第8話:密室の昼と、爪痕
――朝の昇降口。
「おはよ、タカネちゃん!」
女子グループの一人が、タカトに笑顔で駆け寄る。だが、タカトは軽く笑みを返しただけで、視線を合わせなかった。
アイラインを引き、リップを乗せたその顔に、もう“迷い”はない。男子制服のまま、以前よりも一層深めた自信と共に歩くその姿を、誰も咎めない。
いや、咎めるどころか――
「やっぱ今日も美人すぎない?男子なのに……いや女子でしょ、もう」
「タカネ様って感じ」
廊下ですれ違う生徒たちは、囁くように称える。 彼女の――いや、彼の――存在だけが、妙に浮かびながらも“認められて”いた。
ただし、それは彼だけに許された奇妙な特権だった。
◆
一方で、セイの机にはまた、細かく刻まれた髪の毛が撒かれていた。
「――やめろって言ってんだろ」
誰にも聞こえない声で呟いたが、周囲は見て見ぬふりを続ける。
「セイ、大丈夫か……?」
心配そうに声をかける男子が一人いたが、彼の腕を誰かがさりげなく引いた。 その瞬間、空気がまた一段冷え込む。
セイへの“攻撃”は日ごとに巧妙かつ悪質になっていた。しかもそれは、決して“誰かの名指し”で行われることはない。 すべてが匿名で、陰湿で、見えないところから来る。
(でも――分かってる。タカトだ)
セイは心の中で、その名を呼ぶ。 もはや“確信”に近かった。
タカネと名乗るようになってからのタカトは、あからさまにセイを避けるようになった。視線は交わらず、言葉もなく、ある日突然、“敵”に切り替わったかのように。
(本当に……戻れないのか)
でも、分かっている。彼は完全に壊れてなどいない。
◆
――昼休み。校舎裏。
セイは人気のないスペースに一人立っていた。制服の胸元には新しい切れ目がある。シャツの下、胸には赤いミミズ腫れが一本走っている。
「――タカト、“もう戻ってこない”のか……?」
セイの声は、風にまぎれて消えた。
だがその時、ポケットの端末が鳴った。
【回収作戦、三日後に決定】
――MtMからの通知だった。
(はやすぎる……まだ“きっかけ”が来てない)
画面を閉じた瞬間、ふいに誰かの視線を感じた。
ゆっくりと振り返ると、校舎の陰からタカネがこちらを見ていた。
「――見つけちゃった」
その声には、かつての優しさの欠片もなかった。
◆
――放課後。
教室にはもう誰もいなかった。セイが一人、荷物をまとめていると、背後から静かな足音が近づく。
「ねぇ、セイ」
その声に振り返ると、タカネがそこにいた。
男子制服の胸元には、ネクタイではなく赤いリボンが差してある。 口紅はほんのりと艶を帯び、視線は鋭く冷たい。
「――何の用だよ」
「“あのとき”のこと、まだ覚えてる?」
「“あのとき”? どの“とき”だよ」
「ほら、二人で廃工場の裏に潜んで、爆破装置を止めた日。アタシ、すごく怖かったのに……セイ、ずっと手を離さなかったでしょ?」
一瞬、セイの表情が揺れた。
「――ああ、覚えてるよ」
「でも、今のアタシは、“そういうの”もういらないの。アタシには、今のアタシを支えてくれる人たちがいるから」
「その“人たち”って、ナナカのことか?」
言った瞬間、空気が張り詰めた。
「――なんの話?」
「母親も、操られてるんだろ? ナナカに。家に帰ると、何も言えなくなる。毎晩、暗示をかけられてる。……違うか?」
タカネの顔から、表情がふっと消えた。
「――よく知ってるんだね、セイ」
「タカトが何も言わないから、全部、こっちで推測するしかなかったんだよ」
沈黙。
その後、タカネはくすりと笑った。
「じゃあ、もっと“悪い子”にならなきゃいけないね。もっと分かりやすく、私が“救えない存在”だって証明してあげる」
そう言い残して、踵を返した。
その背中に、セイは声をかけた。
「俺はまだ、君を――」
けれど、続きは喉の奥でかき消された。
◆
――夜。MtM本部の通信室。
セイは上司の報告に対し、震える声でこう言った。
「――やっぱり、あいつの中にまだ、タカトはいます。自分の異変に気付いてる。でも、それを言わせない暗示が、喉を塞いでる」
『セイ、君は――“どこまで”耐えるつもりだ?』
セイは言葉に詰まった後、ただ静かに答えた。
「――あいつが“本当に”人を傷つけたと、自分の意志でそう選んだと分かるその瞬間まで。……俺は、待ちます」
(つづく)
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