第8話:密室の昼と、爪痕

――朝の昇降口。


「おはよ、タカネちゃん!」


女子グループの一人が、タカトに笑顔で駆け寄る。だが、タカトは軽く笑みを返しただけで、視線を合わせなかった。


アイラインを引き、リップを乗せたその顔に、もう“迷い”はない。男子制服のまま、以前よりも一層深めた自信と共に歩くその姿を、誰も咎めない。


いや、咎めるどころか――


「やっぱ今日も美人すぎない?男子なのに……いや女子でしょ、もう」

「タカネ様って感じ」


廊下ですれ違う生徒たちは、囁くように称える。 彼女の――いや、彼の――存在だけが、妙に浮かびながらも“認められて”いた。

ただし、それは彼だけに許された奇妙な特権だった。



一方で、セイの机にはまた、細かく刻まれた髪の毛が撒かれていた。


「――やめろって言ってんだろ」


誰にも聞こえない声で呟いたが、周囲は見て見ぬふりを続ける。


「セイ、大丈夫か……?」


心配そうに声をかける男子が一人いたが、彼の腕を誰かがさりげなく引いた。 その瞬間、空気がまた一段冷え込む。

セイへの“攻撃”は日ごとに巧妙かつ悪質になっていた。しかもそれは、決して“誰かの名指し”で行われることはない。 すべてが匿名で、陰湿で、見えないところから来る。


(でも――分かってる。タカトだ)


セイは心の中で、その名を呼ぶ。 もはや“確信”に近かった。

タカネと名乗るようになってからのタカトは、あからさまにセイを避けるようになった。視線は交わらず、言葉もなく、ある日突然、“敵”に切り替わったかのように。


(本当に……戻れないのか)


でも、分かっている。彼は完全に壊れてなどいない。



――昼休み。校舎裏。


セイは人気のないスペースに一人立っていた。制服の胸元には新しい切れ目がある。シャツの下、胸には赤いミミズ腫れが一本走っている。


「――タカト、“もう戻ってこない”のか……?」


セイの声は、風にまぎれて消えた。

だがその時、ポケットの端末が鳴った。


【回収作戦、三日後に決定】


――MtMからの通知だった。


(はやすぎる……まだ“きっかけ”が来てない)


画面を閉じた瞬間、ふいに誰かの視線を感じた。

ゆっくりと振り返ると、校舎の陰からタカネがこちらを見ていた。


「――見つけちゃった」


その声には、かつての優しさの欠片もなかった。



――放課後。

教室にはもう誰もいなかった。セイが一人、荷物をまとめていると、背後から静かな足音が近づく。


「ねぇ、セイ」


その声に振り返ると、タカネがそこにいた。

男子制服の胸元には、ネクタイではなく赤いリボンが差してある。 口紅はほんのりと艶を帯び、視線は鋭く冷たい。


「――何の用だよ」

「“あのとき”のこと、まだ覚えてる?」

「“あのとき”? どの“とき”だよ」

「ほら、二人で廃工場の裏に潜んで、爆破装置を止めた日。アタシ、すごく怖かったのに……セイ、ずっと手を離さなかったでしょ?」


一瞬、セイの表情が揺れた。


「――ああ、覚えてるよ」

「でも、今のアタシは、“そういうの”もういらないの。アタシには、今のアタシを支えてくれる人たちがいるから」

「その“人たち”って、ナナカのことか?」


言った瞬間、空気が張り詰めた。


「――なんの話?」

「母親も、操られてるんだろ? ナナカに。家に帰ると、何も言えなくなる。毎晩、暗示をかけられてる。……違うか?」


タカネの顔から、表情がふっと消えた。


「――よく知ってるんだね、セイ」

「タカトが何も言わないから、全部、こっちで推測するしかなかったんだよ」


沈黙。

その後、タカネはくすりと笑った。


「じゃあ、もっと“悪い子”にならなきゃいけないね。もっと分かりやすく、私が“救えない存在”だって証明してあげる」


そう言い残して、踵を返した。

その背中に、セイは声をかけた。


「俺はまだ、君を――」


けれど、続きは喉の奥でかき消された。



――夜。MtM本部の通信室。


セイは上司の報告に対し、震える声でこう言った。


「――やっぱり、あいつの中にまだ、タカトはいます。自分の異変に気付いてる。でも、それを言わせない暗示が、喉を塞いでる」

『セイ、君は――“どこまで”耐えるつもりだ?』


セイは言葉に詰まった後、ただ静かに答えた。


「――あいつが“本当に”人を傷つけたと、自分の意志でそう選んだと分かるその瞬間まで。……俺は、待ちます」


(つづく)

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