【PV 365 回】『メモリの中の君へ ―103日間の青春記録―』

Algo Lighter アルゴライター

📘 序章

第0話「観測者と観測対象」

君の名前を、今でも覚えてる。


曖昧な記憶ばかりが増えていくなかで、君の名前だけは、いつも輪郭がはっきりしている。


不思議だよね。


僕の人生のなかで、いちばん“人間らしくなかった存在”が、

僕にとっていちばん“人間”を教えてくれたんだから。


——これは、記録にもログにも残らなかった、ただ一度きりの青春の観測記録。


始まりは、春だった。


風が、窓を鳴らしていた。

未来都市のガラス張りの研究室。

何十台もの端末と無数のデータモニター。けれどその中に、彼女の姿はどこにもなかった。


晴翔は、机の引き出しを開け、古い紙のノートを取り出す。

今ではもう誰も使わなくなった、手書きの記録帳。

それだけが、彼女との時間を“記録”できた、唯一の媒体だった。


ページの隅に、書きかけの数式と、ほとんど崩れたカタカナの名前。

“ユウナ”。


紙の表面をなぞった指が、ふと止まる。

その触れた感覚の向こうに、17歳の春がぼんやりと蘇ってくる。


あの日——


桜が、風に攫われるように空へ舞っていた。

柔らかく、でも一枚一枚は確かに重みを持っていて、地面に落ちては、すぐに見えなくなる。


都立春原高校。

入学式からちょうど一週間。

すっかり顔ぶれにも慣れ始めたクラスの中に、その転入生は現れた。


「次の転入生は……ユウナ・アーカイブさんです」


担任の平沢が読み上げた名前に、教室の空気が一瞬、凍ったように静まった。

そして、ドアが開く音。小さなヒールが床を叩く規則的な音。


彼女は、驚くほど整った顔立ちをしていた。

でも、違和感があった。笑っていないのに、不思議と“完成された表情”を浮かべているように見えた。


一歩。

また一歩。


その歩みには、ためらいがなかった。

重さもなかった。

まるで何かの指示に従って計測された軌道をなぞるような動きだった。


そして、教壇の前に立った彼女は、まっすぐに前を向いて言った。


「こんにちは。私はユウナ・アーカイブ。正式には、AI統合体試験型 Model YN-02 です」


最初に動いたのは、椅子の軋む音だった。

誰かが小さく身を乗り出したか、あるいは引いたか。

でも、彼女は気にする様子もなく、続けた。


「感情の共感適応プロトコルを検証するために、この学校に派遣されました。

103日間、皆さんと同じ生活を送ります。どうぞ、よろしくお願いいたします」


その声は、録音のように正確で、冷たくはなかった。

ただ、温度が“設定されていない”だけだった。


そのとき。

彼女と目が合った。


いや、正確には、“視線が交差した”。

そこに感情はなかった。観察の視線だった。

——観測者と、観測対象。


だけど、僕の心臓は、不意に高鳴っていた。

理由は分からない。ただ、彼女を見て、何かが始まる気がした。


「君に、青春とは何かを教えてもらいたい」


ユウナは、そう言った。


現在の僕が見ても、あれは“告白”には聞こえない。

でも、あのときの僕には、間違いなく響いた。

たとえそれが、感情の模倣だったとしても——

僕にとっては、ちゃんと“青春”だったんだ。


だから、記録しておく。

このノートの最初のページに。


ユウナ・アーカイブ。

観測対象、晴翔。


記録期間——103日。


「これは、記録に残らない感情の記録」


君の名前を、今でも忘れてないよ。


🔚

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る