第7話:空白のノート
――朝の教室。
タカトは自分のノートを開いた瞬間、全身に寒気が走った。
ページはすべて、真っ白だった。
(――嘘だろ。昨日、確かに……)
数式も、メモも、授業中に取ったはずの記録も、なにもかも消えている。指でなぞっても、ペン跡すらない。まるで最初から、何も書かれていなかったように。
「なんで……」
隣の席では、セイが静かにこちらを見ていたが、目が合うとすぐに視線を逸らした。
その目の下には、赤黒い痣のようなものがうっすら残っていた。
(それ、……どうしたんだよ、セイ)
訊ねようとして、喉が詰まる。
まるで「訊ねる」という行為そのものが、自分に禁止されているようだった。
◆
1時間目。
教科書の文字が視界の端でゆがみ、先生の声が遠く感じられる。
それでも、ノートに何かを書こうとした。だが、手が動かない。
(セイに……謝らないと)
――そう思った瞬間、心の奥で“何か”が動いた。
『それは必要ない。あの子は自分で勝手に傷ついてるだけ』
(――タカネ?)
声は、脳内に直接響いてくるようだった。
それなのに、どこか“自分の思考”のようにも思える。境界が曖昧になる。
『アナタが謝る理由なんて、ない。むしろ、もっと見せてあげましょう。“優しさ”がどれだけ無力かを』
黒板の方へ顔を向けたまま、口元だけが勝手に笑った。
◆
――昼休み。
セイは人気のない図書室の奥、通信端末の前にいた。
手にしたカード型端末には、【MtM内部通信】と表示されている。
『セイ。状況報告を』
「――対象は依然、暗示の影響下にあると思います。でも、自覚が……あります。本人が“おかしい”と感じ始めてる」
『では、解除可能か?』
「――まだ。暗示が深すぎる。解除の“キーワード”を言おうとしても、口が止まってしまうはずです」
一拍の沈黙。
『ならば、“次の段階”に入る。監視レベルを引き上げる。こちらも動く』
「――まだ、回収は早すぎます。彼の中に、本人の意志が残っている」
『ナナカの影響は既に深刻だ。被害が出れば、強制措置に移行する』
「強制は逆効果です。前例があるはずでしょう? 暗示に“狂暴化トリガー”が埋め込まれていた件」
『――わかった。慎重にやれ。ただし、次に被害が出たら、即時回収だ』
セイは少しだけ目を伏せ、唇を噛んだ。
「――わかりました」
通話を切ると、ポケットの中で何かが震えた。
先ほど届いた、また一通のメッセージ。
【死ね、オカマ】
短く、残酷な言葉。そして、匿名の送り主。
(――またか)
机の上には、誰かがこっそり置いていったであろう紙切れもあった。
それにはこう書かれていた。
【次は顔に残るようにしてやる】
セイの手が震えた。だが、それでも彼は顔を上げ、教室へと戻っていった。
◆
――放課後。
教室の窓際には、小さな血の跡が残っていた。
セイの机の中には、裁断されたプリントの切れ端、削がれた鉛筆、そして、細く裂かれた制服の袖。
タカトはその様子を見ても、驚きもしなかった。
むしろ、どこかで「知っていた」ような感覚すらある。
(――誰がやったんだ)
そう思ったとき――
頭の奥から、異様な快感がこみ上げてくる。
『ねぇ、ゾクゾクするでしょ。あの子がどんどん壊れていくのが』
(ちがう……そんなの、俺は……)
『でも、“嬉しかった”でしょ? あの子が怯えたとき。震えてたとき。泣きそうな顔をしたとき……アナタの中にある“本当の気持ち”が、喜んでた』
タカトは自分の喉を押さえた。
(ちがう、ちがう……言わなきゃ……『俺も、自分が怖い』って……言わなきゃ……)
けれど、その言葉だけは、どうしても喉から出てこなかった。
それを超えようとするたびに、全身に電流のような痛みが走り、舌が動かなくなる。
(――口が、動かない。誰かが、俺の中で、止めてる……)
タカトは机に突っ伏し、震えながら目を閉じた。
彼の内側で、タカネは笑っていた。
「だから言ったでしょ? “アナタ自身”が、私なのよ」
◆
――夜。タカトの自宅。
玄関を開けると、母親の穏やかな声が出迎える。
「おかえりなさい、タカネちゃん」
その隣に立っていたのは――ナナカだった。
黒のワンピースに身を包んだ彼女は、優しい微笑を浮かべながら言った。
「ねぇ、今日も“あの子”に会ったの? セイくんは元気そうだった?」
タカト――いや、タカネは、無言でうなずく。
そしてソファに座った途端、ナナカの指先がすっと額に触れる。
「じゃあ、今日もちゃんと、暗示を整えておかなきゃね。“自分”を、守るために」
(――セイ)
その名を呼びかけたはずの心の声は、どこか遠くで、闇に飲まれていった。
(つづく)
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