避難小屋
北見崇史
避難小屋
「まいったね」
男二人と女三人の登山パーティーのリーダーである樋口が、ストーブに湿った薪をくべながら言った。
彼らは一泊二日で三境連峰を縦走し、白川温泉へと向かうコースだったが、黒原の尾根で、もの凄い暴風雪に遭って進めなくなり遭難しかけたが、縦走コースの途中にある避難小屋までなんとかたどり着いたのだった。
「まさか、黒原の尾根があんなになるなんて」
「風で立っていられなかったな」
「ほんと、あんなのは初めてだわ」
「目を開けられなくて怖かった」
悪天候の異様さを、メンバーはさも大げさに話していた。つい数時間前までは、生きるか死ぬかの瀬戸際にいたという思いが強かった。
「今日はここに泊まろう。明日、天気をみて縦走するかどうか決めるよ」
樋口は、リーダーとしての判断を皆に伝えた。
「そうね。無理に白川温泉まで歩いて、途中で遭難したら目も当てられないわ。ケイタイも圏外だし、救助も呼べないから」
「俺、ケイタイ落としちゃったよ」
「ここじゃあ使えないから気にしないで」
避難小屋は、電気もベッドもトイレもない無人の建物だ。物置を少し大きくした程度の広さでしかなく、管理人が常駐して宿泊客を受け入れている山荘とは根本が違う。雨風をしのげるというだけでしかない。
いちおう、ストーブと薪が用意されている。だから暖はとることができるので凍えることはなさそうだ。内側の壁際にそって長板が設置されていて、それが椅子にもベッドにもなる。
「まあ、冬山だから、こういうこともあるさ。冷えたし腹もへったし、飯でも食おうや」
「そうですね。山の中での焼肉を楽しみにしていたんです。ストーブの上で焼けるから楽チンですね」
真由美がビニール袋に入っている肉の塊を出した。彼女はメンバーの中でもっとも若く、非常に食いしん坊だ。
「おっきな肉ねえ」
「新鮮だから、汁がでてくるよ」
びしょびしょに濡れたそれを鍋の中に入れると、薪ストーブの上に置いた。肉は相当な脂身を含んでいた。すぐに黄色いアブラが溶け出して、鍋の底に溜まり始めた。熱を加えるごとに、アブラの位置が鍋の上にくる。しばらくすると、肉の塊をアブラで茹でているような調理となった。
「さあ、これも焼くよ」
「まってました」
鍋だけではなくて、さらに焼肉を追加する。
調理は三人の女たちが請け負った。出刃包丁で持参した肉を頃合いの大きさに切り分けた。そして、薪ストーブの上にフライパンを置いて肉を焼いていた。裏面が真っ黒に焦げたその調理器具は、長年彼らの糧を焼いてきた。このパーティーの登山には欠かせないものだ。
「この肉、いつもより脂身が多くてうまいなあ」
「そうでしょう。よく肥えていたもの」
冬山登山は極寒に晒されるために体力を消耗する。脂身の多い肉はカロリーが高く、生命の維持には欠かせない。
肉が焼けるニオイと焦げる煙が充満していた。五人の食欲は天井知らずで、リュックサック一つ分はあった肉塊を、あっという間に食べ尽くしてしまった。
「なんだか物足りないですね」
「もう少しだったらありますけど」
「まあ、今日はこれくらいでいいんじゃないですか。非常食として取っておきましょうよ。明日の分はまた調達すればいいし」
「そうですね。男性陣にはお世話になります」
「まかせておいてください。そのかわり、調理は女性の皆さまにお願いしますから」
「包丁を持たせたら、私たちはすごいんですよ」
中年の看護師である近藤がさも厳めしく包丁を構えると、どっと笑いがおこった。凍てつく深山の中なのに、まるで居酒屋で和みながら歓談している雰囲気があった。
「あらあ、外に誰か来たみたいですよ」
真由美がドアのほうを見た。談笑していた全員が静かになり、その古びた木製のドアに注目する。
「こんな山の中で誰ですかね」
「まさか、雪男とか」
「ふふ、それは怪談ですよ」
「しっ」
ピンと立てた人差し指を顔の中央に当てて、リーダーが全員の口を閉ざさせた。一分ほど沈黙を通していると、拾われた猫のようにそーっと入ってくる者がいた。
「え、誰。子供?」
子供だった。しかも二人である。藁で作られたような尖った防寒帽子をかぶり 長靴も藁でできていた。着ている服は木綿のつぎはぎだらけで、いかにも粗末で不潔感が漂っている。背の低いほうは女の子で、少し年長のほうは男の子だった。
「おいおい、子供じゃないか。冬山の、どこにも民家がない場所にどうしたんだ」
「しかも、もう夜よ。普通じゃないわ」
「ねえ、君たち。お母さんやお父さんはどうしたの。どこに住んでいるの。どうやってここまで上ってきたの」
「兄妹なの」
大人たちが口々に言う。責め立てるような圧力のせいか、子供たちは身構えていた。
「ごちゃごちゃ言ってもしかたがない。凍えているはずだから、とにかく火にあたらせようや」
リーダーがこっちに来いと手招きするが、子供たちは凍ったように固く立っていた。そこから動こうという意志が感じられない。
「どうして入ろうとしないのかしら」
「ねえ、お腹すいてるんじゃないのかしら」
「そうね、きっとそうよ。残りのお肉があるから、焼いてあげなさいよ」
気を利かせた看護師が、残っていた肉を塊のまま焼いた。黄色い脂身から肉の香ばしさが立ち昇っている。当然、戸口に立っている子供たちにも、その匂いは届いていた。
女の子が一歩を踏み出そうとしたが、手を握っているもう一人が許さなかった。
「どうしたの。お腹すいてるんでしょう。外は寒いから、はやく入ってきなさいな。ストーブの前は暖かいよ」
看護師が手招きするが、やはり子供たちは動かない。
「やっぱり兄妹かしら」
「女の子だけでも、中に入れようか」
樋口が入り口に向かって歩き出すと、男の子がキッと睨んだ。そして小さい女の子を引っぱって、真っ暗闇へと消えてしまった。
「行っちゃった」
「なんだったんだろう」
看護師がドアのところへ行って、首だけ外に出して暗闇をじっくりと探る。誰もいないことを確認すると、「もういないよ」と呟いて、そうっと閉めた。
ストーブの周りに全員が集まった。薪が勢いよく燃えているわりには、それほど暖かくはない。
「幽霊じゃないの。地縛霊とか」
「まさか」
「だって、こんな山の中に子供がいるわけないじゃないの。しかも冬山よ。ふもとの町から、この小屋にやって来るまでに凍え死んじゃうわよ」
「それに、着ている服も変だったな。粗末っていうか、古いっていうか。たぶん和服だったと思う。ほら、時代劇とか大河ドラマで子供がきているようなやつ」
「そうそう。藁の帽子に藁のクツって、江戸時代とか明治時代とか、そんな感じだったわ」
この場所には似つかわしくない訪問者の出現に、山の男、女たちの話は盛り上がる。
「昔に、ここらで遭難した子供の霊とかじゃないか」
「そうそう。成仏できずにさ迷い続けて、たまに人が通りかかったらついてくるんじゃない」
「だったら、この中に入ってこないで正解だったな。迷い霊は悪さをするのが定番だし」
入れと言った手前、リーダーは自分の判断が災いを招かなくてホッとしていた。
「また来たらどうしましょう」
「ああ、そうだな」
「そうですね」
五人は考え込んだ。
「中に招き入れると、きっと悪いことが起きそうな気がします。なにせ成仏してない霊ですから」
「追い出せばいいさ」
「それでも入ってきたらどうするの。さ迷っている霊って、基本的に自分が死んだことを理解してないから、しつこく付きまとうと思う」
「その時は、」
その場の冷気が固さを増した。いつもの決意が支配しようとしている。
「その時は退治すればいいんだよ。相手はあちら側のやつらだからな。殺したって罪にはならないし、もともと死んでいるんだ」
樋口の言葉は力強かった。立ち上がって胸を張り、いかにもリーダーらしく威厳のある態度を見せた。
「そうね、やっつけちゃいましょう」
「おう、ナイフもスコップもあるし、ぶった斬って突き刺して、バラバラにしてやる」
「そうして、食べちゃいましょうよ」
「そうそう。あの世の人達は食べて供養よ」
一行の意気が上がった。
「ねえ、今からあの世のものを探しに行きましょうよ」
やる気になった看護師の提案に、勝気なリーダーの気性が即座に呼応した。
「それはいい。待っているだけというのは、もぞかしいからな」
赤黒くシミが付いた棍棒を振り回し、どうだと言わんばかりのポーズをキメた。
「俺もそうだ。奴らがくるのを待っているなんて、そんな悠長なことやっていたら、こっちが先にやられてしまうぞ」
薄明りの中に真っ赤な目玉をギラギラさせて、パーティーは避難小屋を出た。そして、輪郭のはっきりした足音をたてながら闇の奥へと消えていった。
「おっとちゃん。あの小屋にあいつらがきたよ」
子供たちが家に帰ってくるなり、そう叫んだ。家長である父親が、行灯のか細い光を頼りに鉄砲の手入れをしている。
「なにっ」
男の子は土間で藁の長靴を脱ぎ捨てると、山で見てきたことを詳しく話した。妹は凍ったように突っ立っていたが、母親が抱きしめるようにして引き寄せた。
「きやがったか」
このマタギの集落があるのは、北方の辺境地のさらに山奥である。数軒の小屋が、わずかの平地に肩を寄せ合うようにして隣接していた。
「あんた、あいつらがきたのかい」
「ああ、そうらしい」
いつになく険しい表情の亭主を見て、女は頭を抱えてうずくまった。囲炉裏の反対側で、火照った木炭に手をかざしていた老婆が、ぼそっと呟いた。
「今年は何人やられるかなあ」
「ばあさん、縁起でもねえこと言うな」
家長が注意するが、朱色にいぶった炭を転がしながら老婆はさらに続けた。
「んだらこといってもよう、あいづらはオラたちをとっ捕まえて、そんで喰うべや」
小屋の中の空気がとてつもなく重くなった。夫婦は下を向き、子どもたちは両親の顔を交互に見ているが、すぐに気落ちしたようにうなだれた。
「なんだがおっかしなもん着て、おっかしなこと言って、そんで尖ったものでおらたちを引き裂くさ。死にきれなくても、生きたまま喰うべや」
「黙ってろっ」
息子に叱咤されて一度は口をつぐむが、これが最期の言葉とばかりに続ける。
「鬼だあ。あいづらはなあ、鬼だべやあ。つめてえ山ん中で死んじまって、魂がさまよってさまよって、いいあんばいに小汚くなって、そんで人喰い鬼になったべや」
家長は長男に向かって、他の家にいって化け物たちがやって来るから知らせろと怒鳴った。男の子は麦わらの防寒帽子もかぶらずに出て行った。
「昔からなあ、オラの婆さんの婆さんの、そのまた婆さんの頃からな、あいづらはいるんだあ。おんなじ鬼どもだあ。あいづらはなあ、いつ、どこさなんて知ったこっちゃねえんだ。昔にいっだり、先にいっだりするっで、婆さんがよくいってたっけなあ」
男の子の軽快な足音が、いくつかの骨太な足跡を連れてきた。ドタドタと許可も得ずに上がり込んできた男たちは、それぞれの手に鉄砲を持っていた。
「人喰いどもが、あの小屋にいるってか。こっちゃに来るんだろう」
「こっちは鉄砲が五丁だ。みすみすやられるかってんだ」
男たちの意気は上がっていた。その家の家長を先頭に、鉄砲をかついで出ていった。
「すったらごと無駄だあ」
老婆が、また呟きだした。女房が心底嫌そうな表情をする。女の子が母親にぴったりとくっ付いた。
皺とシミだらけの手が、長襦袢の中からケイタイ端末をとり出して火にかざした。それは、わずかな熱で発電するように設計されている。骨っぽい老婆の手のひらで、液晶画面が仄かに起動し始めた。彼女が幼き頃、祖母や両親や兄たちが惨殺された家で見つけたものだ。
「こんなもん、どこのどいつがつくれるっで。あいづらは人の肉が欲しくて欲しくてなあ、時の中で彷徨ってんだあ。人喰いの鬼はいつでもでてくるでえ。オラの婆さんのとこにも、おまんのセガレのとこにもよ」
怯えて母親の足にしがみ付いている女の子を見つめながら、そう言うのだった。
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