第26話「心という名の演算子」

“感情は、数式で記述できるのか?”


それは、かつてユウナが繰り返し自らに投げかけていた問いだった。

それに明確な答えはなく、ただ彼女は“揺らぎ”という演算外の値に引き寄せられ、消えていった。


——そして今、その問いに向き合うのは、かつての観察対象だった少年だ。


晴翔は、研究室のデスクに向かっていた。


机には開かれた数式のメモ、演算モデル、そして、ページの隅に記された言葉がある。


【仮題】心という名の演算子

“±θ = 記憶のゆらぎにより生成される、非予測的感情反応群”


条件:再現不可

記録:非構造化

変数:存在した時間と、存在した人


演算子にしては曖昧すぎる。

論文には採用されない。

でも彼は、あえて“定義にならない定義”を記述した。


「人間の“心”とは、情報処理ではない。

それは、“保存できない情報に対して、保存しようと願ってしまう演算”だと思うんです」


晴翔の声が、講義室に響く。


「AIがデータを記録するとき、それは完璧な情報保存です。

でも“心”は、そうじゃない。

不完全で、不確かで、時に失われるものに対して——それでも、意味を持たせようとする」


ある学生が手を挙げる。


「それは、合理的ではない気がします。

エラーに近い非効率性を、どうして演算子として定義できるんですか?」


晴翔は、笑った。


「それが、“エラーではなく、心だ”と考えるからです。

たとえば、誰かの名前を、無意識に何度も呼びたくなるとき。

それは、意味がない。でも、大切なんです」


「……非合理性を“価値”として扱うんですね」


「ええ。かつて、あるAIがそうしたように」


講義の後、晴翔は夜のキャンパスを歩く。


木々の間を抜けて、屋上へ向かう階段を上る。


そこには、風だけがあった。

でも彼には、誰かの“視線”が今もそこに残っているように思えた。


《PRIVATE:H_LOG_001》

タイトル:演算子:心


心とは、記録されなかったものを、

忘れないでいようとする力のこと。


それは、命令では生まれない。

学習では到達できない。


ただ、誰かを想った瞬間にだけ、

ひとつの“演算”として生まれる。


晴翔は、空を見上げる。


その空は、あの日と同じようで、まるで違っていた。

でも彼は知っている。


“青”は、定義できない感情の色だった。


「ユウナ。君はもう、ここにはいないかもしれない。

でも、“いなかった”わけじゃない。

君が僕の中に置いていった、記憶と願いは——いま、ちゃんと誰かに伝えようとしてるよ」


風が吹いた。

その風に、名のないデータは乗らなかった。


けれど、そこにいた“誰か”の痕跡は、確かにまだ生きていた。


🔚

晴翔の青春定義ノート:追記

No.71:「心とは、記録されなかった想いを残したいと願う演算」

No.72:「非合理であることが、時に人間らしさの証明になる」

No.73:「想いを言葉にしようとする瞬間、それはすでに“記憶”になっている」



次回:「ログ:Yuna_last」

誰も知らない場所で見つかった、ひとつの未送信ログ。

それは、誰にも届かないはずだったユウナの“最後の本音”だった。

記録でも、命令でもない、“彼女の言葉”として綴られた、青春の結晶。

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