翼をあげる

折り鶴

Mirror Dance

 なにかしらに魅入ってしまった人間の不幸というものについて、ときどき、俺は考える。

 ひとは愚かな生きものだから、憧憬と羨望とが、慕情との境界を曖昧にしてしまうことなんて、たいして珍しいことではない。

 ゆえに、俺のような存在がうまれるのだ。


 ※※※


 いちどくらい、うつくしいものをみてみたい。

 それが煤にまみれて暮らす子どもだったころの、ゆいいつの夢だった。

 サーカス来てんだよ。みにいく?

 だから、コニーの誘いに乗った。未来の保証などまるでなかった。明日死んでしまっても、なにもおかしくない生活。当時のおれの仕事は煙突掃除で、昨日喋った仕事仲間が翌日にくたばっていた、そんなのがよくあることだった。狭い煙突からうっかり出られずそのまま火を点けられたりだとか、あるいは、肺の病気にかかったりだとか。

 煤まみれのおれはサーカス見物に適してはいなかったが、コニーがそのことを気にする様子はまったくなかった。彼は煙突掃除人ではなく目覚まし屋で、早朝、時計片手に工場勤めのひとたちの家の窓を叩いてまわる仕事だった。おれよりいくぶん稼ぎはいいようだったが、それでもコニーにだって、娯楽に使う金などはもちろんありはしない。つまりはこっそりと、覗き見しよう、という誘いだった。

 その日の勤めを終えたおれは、薄暗い路地裏でコニーと合流した。ほらよ、とコニーが投げてよこしたパンの欠片を、おれはありがたく受け取り食べた。煤を吸いすぎて息ができなくなり死んだおれの兄と仲がよかったためなのか、コニーはしばしばこうやって、おれのことを気遣ってくれる。

 サーカスは街の外れの草原に、テントをかまえているらしい。

 細い小路をふたりで駆ける。この狭い街を、おれはいつだって走っている、と思う。

 街の外れ、沈みかけた陽の暗さに抗うように、いくらかの灯りに照らされて、それはあった。

 なんだ、意外とちいさいんだな。

 テントをみて抱いた感想は、そんなものだった。

 小綺麗な格好をして笑う正しい客たちから離れ、コニーに連れられ片隅の資材が積み上がっているあたりへ向かう。積み上がった資材のあいだをくぐり抜けると、誰からも見られることなくテントの端をめくれる死角に辿り着いた。

「よくこんなとこ、見つけたな」

「ミラー・ストリートの爺さんが教えてくれたんだよ。こっからなら、客席の足場の下に潜り込めるって」

 なぜミラー・ストリートの爺さんとやらがそんなことを知っているのかは謎だったが、おおかた盗みにでも入るために見つけた場所なのだろう。

 テントのなかは楕円形のステージ、その半分ほどをぐるりと囲むように客席があった。前のほうの席は、草のうえに椅子を並べただけの簡素なものだった。後方の階段状に組まれた客席の裏側、座席の下へ、おれたちは身体を潜ませる。みるからに上質そうな生地のズボンや、やわらかそうな長靴下にくるまれた脚の隙間から、ふたりしてステージへと目を向ける。

「なあ、竜とか、出てくるかな?」

「さあ……、どうだろうな」

 そのはぐらかすような返答で、コニーは竜の存在を信じていない、ということを察した。煤にまみれた街の外、草原のさらに向こうに聳える山の奥深くには、うつくしい竜が住んでいるといわれていた。サーカスでは、はぐれた竜の子だとか、ほかにも珍しい生きものを飼っていて、それらを見せ物にしているのだと街ではもっぱらの噂だった。

 だけれど最近では、そんな生きものはいない、とせせら笑う大人が多い。なにせいま山は掘り起こされ、炭鉱と化している。そこには竜など現れない。ただの、伝説で、お伽話。

 でもあの日のおれはまだ、竜の存在を信じていた。人間に見つからないように、山の奥の奥のほうで、ひっそりと隠れて暮らしているんじゃないかなって。

 いま思えば、この夢見がちな性質が、おれとコニーの決定的な違いで、そして、分岐点となったのだとも思う。

 ぱ、とテント内の明かりが落ち、あ、と思ったその直後、ステージの一点、高く組まれた台のあたりが眩しいひとすじの光で照らされた。

 光のもとに、すらりとした男の姿が浮かび上がる。

「……は?」

 次の瞬間、男は宙を舞っていた。

 舞う、としかいいようがない。いや、それか、もしくは飛ぶ。

 男の動きは魔法じみていた。

 紐でつられた短いバーからあっさり手を離したかと思うと、くるりと鮮やかに、空中で脚を抱えてまわる。その様子に見惚れていると、すうっと長い手が伸びる。別のバーを掴むやいなや、身体がやわらかにそってしなる。そうして加速、再び宙へと躍り出る。はためく服の袖は、まるで翼。

 息をするのも忘れそう。

 そう思わされるくらいには、男の動きは圧倒的な魅力に満ちていた。それは強烈に、おれの瞳に焼きついて、そして二度と消えることのない光と、シルエットとなり刻まれる。



 すべての演目が終わりコニーと路地裏で別れてから、おれはひとり再び草原のテントへと引き返した。

 周囲にひとけはなかったけど、それでもさきほどとおなじ、資材をくぐったさきで、こっそりテントへと潜り込む。

 公演中の喧騒が嘘だったように静かだった。真っ暗かと予想していたが、意外にも明かりが、光源があった。ガス燈や、さいきん街に現れた電灯とかいうのともまた違う。ところどころに、光る石のようなものが置かれていた。というか、たぶんほんとに石。川向こうの湿原をさらに進んださきにある森には、光を蓄えて夜に明かりとなる石があると聞いたことがある。ひょっとすると、それなのかもしれない。

 なんにせよ、おれにとってはじゅうぶんすぎる光だった。

 ステージへと上がり、あの宙を舞っていた男が、はじめに現れた高い台の下へ行く。見つけた梯子に手をかけると、躊躇うことなくのぼる。手脚を突っ張らせて暗い煙突内から這い上がるより、よっぽど楽な行程だった。

「……なるほど」

 のぼった台の上で、おれはひとり呟いた。

 あらためて、ステージ上の仕組みを観察する。天井から垂らされた2本のロープに、床と水平になるようバーが吊り下がったもの、それが数組あった。いまは揺れることなく止まっているけど、これに飛びついたりぶら下がったりして、その勢いで飛んだり舞ったりしていたのだ、と理解する。これが空中ブランコと呼ばれるものだと知ったのは、後日のことだ。

 おれが立つ台の上にも、ロープをたわませた状態で、鉄柵のようなものに引っ掛けられたバーがあるのを見つけた。たぶん、鉄柵から外して掴まり、台から踏み切れば、空中へ踊り出せるだろう。

 やってみるか。

 馬鹿なことをしている自覚はあった。あといくらもしないうちに、陽がのぼる前から仕事ははじまる。こんなことをしていないで、眠って身体を休めるべきだ。

 でも、あの男のシルエットが浮かんで、消えなかった。あれとおなじ動きを、自分でも再現してみたい。一欠片でもいいから、うつくしい、と思えるなにかを自分のうちに取り入れてみたい。

 よし、とちいさく頷いて、バーに手を伸ばしたその直後、

「困るんだよねえ、こういうの」

 後ろから、ささやくような声でそう言われた。

 すぐ、ちかく、おれの真後ろに誰かいる。

「ここはさあ、俺たちにとっては家みたいなものなんだ」

 どこか歌うような調子で声は続く。

「縄張りを荒らされるのを、獣はなにより嫌うんだよ。わかる?」

 おれはまったく動けなかった。気がつくと、首すじにつめたいものが押し当てられていた。視線を向けなくても、刃物だというのは容易にわかった。

「あのご老人といい君といい、不届きものが多い夜だね。……ねえ、なんでだろうね? 俺たちはさあ、たしかに見世物の一種ではあるんだろうけど、奪われるのをただ黙って受け入れたりはしない生きものなんだよ」

 なんの話だ、と思ったところでひらめくものがあった。ミラー・ストリートの爺さん。やっぱり盗みでも働いたのか。

 す、と後ろから手が伸びてきて、おれの眼前で振られる。長い、しなやかな手。てのひらまでを覆う黒い手袋。それを見たとたん、おれの背後に音もなくまわりこんだこの存在こそが、きっとあの宙を舞っていた男なのだと、直感だけれど確信した。

 突きつけられた刃物の存在も忘れて、おれは後ろを振り向いた。

 こちらの動きが予想外だったらしい。不思議そうに、男はおれを見下ろした。黒い髪のあいだから、射抜くような光を帯びた瞳。なにか、おれは男に話しかけようとした。が、口を開きかけたところで、相手の顔に飛び散った血のあとに気づき、硬直した。

 泰然とした男の素ぶりから、返り血だ、というのはすぐわかった。ゆっくり視線を動かすと、おれの首すじを撫でていた刃物にも、男のすらりとした腕にも、ところどころに血がとんでいた。顔も知らないミラー・ストリートの爺さんの、噛まれるように刺されたさまを想像して、そこで、恐怖がせりあがった。

 一歩、後ろにたたらを踏む。

 だけどおれの立つここは、落ちるしかない狭い足場だ。

 あ、と気づいたときには、もう、落下の最中だった。

 煙突のなかで焼け死ぬ想像だとか、飢え死ぬ想像は何度でもした。けれど、この結末は予想外だ。

 でも、悪くないな、と思った。だってほら、こうやって手脚を伸ばせるし、少し視線を彷徨わせれば、星のような石があたりで瞬いていて、きれい。

 叩きつけられる直前で眼を閉じよう、と考えたとき、上から影が降ってきた。

「……え?」

 次の瞬間、引き上げられる。

 顔を上げると、左腕でおれを抱き抱え、右腕でバーにぶら下がる男と視線があった。あった、かと思ったら、不意と視線を外される。ぐいと風を切る感覚で、おれはそれに気づく。

 いま、自分が、宙を飛んでいるのだということに。

「ねえ、まわれる?」

「ん?」

 がしゃん、と身体に衝撃がかかる。男がバーを持ち替えたのだ。一瞬、静止する間があって、それからすぐに加速に入る。

「くるって、まわれる? おれがいても」

 おれを抱きかかえたままでもまわれるか、という意味だった。男はおれの言葉を受けて、やっぱり不思議そうに眼を細めて、でも、すぐに、不敵に片頬をつりあげた。

「とうぜん」

 ふわりと、浮かぶ感覚。

 刹那、世界が静止する。

 ああ、そっか。

 いちばん高いところまできたら、動いてたものは止まるんだ。

 そして、ぐるりと反転、再び世界が動き出す。

 もう、眼ではまともに景色を追えない。ところどころの光の石が、残像の帯となり、流れる。まわっている、飛んでいる、舞っている。言葉のすべてが無意味になるほどの、それは圧倒的な感覚。

 いつのまにか、バーを渡り繋いで、反対側にある台の上に来ていた。男はおれを抱えたままで、とん、と静かに着地する。

 それからゆっくりおれを下ろすと、しゃがんで視線をあわせてくる。

「君は、どうして、ここに来たの?」

「貴方みたいになりたいって、思ったから」

 おれの答えに、相手は眼を見開いたのちに、ふうん、と静かに呟いた。指さきが、こちらに伸ばされる。おれの頬のあたりを撫でて、顔についていた煤を払われる。

 男は指についた煤を、舌を出しちらりと舐めとると、不味まず、と眉をひそめてから、今度はおれにこう訊ねた。

「じゃあ、俺と、一緒にくる?」

 こくりと頷いた。おもしろそうに男が笑う。

「君、名前は?」

「アレン」

 貴方の名前は、と問い返すと「ケネス」と短く答えられる。

「……えっと、」

「ケネス、でいいよ」

 これまで大人を呼び捨てにする機会などなかった。煙突掃除の親方に比べると彼はぐっと若く見えたけど、それでも呼びかけようとして戸惑いが勝った。

「先生って、呼んでもいい?」

「んー……」

「だめ?」

「……まあ、いいよ」

 そこはかとなく困惑を滲ませていたが、とにかく男はその呼称を受け入れた。だから、その日から、男はおれの先生となった。

 先生はまたおれを抱きかかえると、器用にそのまま梯子を下りた。いつのまにか、ステージちかくにはひとが集まっていた。

「みんな、無事に始末はつけたよ。撤収の準備にかかろうか」

 先生が呼びかけると、いっせいに人影が動き出した。どうやらテントの片付けに取り掛かっているらしかった。

「今日で、この街はさようなら。次の街へと移動するよ」

 先生はそこで、おれにそっと問いかけた。

「別れを告げたいものはいない?」

 咄嗟に、コニーの顔が浮かんだ。けれど、おれは静かに首を振って、黙って否定の意を示した。いま、コニーと会って話したら、きっとこの夢は醒めてしまう。そうしたら、もう、二度と煙突のなかから出る機会はない。

 先生の服の腕のあたりをぎゅっと掴む。すると先生はもういちど、しっかりおれを抱え直してくれた。夢じゃない、と口には出さずに何度も何度も繰り返した。そのままおれは眠っていたようで、次に眼を開けると、揺り籠のような馬車のなかだった。ちいさく息を吸い込むと、澄んだつめたい空気が肺を満たした。

 遠いところに来たんだな。

 ぼんやりそう考えた。先生が鮮やかに宙を舞う様子を思い浮かべて、次に、自分がおなじように飛翔する姿を空想した。それから、また眠りに落ちる。こんなにぐっすり眠ったのは、たぶん生まれてはじめてだった。次に目醒めてからの日々は、あっという間に過ぎていった。




「それにしてもほんと、アレンってば無茶するわよねえ!」

 シエナはグラスを傾けると、呆れ混じりに息を吐いた。彼女の言うとおりだ、と思ったので、おれは苦笑で受け流す。

 シエナはおれよりいくつか歳上のサーカス団員で、こうやって、グラス片手に酒を飲めるまでに成長したいまでも、頭の上がらない先輩だ。

「ロープが切れてたのが見えてたなら、おとなしく引き返しなさいよ! なんでそこで、ひとつ離れたブランコに飛び移ろうなんて発想になるわけ?」

「いや、そっちのほうが盛り上がるかなって」

「成功したからよかったものの、落ちてたらどうなってたと思うのよ」

 はあ、と溜め息をつかれたが、それはあくまでもポーズで、かたちだけだ。おれは自分の能力を見誤るような真似はしない。できる、と思ったからやった、ただそれだけ。そしてそれを、シエナもわかってくれている。

「アレンがサーカスに入団したきっかけの話、いつ思い出しても呆れるもの。いちど、ケネスの舞台をみただけで、テントに忍びこんで真似事をしようなんて思いつく?」

「子どものころの話だよ」

「いまだって子どもよ、あたしの生まれた国ならね、貴方まだお酒を飲める年齢じゃないのよ」

 そう言って、シエナはひょいとおれのグラスを取り上げた。早業。彼女の所作はいつだって、とびきりに洗練されていてうつくしい。

 続けて、切れ長の眼をこちらに向けると、ひといきで中身を飲み干した。そんな彼女におれは笑って問いかける。

「ね、おれ、まだ子ども?」

「ええ」

「酷いなあ。こんなに背だって伸びたのに」

「まあ、見た目はね、ずいぶん大きくなったわね」

 シエナはかたちのいい唇を尖らせると、首を傾げておれを下から覗きこむようにした。

「はじめて会ったころなんて、あたしよりずーっとちっちゃかったのに! ケネスに抱きかかえられると、貴方、いつもすごく嬉しそうだった」

「……先生は、さ」

 おれが声の調子を落とすと、シエナもつられて真顔になる。

「先生は、ほんとに、変わらないよね」

「……そうね。あのひとはずっと、昔から、あたしが出会ったときからあのままね」

 あのサーカスの夜から、ずいぶんと時間が経った。

 舞台に立つための訓練はなかなかに厳しかったけど、その厳しさだって、おれは好きになれた。団員は、娼館に売られかけていたところを逃げ出してきたシエナだったり、どうしても銃が持てずに脱走兵となった男だったり、とにかく、他に行き場や身寄りのない人間ばかりだった。

 そしてこのサーカスの大きな特徴は、あくまでも技で魅せること、この一点だった。

 団員になってから知ったことだが、他のサーカスでは、獣と人間を競わせたりだとか、珍しい動物を狭い檻に閉じ込めて鞭打ったりだとか、そんなのはよくあることらしい。

 ケネスがなによりも、そういった行為を嫌うのよ。

 ここに入ったばかりのころ、シエナにそう教わった。

 よかったわね、ここはいいところよ。自分を魅せる努力をすれば、見世物になる以外の生き方ができるの。

「ねえ、シエナ」

「なあに?」

「いつか、さ、おれも先生みたいになれるかな」

 シエナは考えるように口をつぐんだ。ここですぐに、なれるわよ、とは返さない彼女のことが好きだった。

 ステージに上がった先生に、敵うものは誰もいなかった。

 サーカスの一座となってから、いろんなところを旅をして、巡った。たくさんのきれいなものを見た。

 でも、それでも敵わない。

 きんと冷たい真冬の夜の遠くで煌めく星よりも、明けたばかりのただただ眩ゆい朝の陽を浴びた海よりも、そんなもののなによりも、先生が宙を舞う姿のほうがきれいだった。

 おれも、シエナも、幼い子どもだったあのころとは違う。背が伸びた。筋肉がついた。ずいぶんと変わった。

 先生は、出会ったあのころから変わらない。

 ただ、それは、あくまでも外見上だけの話で、先生のパフォーマンスは年々凄みを増していた。どれだけ頑張っても追いつかない、届かない、と思うほどに。

 おれにはもう、残された時間はわずかだというのに。

 ひゅ、と肺から喉にかけての嫌な予感に襲われる。おれは意識して、笑顔をつくってから立ち上がる。

「おれ、もうテント戻るよ。あんまり飲み過ぎちゃだめだよ」

 なにか言いたげなシエナに背を向けて、寝床でもあるちいさなテントへ向かう。出入り口を閉めてから、突っ伏すように倒れ込む。

 身体の不調に気づいたのは、つい最近のことで、でも、気づいてからの症状の悪化は、あっという間だった。

 街を巡るついでにいろんな医者に診てもらったけど、彼らの言うことは変わらない。

 おそらく、以前のお仕事の影響でしょうね。

 兄や、他にもいたたくさんの仕事仲間とおなじ。狭くて暗い煙突で、煤まみれで過ごした時間は、おれのなかから消えてはくれない。

 どの医者も匙を投げた、というのも共通していた。

 具体的に、あとどれくらい息が持つかはわからない。

 かなしい、よりも、ただ悔しい、とつよく思う。

 だって、まだ、ぜんぜん届かないから。先生の携えるうつくしさは、おれにはまだ遥か遠い。

 抱えてもらってとんだ夜を、毎晩のように思い返す。いちばん高いところで浮かび上がり、静かに止まったあの一瞬。永遠に続く一瞬。たとえるならば、先生は、あの瞬間のようなうつくしさ。

 届きたい、と思う。だから、天使さま、お迎えはまだ少し待っていて。てっぺんの一瞬を掴んだなら、あとは落ちるだけでもかまわない。



 ※※※



 ごめんなさい、と詫び這いずるものを、俺は見下ろし息を吐く。

「ここはさあ、俺たちにとっては家みたいなものなんだ」

 何度も繰り返した言葉を今夜も放つ。俺たちは、いや俺はもう、見世物小屋に戻るのはごめんだから。

「縄張りを荒らされるのを、獣はなにより嫌うんだよ。わかる?」

 わかりますごめんなさい二度としません、懇願の声は泣いている。だいじょうぶ。二度とできない、させないよ。このさきもう、おまえに与えられるのは静寂だけ。

 振り下ろしたナイフのさきで、赤が散る。

 たくさんの街を巡ってきた。だいたいどこの街でも、こういう愚かなものがいる。俺たちは、持たざるものの集まりだ。これ以上、一片たりとも奪わせない。盗むことも奪うことも赦さない。

 動かなくなった愚かなものを、引きずり外へ放る。そのうち獣が喰らってくれるはず。

 もう、何十年こんなことを、繰り返してきただろう。

 テントに戻るまえに、ちかくを流れる川で血を落とす。明日の夜で、この場所での公演は終わり。次の朝には、次の街。永遠のような、一瞬のような、終わりもわからず生きる日々。



 雷雨のような拍手と歓声で、過去の記憶から引き戻される。

 喝采はやまない。俺が、宙へ身を放つたびに。

 だけどその賞賛は、俺の心を満たさない。

 

 周囲を惑わさずにはいられないほどにうつくしい竜と、それに魅入ってしまった哀れな男。

 彼らから産まれたのが、俺だった。

 ひとにも竜にもなりきれない、中途半端な異形の存在。もともと、俺には翼があってしかるべき生きものだった。比喩ではなく、ほんとうの、空を飛ぶためにある翼。



 俺の父親にあたる男の不幸は、本来交じるべきではない存在に、つよく焦がれてしまったことだ。

 良家の三男で、舞台役者でもあった俺の父親は、山奥でうつくしい竜と出会う。

 それが男の終わりだった。

 男は竜に憧れ、焦がれて、そしてすべてを差し出した。

 周囲に悪魔憑きと疎まれようが、竜のもとに通うことをやめなかった。持てるものはみな捧げた。まずは言葉を、次に歌を踊りを、最後にはその身を与えて喰らわせた。

 その結果、産まれたのが俺だ。

 母である竜と過ごしたのは、ほんの短い時間だった。

 住みかであった静かな山は、街に人間が増えるにつれ、脅かされ、切り崩された。

 うつくしい竜であった母は、うつくしい水と緑がなければ生きることはできなかった。元来、人々の伝説で語られるようなつよい種族ではなかったのだ。

 残ったのは、ひとの子どもの姿に不恰好な翼をそなえ、短い鉤爪を生やした化け物のような俺だけだった。



 躊躇うことなく、バーから俺は手を放す。

 ふわりと宙に身体が浮く。

 翼だけで飛べていたころは遥かに遠い。いまはもう、この屋根の下で、垂らされた紐頼りにしかとべない。

 山を追われた俺に行くあてなどもちろんなかった。すぐ狩人に見つかって、連れられたさきはサーカスという名の見世物小屋だった。翼は興味本位にもがれて売り捌かれた。いまも、わずかに生え残ってはいるけれど、もはやなんの役にも立たないただの飾りだ。

 まわる視界の隅、ステージの裾で佇むひとりの姿を俺はとらえる。

 視線があった、と思う。だから俺は笑う。

 先生、とはじめて呼ばれた日を思い返す。

 貴方みたいになりたいから。

 そう言った、ちいさな子どものころの、君と出会った日のことを思い返す。



 見世物小屋の檻の中で過ごすうち、俺は気がついた。自分が、人間たちよりいくらか寿命が長いこと、そして、少しばかり頑丈にできている、ということに。

 俺を飼っていた奴らは油断と隙だらけだったから、それはあっけなく実行できた。俺は見世物小屋の人間たちを全員殺した。

 捕らわれていた獣の類は放してやった。ひとりで生きることのできない傷を抱えた人間たちに、俺は芸を伝えた。竜の母へ父が贈った、たくさんの歌や踊りや物語。それがこのサーカスのはじまりだ。

 置いていかれたものたちでの家族ごっこは悪くはなかった。ただ、どこか退屈だっただけ。みんな、俺のとぶ姿に賞賛を浴びせてくれたけど、それは俺にとってはとうぜんの、できて当たり前のことだから。対岸から贈られる賛美は、遠くてときどき虚しくなった。

 そこに、ある日君が現れた。

 はじめは、盗み目的なのだろう、と思っていた。まともに食べてないのが明らかな見た目で、少し脅かしたら、あとは逃がしてやるつもりだった。

 だけどそうはならなかった。俺の腕のなかで眼を輝かせる君のことが、不思議だった。その瞳があまりにも澄んでいて、俺は生まれてはじめて、なにかをきれいだと思えた。父が母に抱いた感情が、少しだけ理解できた気がした。君が宙を舞う姿を見守ることは誇らしかった。もしかしたら、母も、こんな気持ちだったのかもしれない、と思った。

 だから、もっと、もっと俺に、うつくしいと思えるものをみせてほしい。

 君にならそれができると思う。君が、俺に焦がれることで、よりうつくしくとべるなら、俺は何度だって宙へ身を投げる。もっと、うつくしくなってくれ。畏怖すらおぼえてしまうほどに。それで、俺のことを打ちのめして。君になら、俺の翼をあげてもいい。

 君が身体に爆弾を抱えてることは、気づいてる。頼むから、まだ待っていて。拍手が、歓声が聞こえる。きっと、すべてに満足できる日などぜったいにこないのだろうけど、でも、きょうのこの瞬間の君が、世界のなによりうつくしくあれるようにと、俺は、いま、高く見上げながら祈っている。いつの日か君も俺もいなくなって、すべてが廃れてしまっても、重ねた祈りの瞬間は、きっと、どこかに降り積もる。


  

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翼をあげる 折り鶴 @mizuuminoue

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