第16話 気のせいだろ
靴を履き、ドアを閉め、鍵をかける。
それだけの、いつもと変わらない動作。
指先に残る、鍵の少し冷えた感触。
それをポケットに押し込みながら、
俺は一歩、外へ踏み出した。
朝の空気は夏にしては少し冷たく、
眠気を残した頭にはちょうどいい。
まだ完全には目覚めきっていない住宅街は、
どこか時間がゆっくり流れているように見える
―変化に気づいたのは、数分ほど歩いてからだった
(...静かだな)
朝の住宅街は、もともと騒がしいわけじゃない。
人が頻繁に歩いている訳でもないし、
車通りも多い訳ではない。
それでも今日は、やけに静かに感じる。
聞こえる足音は、ひとつ分だけ。
自分の靴底がアスファルトを叩く、一定のリズム。
横でくだらない話をする声も、
後ろから「おはよう」と掛けられる声もない。
(今日は、久しぶりに独りか)
甘凪もいない。
七瀬も、悠もいない。
前までは、それが当たり前だったはずなのに
毎朝、誰かしらが隣にいて、他愛もない話をして、
時々どうでもいいことで笑っていた。
それが今日は、ない。
“当たり前”が抜け落ちた結果、
残ったのは、妙な静けさだった。
(毒されてんなぁ...)
なんて苦笑してしまいそうになる。
(まぁ、たまには悪くない...かな)
制服の袖を軽く引っ張り、
肩にかけた鞄の位置を直しながら、
俺は前を向いて歩き続ける。
―その時だった
「だーれだ」
そんな声と共に視界が、突然、真っ暗になる。
柔らかい感触と、指先の温度。
背後から伸びてきた両手が、俺の目を覆っていた。
(...び、ビビったぁ)
おいおい、怖すぎるだろうが。
現実で突然やられると恐怖しかないぞこれ
「白銀だろ?ビックリしたわ」
ほぼ反射で口に出た。
「...つまんないの」
即答したのが気に食わなかったのか、
指先にほんのり力がこもる。
「現実でやったらバレバレだぞ、これ」
「1回やってみたかったの〜」
くすっと、楽しそうな気配。
手が離れ、視界が戻る。
振り返ると、そこには白銀氷華が立っていた。
「不審者かと思った」
帽子を被り、眼鏡をつけている白銀。
ぱっと見は、どこにでもいる普通の女子高生
(...これ、普通に分かるくないか)
「失礼ね」
白銀は腕を組み、少し頬を膨らませていて、
朝日に照らされた銀色の髪が美しく映る。
「そんなんで隠せてんのか?」
「声掛けられるのって別に多くないのよ?」
歩き出しながら、白銀は肩をすくめる。
住宅街の道を、2人並んで歩く。
さっきまで1人分だった足音が、2つに増えた。
「学校で待たれたりとかないの?」
「如月は私のファンをなんだと思ってるの...?」
「へ〜じゃあないのか」
「まぁ、たまに居るけど」
「居るのかよ...」
ほんの一拍の間があって、
その“たまに”が全然たまにじゃない気がした。
「そういうものよ、芸能人て」
さらっと言うけど、
その言葉の重さを俺はよく分からない。
「そんな芸能人様が俺歩いてて良いのか?」
「その為の変装」
「ぶっちゃけ分かるけどな」
「遠目で分かんないくらいでいいの〜」
「...そういうものか」
「そういうものよ」
歩道の端に植えられた街路樹が
朝の風に小さく揺れる。
影が2人分、重なったり離れたりしながら
伸びていく。
「というか、学校では話さない約束だろ?」
白銀に問い掛けながら、
俺は周囲を1度見回して確認する。
まだ学校からは遠く、
俺たちと同じ制服は見当たらない。
「私は約束はしっかり守るタイプよ?」
白銀はそう言ってから、
わざとらしく眼鏡の位置を直した。
「えぇ...?」
間の抜けた声が出た。
(じゃあ、何故こうして並んで歩いているんだ...)
疑問が顔に出ていたのか、
白銀は足を止め、少しだけ振り返る。
「だって」
一瞬、言葉を切る。
「今は学校じゃないもの」
「へ、屁理屈ぅ...」
そう返すと、白銀は満足そうに口元を緩めた。
「論理的と言いなさい?」
その言葉に呆れながら、再び歩き出す。
2人分の足音が、微妙にずれながら重なる
「でもさ」
「なに?」
今度は俺が声をかける。
隣の白銀は、首を傾げながら、
こちらに視線を移した。
「こうやって普通に歩いてて、
本当に大丈夫なのか?」
「何が?」
平然とそう返してくる白銀に、
少し言葉が詰まる。
「いや...」
言葉を探す間、
信号の向こうで、俺たちの学校の生徒たちが
歩いているのが見えた。
「見られたら、面倒だろ?」
「...まぁ、そうね」
白銀は否定せず、視線を地面に落とす。
アスファルトに落ちた影が、
信号待ちの間、並んで伸びる。
「昨日ね」
ふいに、白銀が言う。
声は低く、周囲に溶ける音量だった。
「マネージャーさんに、出来れば、
1人で行動してくださいって言われたのよ」
「じゃあなんで俺の隣に居るんですかね...?」
信号が青に変わり、人の流れに紛れながら、
横断歩道を渡る。
「もちろん、それを破りたい訳じゃない」
白銀の声は、人のざわめきに
溶けて消えてしまいそうなくらいの音量だった。
「少しくらい例外があってもいいでしょっ?」
そう言って、白銀は横目でこちらを見る
眼鏡の奥の視線は、驚くほど柔らかかった。
「そうだな」
そして、少し歩みを進めると
校門が視界の端で見え始めた。
白銀は立ち止まり、帽子のつばを下げる。
「名残惜しいけど...ここらで離れましょうか」
「だな」
すれ違う直前、
白銀は一瞬だけ、歩みを緩めた。
「初めて、友達と登校というものをしてみたけど」
言葉のあと、ほんのわずかな沈黙。
朝の喧騒が、その隙間を埋める。
「楽しいものねっ!」
それだけ言って、
白銀は何事もなかったように
人の中へ溶けていった。
残された俺は、
1人分の足音で校門へ向かう。
生徒たちが笑い合う声、
自転車のブレーキが鳴る甲高い音
―学校特有の騒がしい雰囲気が流れる。
「よっ、蒼真」
背後から、聞き慣れた声。
振り返ると、肩に鞄を引っかけた愁が立っていた。
「おはよう、悠」
「はぁ〜月曜日は憂鬱だぜ...」
肩を落としながら、わざとらしく溜め息。
それを見て、思わず苦笑する。
「同感」
そう短く返しながら、
行き交う生徒たちの間を縫うように進む。
「...なあ」
愁が、ふと足を緩める。
視線が、妙にじっとこちらに向けられていた。
「...なんか、いいことあった?」
「は?」
思わず、足が止まりそうになる。
「いや、ほら」
愁は顎に手を当て、
探るような視線を向けながら続ける。
「ニヤけてるってほどじゃねぇけどさ。
朝から妙に機嫌が良く見えるっていうか...」
(...そんな顔してるか?)
否定しようとして――
不意に廊下の窓に映っている自分が見えた。
(...え?)
悠に言われた通り、
口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
『楽しいものねっ!』
「...気のせいだろ」
俺は窓に映る自分から目を逸らして、
何事もなかったように歩き出した。
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