番外編1-4:逃げ場のない妹

第4話:逃げ場のない妹


夜明け前の街は、まだ眠っている。

始発電車のホームに立つ僕は、昨日までと違う位置で電車を待っていた。いつもと同じ車両、同じ席にはもう座らない。できるだけ目立たず、人の少ない隅へ――それが、今の僕にできる精一杯の抵抗だった。


あれがただの遊びじゃないって、やっと気づいたから。

あの二人が、ただの美人な乗客なんかじゃないことにも。


ドアが開き、冷えた空気が流れ込んできた。僕はすぐに乗り込み、誰にも気づかれないよう座席の端へ滑り込む。窓際に体を寄せ、鞄で顔を隠すようにして、目を伏せた。願うのはひとつだけ。――見つかりませんように。


でも、世界はそう簡単に逃がしてはくれない。


「おはよう、サトルくん」


その声が耳に届いた瞬間、心臓が跳ねた。

見なくてもわかる。あの柔らかな声は、ユウナさんだ。


「わざわざ座席変えて、どうしたの?」


顔を上げると、そこにはユウナさんと、すぐ隣にカズハさん。二人とも、まるで最初からそこにいると決まっていたみたいに、僕を見下ろしていた。


「――見つかるとは、思ってなかった」


小さな声で、僕は認める。悔しさより、恐怖の方が先にきた。

カズハさんはくすりと笑って言った。


「まったく、逃げ足の遅いオトコね。そんなに怖がらなくてもいいのに」

「怖がってなんか……!」


そう言いかけて、僕は自分の声が震えているのに気づいた。視線を逸らして、唇をかむ。情けない。でも、どうしても抗えない。


昨日の提案――「僕は誰にも助けを求めません、と一度だけワタシたちへ宣言しなくてはならない」――それを言わされたあの瞬間から、僕の世界は静かに崩れ始めていた。


何かがおかしい。

提案ゲームはただの遊びじゃない。

これは、僕の「現実」を少しずつ、確実に変えていく力を持っている。


「さあ、今日の提案に入りましょうか」


ユウナさんがふわりと腰を下ろし、僕の隣に座った。カズハさんは通路を挟んだ向かい側で、鋭い目を僕に向けている。


「これが、今日のカード」


ユウナさんの手から差し出された小さなカード。その表面に刻まれていた文字を、僕は恐る恐る読む。


『アタシはアナタたちの可愛い妹のサトミです、と一度だけ言わなくてはならない』


言葉の意味は理解できる。でも、何を言わされようとしているのか、すぐには実感が伴わなかった。


「なに、これ……」

「文字通りだよ」


ユウナさんは優しく笑った。


「ただ、“サトミ”って言ってくれたらいいだけ。ワタシたちの可愛い妹だって」

「……冗談、ですよね?」

「冗談だったら、そんなに怖い顔しないでしょ?」


カズハさんが静かに笑った。けれど、その目には一切の冗談がなかった。


『断ります。僕は、これは受け入れられません』


そう言おうとした。でも、口が動かなかった。

息を吸おうとして、喉がつかえたみたいに息苦しくなる。指先が冷えて、膝が震えて、声が、出ない。


――ああ、そうか。もう僕は、「拒否できない」と宣言してしまっていたんだ。


「拒否しません」って言った。

それが“真実”になった。

だから、僕には断る選択肢がない。


必死に唇を閉じて、首を横に振る。言葉を吐き出すまいと、全身で抵抗する。でも――


「言って、サトルくん。言葉にしないと、終わらないよ」


ユウナさんの囁きが、まるで熱を帯びた針みたいに心に刺さる。カズハさんは笑っていた。追いつめられたネズミを見るような目で。


「――僕は……」


声が震えた。


「――アタシは……アナタたちの……可愛い妹の……サトミ、です……」


言ってしまった。


その瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。

視界が白く染まり、何かがねじれて、意識がふっと消えていった。



気づけば、ボクは講義室にいた。


夕暮れの光が差し込む、大学の静かな講義室。階段状に並んだ固定式の椅子と机には、誰も座っていない。黒板には、講義で使われたらしいチョークの白い粉がまだ薄く残っている。


誰もいないはずなのに、消しゴムの音だけが響いていた。


――キュッ、キュッ。


誰かが黒板を擦っている。けれど、教壇に人の姿はなかった。音だけが、確かにそこに存在している。ボクは身体を動かそうとしたが、なぜか指一本すら動かない。


固定式の椅子に縫いとめられたように、そこから動けなかった。


そして、黒板の中央に書かれていた名前が、ゆっくりと消されていくのが見えた。


「佐藤悟」


キュッ……キュッ……。


少しずつ、けれど確実に。その名前は粉になって舞い、空気に溶けていった。

次に消されたのは、「性別」だった。


「男」


何度も上から擦られ、最後には黒板の表面ごと削られたように、その言葉の痕跡すら残らなくなった。


同時に、ボクの身体にも奇妙な違和感が走った。胸がほんのり熱く、足先が冷たくなって、骨格のバランスがゆっくりと変わっていく感覚。固定式の座席に座ったまま、服の布が、妙に余っていたはずの場所でぴたりと肌に沿う。


(あれ……ボク、もともと……)


記憶が霞む。疑問が浮かんでも、それをつかむ手が存在しなかった。

そして、黒板の左端に、新たな文字が書かれ始める。


「可愛い妹」


右端にはさらに、


「名前:佐藤サトミ」


その瞬間、脳内でカチリと何かが切り替わる音がした。


誰かの手が、アタシの頭の中を開いて、記憶のノートをめくっていく。古い文字が線で消され、新しい文字が丁寧に書き込まれていく。


サトル。男子大学生。ゼミ。就活。将来の夢――


全部、薄墨で塗り潰されていく。


代わりに、


サトミ。妹。甘えん坊。お姉ちゃん大好き。可愛いものが好き――


まるでチョークで丁寧に書かれるように、それがアタシの“履歴”になっていく。


「書き込み完了」


誰のものとも知れない声が、耳元でそう呟いた。



目を開けたとき、アタシはぼんやりとした頭であたりを見回した。

電車の中。いつもの座席。正面には、ユウナさんとカズハさんが座っていた。


だけど――何かが、変だ。


彼女たちを見た瞬間、胸がざわついた。心臓が高鳴り、熱が下腹に集まってくる。息が浅くなる。どうしてこんな感覚になるのか、分からない。でも……彼女たちに、甘えたい。触れたい。もっと、近くに行きたい。


アタシは無意識に身体を起こし、ユウナさんの方に身を乗り出した。


「――お姉ちゃん……」


自分の口から出た言葉に、アタシは一瞬凍りついた。


違う。アタシはサトルだ。妹なんかじゃない。でも、身体が勝手に動く。頭がぼんやりして、羞恥と快楽の入り混じった奇妙な気分が、アタシを包み込んでいた。


「アタシ……可愛い、かな……?」


甘えるような声。妖しく潤んだ目。鏡があったら自分の顔が見たかった。きっと、別人のような顔をしている。


だけど、ユウナさんもカズハさんも何も言わなかった。ただ静かに立ち上がって、僕に背を向けた。


「また明日ね、サトミちゃん」


そう言って、二人は電車を降りていった。


残されたアタシ――サトミは、その背中をただ見送ることしかできなかった。


(つづく)

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