第10話:提案の果て
朝の通勤ラッシュに揉まれる中央線快速電車の10号車。
向かい合ったボックス席で、ワタシはカズキと寄り添っていた。
「ねぇ、カズキ……じゃなかった、カズくん♡」
そう耳元で囁くと、彼……カズくんは、少し照れくさそうに笑った。ワタシは彼のカーディガンの裾に手を滑り込ませ、ゆっくりと指を這わせていく。
それを追い掛けるように、カズくんの手がワタシのスカートの内側へと伸びて、ストッキング越しの膝上を撫でていた。ぞくりとする感覚が、ワタシの脳を蕩かしていく。
「……ふふ、朝から激しいね……♡」
頬が火照る。なのに止められない。
ワタシはカズくんのカーディガンの裾をめくり、薄手のシャツ越しに腹筋のあたりをなぞるように撫でた。
「やめろって……誰か見てたらどうするんだよ」
カズキの声には、どこか甘さが混じっていた。
カズくんこそ、ワタシがずっと望んでいた“理想のカレシ”。声も、しぐさも、香りも、全部がワタシのためにあるような存在。
でも――なぜ彼がこんなふうにワタシの隣にいるのか。どうしてこんなに甘くて幸せなのか。ワタシ自身も、よく思い出せない。
「ふふ、嬉しい。カズくんが、ワタシだけを見てくれるの……♡」
ワタシはそっとカズくんの胸に頬を寄せた。彼の心音だけが、かすかに鼓動を刻んでいた。
そのときだった。
「やっと見つけたわ」
静かな、けれど凛とした声が、車内に差し込んできた。
顔を上げると、連結部のドアの向こうから、ワインレッドのワンピースに黒いカーディガンをまとった女が現れた。ロングヘアを揺らして、堂々と、艶やかに歩いてくる。
「ナナカ……?」
思わずワタシは呟いた。
「な、なに……? 誰……だよ、あんた……」
カズくんが身を引く。その瞬間、カズくんの奥底で、普段は鍵がかかっている心の扉が、ぎくりと軋んだのが分かった。
「アナタ、もう“勝者”になったんでしょう? アナタにとっての“理想のカノジョ”を得た……そのはずよね?」
「理想の……? は? 意味がわかんねぇよ」
ナナカはふわりと笑った。
「わからないのも当然よ。あなたは、“提案”の参加者じゃなかったもの。……正確に言えば、“提案の媒介者”だった。あなたを通して、ユ●●イに暗示を浸透させてきたの。あなたが彼を揺らし、見せ、触れさせ、嫉妬させることで、彼の心をゆっくりと……壊していった」
カズくんの表情が、みるみるうちに青ざめていく。
「でもね。あなた自身も……知らず知らずのうちに、“提案の影響”を受けていたの。“ユ●●イの理想の女性でなければならない”という暗示……。それが毎日、少しずつ積み重なってきたのよ」
「ふざけるな……そんなこと……俺は、男だぞ……!」
「それはどうかしら」
ナナカは肩をすくめると、ワタシに目を向けた。
「もうじき、気づくはずよ。あなた自身が、どんな姿で、どんな欲望に身を任せるようになったのか」
そう言い残して、彼女は車両の奥へと歩き去っていった。誰も彼女を止めない。いや、誰も彼女の存在に気づいていないようだった。
カズくんは、震えながら立ち上がった。
「嘘だ……こんな、はずじゃ……」
がくり、と膝をついたカズくん。
その横顔に、長いまつ毛と艶やかな頬が映った気がした。
「カズハ、ちゃん……?」
ワタシは思わず囁いた。
その名前が、妙にしっくりと感じられて、彼女の表情が揺らいだ。
けれど同時に――
ワタシの手が彼女の頬に触れ、唇が重なったとき。
その恐怖は、ゆっくりと蕩けていった。
「ね、カズハちゃん……今日の作戦なんだけど」
「うん……」
言葉の響きが、甘く、優しく、心地よい。
「MtMに潜り込んで、まずは機密ファイルへのアクセス。カズハちゃんは何か情報、持ってる?」
「あるよ……正面から行くのは危険だけど、地下通路経由なら警備をすり抜けられる」
「さすが、頼りになる……ワタシの、かわいいカノジョ」
ワタシは彼女の頬にそっとキスをした。唇がぬるりと濡れ、互いに吸い寄せられるように、再び重なっていく。
音もなく、熱だけが混じり合っていった。
「カズハちゃん……愛してる」
「ワタシも、ユウナ……」
車内には、誰もいなかった。
ふたりだけの密室で、甘く蕩けるようなキスが、続いていた。
やがてアナウンスが流れる。
「――まもなく、MtM北口前駅。……各機関職員の皆さまは、地下口をご利用ください」
ワタシたちはそっと手を取り合い、次の任務へと微笑みを交わした。
――誰にも、気づかれずに。
(おわり)
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