない。俺は強欲だ。隣にいるだけじゃ満足できない。きっとそうだ」

「ああ、決めつけてはならないよ。寧ろきみなら五欲を制することができると信じるべきだ。私も信じるよ。一緒にいよう。きみがあの川のこちら側に来て、私と共に歩んでくれると嬉しいからねえ。それは大乗の教えでもある」

「あんた、よくそんなことが言えるな」

 ソナム・パサンは半ば呆れながら言った。だが、安心しているのは確かだった。ギャルツェン師の心には、「赦すかどうか」がそもそも無いのだ。相変わらず、彼が誰に向かっても同じことを言っているに違いないという寂しさはあるが……。

 ここで僧院長はソナム・パサンの手を引いた。そして窓へと向かい、外を見るように促した。僧院のある高台からは谷を流れる川が見下ろせる。川の対岸は人の住まない荒野だ。ギャルツェンは懐かしげに言った。

「あれはきみが山賊だった時かな、もっと前かもしれない。その時の私は吹雪の中で死にかけていて、きみに介抱してもらった気がするよ。きみが熾してくれた火は暖かかったなあ。あれに感謝しているから、私ができる形で恩を返しているんだよ。そもそも我々の記憶はそこまでしか残っていないけれど、輪廻はそれより遥かに長く、案外もっと前には私の方こそきみを師と仰いで……」

 再びソナム・パサンの目からは涙が溢れた。抵抗できない相手の肉体を貪り、衰弱していく様を見て愉悦するという彼の過去の最も忌まわしい行為さえ、師はそのように語るのだ。

「もういい、もう良いです、先生。俺は今……ギャルツェン様に、導かれたい、です」

 ソナム・パサンは師の足元に五体投地した。立ち上がると、ギャルツェン師の痩せた腕が彼を抱擁した。

「ねえきみ、きみは今、長い長い束縛から遂に解放されてあの川を渡っているんだよ。今生ではあと少ししか傍にいられないけれど、その先も一緒にいようね」

 返事の代わりにソナム・パサンは師を強く抱きしめ返し、そして声を上げて泣いた。

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