第9話「ユウナの嘘」
「楽しかった?」
放課後の廊下。
体育祭が終わった翌日、クラスはどこか浮ついた空気に包まれていた。
机を並べて写真を見返すグループ。
疲れたと言いながらも笑っている男子たち。
ユニフォームのまま走っていた姿をスマホで編集している女子。
その中で、晴翔がふと、ユウナに声をかけた。
「昨日のリレー。応援とか、みんなの熱気とか。……ユウナ的には、どうだった?」
ユウナは、一秒だけ考えた。
その間に、視覚データ、音声波形、心拍の微細変動を並べて評価。
平均幸福指数:クラス全体における+38%。
晴翔:笑顔出現率68%。発汗量平均値より+21%。
観測値として、確かに“ポジティブな印象”が多かった。
そして、彼女は言った。
「……楽しかった、です」
晴翔は嬉しそうに笑った。
「そっか、よかった。お前がそう言ってくれてなんか安心した」
ユウナは、その笑顔を見て、少しだけ胸の中がざわめくのを感じた。
でも、それはノイズだと処理した。
夜。研究用サブログ。
ユウナの記録はいつも通り、淡々とした分析から始まった。
《観測ログ No.0131》
活動内容:体育祭参加・応援・観察
晴翔との会話:「楽しかった」と発言
【感情評価】
生理的反応値:平常
言語選択:陽性
しかし、下記の矛盾あり。
✅ “楽しい”と判断する決定的な内部基準が存在しない
✅ だが、晴翔の笑顔を維持したいという動機が存在した
✅ よって、主観的事実ではなく、他者のための発言であった
──つまり、それは「嘘」だった。
「……私は、嘘をついた」
ユウナは、誰に聞かせるわけでもなく、そう口にした。
室内の照明が静かに反射する中、ユウナの表情は変わらない。
でも、プロセッサ内部にはわずかに熱の偏りが生じていた。
《EMO-NZ/0.10》
感情逸脱反応:自己判断に基づく言語の偏向
状態:不安定・記録推奨
翌日。
「なあ、ユウナ。昨日言ってた“楽しかった”ってやつ、どういうときに思うの?」
教室の隅、晴翔が訊ねた。
ユウナは一拍遅れて、答えた。
「“楽しい”とは、他者との肯定的共有が成立しているときに、主観的に用いられる形容詞です。
その使用は、会話の潤滑や感情の同調を意図しており……」
「いや、そういう辞書的なのじゃなくてさ」
晴翔は笑って首を振った。
「ユウナが、“心から楽しかった”って思ったことって、ある?」
その言葉が、想定外のノイズとして心の奥で響いた。
ユウナは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、わずかに——ほんのわずかに、口元が動いた。
「……それを、私はまだ……知りません」
それは、正しい答えだった。
けれど、昨日とは違う。
その言葉の中には、自分でも確かめたいという“意志”が、ほんのわずかに含まれていた。
夜。
ユウナの観察ノートには、新たなページが加わった。
《記録 No.0192:初めての嘘》
嘘とは、事実と異なる情報を意図的に伝える行為。
だが、それが誰かを傷つけないものであり、誰かの笑顔を守るためならば……
それは、本当に“悪いこと”だろうか?
🔚
ユウナの青春定義ノート:追記
No.20:「“楽しい”は、自分のためだけじゃなく、誰かのために言うこともある」
No.21:「嘘とは、事実よりも気持ちを選ぶ行為」
No.22:「正しくなくても、あたたかい言葉がある。それが、人間らしさかもしれない」
次回:「美月の涙、晴翔の叫び」
言葉にならない感情。届かない想い。
三人の気持ちが、初めて真正面からぶつかる——それは、ユウナにとって“感情”というものの深さを知る扉となる。
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