第9話:終着駅の口づけ
翌朝、駅のホームはすでに人であふれていた。昨日の出来事が夢だったかのように、周囲の世界はいつも通りに動いている。
けれど――何かが、違っていた。
「――変だ」
濃緑のキュロットの裾を直しながら、"俺"は小さくつぶやいた。かつての“俺”――ユウダイだった記憶は、靄がかかったようにおぼろげで、でも完全には消えていない。朝の鏡に映った“可愛い自分”を見て、どこかで「こんなはずじゃなかった」と思う。でもその理由がわからない。
電車が滑り込んでくる。まるで誘われるように、足が自然と動いた。
車内は、またしても妙に空いていた。
座席に腰を下ろした瞬間だった。
つつ……っと、甘い香りが鼻をかすめる。
「やっと、来てくれたわね」
ふいに、前のボックス席に座っていた人影が立ち上がる。見覚えのない女性――けれど、その瞬間、脳の奥底がひくりと震えた。
ワインレッドのワンピース。黒いカーディガン。艶やかなロングヘアを肩に流し、その女はゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「あなた、随分と……可愛くなったものね」
その声。昨日の“車掌”の女――。でも今の彼女は、制服を脱ぎ、まるでデートにでも向かうかのような私服姿だった。
「……ナナカ……?」
名前が、唇からこぼれ落ちた瞬間、心臓が跳ねた。忘れようとしても、忘れられるはずがない。提案ゲームの仕掛け人――いや、最初から“支配者”だった彼女の名。
ナナカは、変わらぬ笑みのまま、席の横へ立つ。
「さあ、アナタと私の勝負も、今日で7日目。……最終日よ。覚えているかしら?」
もちろん、覚えている。ナナカの“提案”に対して“俺”は同意を重ねてきた。
どれも、軽いようでいて、確かに心に刻まれていた――拒めなかった、あの提案も含めて。
「今日の提案は、これよ」
ナナカはふわりと笑う。
「“あなたはオンナノコであることを宣言し、私に口づけをしなければならない”。それが……最後の提案よ」
「……!」
車内が、急に狭く感じられた。逃げ場がない。
「そんな……そんなの、おかしい……“俺”は……」
“俺”という言葉が喉の奥に詰まる。
言いかけたのに、すぐに“ワタシ”が浮かび、それに上書きされそうになる。
「ほら、アナタにはもう、“オンナノコとしての一日”を過ごしてきた実感があるでしょう?」
ナナカは座席に腰を下ろし、にこやかに話を続ける。
「でも……選ぶのはアナタ自身よ。提案は強制じゃないもの。アナタが同意しなければ、成立しない。ただ、それだけのこと」
「オレは……」
心が揺れる。
でも、揺れている理由は、“彼女の言葉”だけではなかった。
「ねえ、ユウナ」
ナナカが、まっすぐ目を見つめてくる。
「もしアナタがこの提案を拒んだら……“カズキ”はどうなるのかしらね?」
「――っ!」
「6日前、彼も“提案”の渦に巻き込まれたわ。気づいていないだけで、彼ももうゲームの参加者。もしあなたが拒んだら、彼は“提案”を成立できなかった者として、代償を払うことになる。……それでも、あなたは黙って見ていられるかしら?」
「――やめろ……そんなの、脅迫じゃないか……」
「違うわ。ただの、提案よ」
ナナカの言葉は静かだった。まるで、裁判官が淡々と罪状を述べるように。
「それに……」
彼女はそっと指先でユウナの顎を持ち上げた。
「アナタが私の提案を受け入れても、きっと……跳ね除ける力をアナタは持っているかもしれない。だって今まで、よく頑張ったものね」
その言葉に、思わず目を見開いた。
心が、揺れた。
胸の奥で、何かが弾けそうになった。
でも――
「――わたしは……」
口が、自然に動いた。
「――オンナノコ、です……」
その瞬間。
世界が、変わった。
心の中で、ごうっと何かが吹き抜ける。
理性も、正義も、抗いも――すべて遠くなっていく。代わりに、甘く柔らかい何かが、心の隅々をじゅわじゅわと満たしていった。
「――ワタシは……あなたの、シモベ……」
ナナカが微笑んだ。
「ええ、そう。とっても、いい子ね」
ワタシは、ナナカの前に立ったまま、そっとその手を取った。指先を絡めるようにして、目を伏せる。
唇が近づく。
ナナカの香りが鼻をくすぐる。
もう、拒む力なんて残っていなかった。
心の奥で、最後の扉が音を立てて崩れるのを感じた。
ワタシは震える声で尋ねた。
「――しても、いい?」
ナナカは頷き、静かに答える。
「ええ」
その言葉を受けて、ワタシは、彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
熱い。甘い。蕩けるような味。
そのキスはまるで、命令の確認のようだった。
窓に映る自分の顔は、もう誰のものでもない。
ナナカのものだった。
(これが、終わり……)
でも、不思議と恐怖はなかった。
むしろ――満たされていた。
◆
連結部の向こうから響く、電車のブレーキ音。
駅が近づいていた。
ナナカは名残惜しげにキスを解くと、静かに立ち上がる。
「……提案、成立。ね?」
ワタシは、深くうなずいた。
その瞳に、もはや迷いはなかった。
車内アナウンスが流れる。
「――まもなく、終着駅です」
けれどその声には、まるで夢の終わりを告げるような、狂気めいた優しさが滲んでいた。
(つづく)
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