第2話:立ち上がってはいけない

午前五時一八分。

始発電車が、まだ眠気を引きずった駅のホームに滑り込む。

俺は昨日と同じように淡々と電車へ乗り込んだ。


中央線、郊外へ向かう上り車両。

任務明けで体は重い。

無人の車内、その静けさがやけに心地よかった。何も考えず、俺は座席に腰を下ろす。


(……昨日の、あれ。夢じゃなかったのか?)


考えるのが嫌になって、スマホを開く。パズルゲームの続き。新イベントのログインボーナスが表示される。


(SSR確定まで、あと二日か……)


画面に集中しようとした、そのとき。


「おはよう。今日も来てくれてうれしいわ」


……声が聞こえた。あの、女の声だ。

顔を上げると、斜め前の席に――いた。昨日と同じ。黒髪に透き通る肌、異様に深い紫の瞳。


(マジかよ……またか)


「忘れたの? 私のこと」


ナナカは小首をかしげて、どこか寂しげに笑う。こっちはそんな気分じゃない。


「――誰だっけ、お前。昨日の……夢じゃなかったのか?」

「ふふ。ちゃんと覚えておいてね、私は“闇野ナナカ”。あなたと“提案ゲーム”をする者よ」


(やっぱ現実だったのか……)


昨日の出来事が、頭の奥からゆっくりと引っ張り出される。確かに昨日は「何も無し」って言ってたはずだ。けど、あの感覚……明らかに普通じゃなかった。


「今日は提案をするわ。準備はいいかしら?」


ナナカが立ち上がって、俺の正面の席に移動してきた。無言のまま座ると、足を組み、微笑む。


「今日のゲームはこう。“次の駅に着くまで、あなたは立ち上がってはいけない”。それだけ。シンプルでしょ?」


「……は? そんなの、ただ座ってりゃいいだけだろ。余裕すぎる」

「じゃあ、同意する?」


ナナカの笑み。昨日と同じ、どこか裏があるような顔。でも……まあ、ただ座るだけなら問題ない。


「――わかった、やってやるよ。その程度の条件ならな」


その瞬間、ナナカの目が細くなり、紫の光が一瞬だけ揺れた。

そして、電車が静かに発車する。


ガタン、ゴトン――変わらぬ揺れ。だが、違和感が身体を這い上がってくる。


(……重い?)


下半身が、急に動かなくなった。

立とうと足に力を入れてみるが、まるで感覚がない。筋肉が指示を無視しているような、そんな妙な感覚。


(おいおい、ふざけんなよ……!)


パニックになりかけた俺をよそに、ナナカはただ静かに視線を落としていた。


「提案は、対等なルールの上に成り立つ。あなたが同意した瞬間、ゲームは始まるの」

「これ……お前、何をしたんだよ……!」

「何も。私は“言った”だけ。“立ち上がってはいけない”と。あなたの身体が、それに応えただけよ」


ゾッとした。

これはゲームじゃない。どこか、決定的に現実を壊す“何か”が混ざっている。


やがて、車内アナウンスが次の駅の到着を告げる。


「ふふ、終わりね。あなたの勝ち。おめでとう」


ナナカはすっと立ち上がって、またあの微笑みを浮かべた。


「ご褒美は、また後日。明日も、ここで待ってるわね」


そう言って、彼女は迷いなくドアの向こうへ消えていった。



電車が停まっても、すぐには動けなかった。下半身が少しずつ軽くなっていくのを、ただじっと待つしかなかった。


(……くそ。なんだよ、今のは)


ようやく立ち上がり、ホームを歩き出す。だが足取りはふらついていた。


「よう、ユウダイ! お前、今日も始発か?」


背後から声が飛んできた。振り返ると、カズキがいた。

同じ法学部で、MtMの同期。いつも通りの顔だ。


「なんか顔色悪いけど、徹夜か?」

「……あ、ああ、ちょっとな……」


言葉が詰まる。喉が、重い。

話したいのに、うまく動かない。何かが、俺の“中”に手を伸ばしてるみたいな、妙な感覚。


(なんで……声が、出しにくい……?)


「おいおい、大丈夫か? なんか変じゃね?まさか惚れた女にフラれたとか?」

「だい、じょぶ……」


絞り出すように返した声。俺はそれきり口を閉ざし、フラフラと歩き出した。

頭の奥が軋むように痛い。


そして――ナナカの声が、耳の奥で再生される。


『あと5回、楽しみにしてる』


(つづく)

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