第二章 花外
花外1
いつもより日の出の鐘が大きく響き、空は其れから逃れるように身を捻った時、凄まじい激痛が体を走り目を覚ました。
「いっ……!」
「よぉー、起きたか」
あまりの痛さに姿勢を変えることも出来ないまま呼吸を整えていると、何とも呑気な声と共ににゅっと白い物が視界に割り込んで来た。
「ハ、ハク……?」
「無様なものよのぉ。あれしきの鬼を滅するのに師の力を借りねばならんとは。はー、情けない。ハク様の教えを無駄にしおって」
やれやれと両前脚を左右に広げ首を横に振り、大袈裟なほど大きな溜息を吐くハクに、空は「鬼……」と呟いて飛び起きようとした。
「だっ……ぁあああ」
再び激痛に襲われ、体を少しも起こすことなく布団に戻る。ハクがまた哀れな生き物を覗き見るようにして溜息を吐いた。
「その程度の怪我で痛みを感じるものなのだなぁ、空よ。お主の体は使い古した雑巾のように、ところどころ血肉が千切れておったが、綺麗にくっつけて貰った。良かったのぉ」
ハクの言葉がどこまで本当か、自身の体を確認することすら困難な空には分からないが、大凡本当のことなのだろう。何故ならこんなにも痛いのだから。
「やれ情けない。ほんに情けない、無様よ。あれしきの鬼でこの為体……ハク様の教えは何処に行ったのか」
しつこく繰り返しては嘘泣きをするハクを、空は大層剣呑な目で睨んだ。
「あの場に居なかった癖に……何処に居たんだよ。俺はてっきり鬼に喰われたのかと思ってた」
「ハク様が鬼如きに喰われるわけなかろう」
「じゃあ何で出て来なかったんだ?」
「ずっと
「う……あんなのが〝あの程度〟なんて」
満身創痍となった今を考えると確かにハクの云うとおりではあるが、あれ以上強い鬼が出ることがあるのだろうか。
「ていうか、ハク、鬼の見分け方くらい教えといてよ」
「お主が呑気に十言の呪を使ったことか? あれも使い方次第なんじゃがのぉ。お主はただの鎮めとして使ったからいかんのじゃ……ハク様はちゃんと教えたぞ。完全に堕ちた鬼には使えんとな」
「どういう鬼に使えるかなんて聞いてないぞ」
「人を喰ったか喰ってないかよの。鬼の自覚なく、夜に暴れるだけの者も
「縛魂?」
「
ハクは初耳とばかりに聞き返す空に半目で睨む。
空は然うだったっけとハクと目線が合わないように逸らしながら、必死で記憶を漁った。
十言の呪はヨミから直接教えてもらった。確かヨミがハクを置いて出て行ったばかりの頃、子守唄のように覚えたての十言を繰り返していた時、そんなことを云っていたような気がしてきた。
「……随分、子どもの頃じゃないか」
「基本よ。どのみちあの鬼には縛魂も無理だかの」
「えぇ……」
「完全に堕ちた鬼は刀で斬るしかない。しかしまぁお主はまだ文字が出ただけで、神力は弱々のようだからのぉ」
「霊力だろ」
神力は文字どおり神の力で、皇又は皇に認められた者が高める力だ。空のような只人が高めるのは霊力である。
「霊力なんぞ高めても仕方がなかろう!」
「でもただの人間である俺がどうやったら神力なんて高められるのさ」
「修練じゃの」
「……はいはい」
ハクとの会話で気持ちが漸く落ち着いてきた空は、室内を見渡す余裕が出て来た。相変わらず全身は酷く痛むため、目で見える範囲だけだが、どうやら自分の小屋ではないらしい。
見慣れな天井に調度品、香の匂い、そして軽く暖かい布団。どれも小屋には無かった物である。
「ハク、此処何処なんだ?」
「おぉ、ようやっと気がついたか! 随分呑気なものよのぉ。こんなにもお主の納屋のような小屋と違うというのに、いつまでも気がつかないからどうしようかと思うたわ」
本当に一言も二言も余計な兎である。
「……で?」
「
「村はどうなったんだ?」
「どうもこうも村ごと消えておる」
「消えた? どういうことだよ」
「言葉のままよ。お主も村から出て良い状態になったし、別に問題なかろう」
事も何気に云うハクに、空は酒屋の親父の行方を聞いた。
「酒屋?」
ハクはきょとんとした顔で首を傾げ、そして天井を見上げて「あー……」と呟いた。
山道に続く納屋に隠れるように云ったはずで、空が覚えている限り鬼は納屋を襲ったりはしなかったはずだ。
「さてな、ハク様は見ておらぬ。それに居たとてお主の今後には関係なかろう。然程親しかったわけでもあるまい」
確かに空は村の人たちと濃い付き合いをしていたわけではない。しかし、あの村で生活をする姿を見ていたし、時折、
酒屋の親父とも親しく話したことはなけれど、やはり世間話を少々するくらいには面識があった。
ハクはそれ以上村のことを話す気はないのか、部屋の中の調度品を二本足で立って物色している。自分の興味のないことはいくら聞いてものらりくらりとされる。
空は仕方なく質問を変えた。
「じゃあ鬼はどうなったんだ?」
「じゃからお主がヨミ殿の力を借りて滅したて」
「どうやって?」
「凌雲を使ってさ」
「凌雲?」
「お主の刀よ」
ハクの視線の先に刀があるのだろう。名を付けた覚えはないが、刀身に浮き上がった文字は凌雲であり、それが刀の名前なのだろう。
ハクの話ではヨミに力を借りた空は、的確に鬼の節となる部分を破壊し、急所を突いて滅したのだらしい。刀で根絶された鬼は塵となり消えて跡形も無くなる。
「その後まぁ見事にぶっ倒れたお主をヨミ殿が運んだのよ。何せハク様は見ての通りか弱くて小さくて愛らしい姿だからの。お主のようなひょろひょろでも抱えるのは困難だ。優しい師で良かったのぉ」
空は再会から鬼と対峙しているまでのヨミを思い出し、とても優しいとはかけ離れたと思ったが、面倒なので何も云わなかった。
そして目が覚めてから姿の見えないヨミは何処へ行ったのかと問えば、この部屋を貸してくれた主人の元に行っていると云う。
「俺も行かないとだよな」
「動けるのか?」
「全然」
動かそうとすればぴりぴりと激痛が始まる前の痛みがあり、首を動かすのも怖いほどだ。
ハクは空の顔の近くに再び来ると、覗き込んで大袈裟までに嘆いた。
「まったくこれしきの傷で……情けないのぉ。次は鬼の攻撃を避けれなんだ、手足の一本失くなってしまうぞ」
「師の教えが悪いんじゃないか?」
「人のせいにするでない。お主の神力であればどうてことない相手よ。じゃが鬼の核が見えぬのは些か調べる必要がありそうじゃな」
然う云えばヨミも鬼の核がどうのと云っていた。修行をしていれば見えていてもおかしくないものなのだろうか。
「まぁその前に体が動かんとな。どれ、神聖あらかたな滝があったはずよ。傷も治るじゃろう」
ハクが然う云い終えた時、扉が少し音を立てて開いた。
髪が肩口で切り揃えられた
「起きましたか」
「起きられますか」
声までそっくりであった。
空が答える前にハクが二人に向き直り答える。
「痛みで動けん。冷鉱泉の流れ着く場所があろう? 連れて行ってくれ」
「……確認して参ります」
「殿方を連れて参ります」
二人の童女は渋々といった体で頭を下げて扉を閉めた。
「鉱泉なんてあるんだ」
「この国に流れる水はすべて鉱泉よ」
「え、然うなの?」
「当たり前じゃろう。まぁ流れていないとたいした意味はないがの」
一度でも水の流れを止め人が入ると癒しの効果は薄まり、なくなると云う。初めて聞いた話に、空は「へぇ」と呟いた。
それから間も無くして二人の童女は二人の男性を連れて戻って来た。
敷布を剥がして頭と足側をそれぞれひと纏めにして持ち上げられる。持ち上げられた瞬間と、おそらく階段をおりているだろう時に痛みがあったが、運んでもらっている手前叫ぶわけにもいかず、奥歯を噛んで堪えた。
敷布の隙間から天と木々の葉が見え、良く晴れた日であることが伺える。昨晩の闇夜と炎が夢のように穏やかな天だ。
時折揺らぎに痛みを感じつつも、暫くして声が掛けられた。
「このまま泉にお入れします」
「体の力を抜いていれば浮きます」
「あ、はい……冷たっ! いっだ……!」
どの程度冷たいのかを聞いておけば良かった。真冬の氷水のように冷たい水に触れ、思わず体が跳ねればそれによる痛みに苦悶する。
二人の男はそんな空の様子に構わず、しかしそぅと彼の全身を水に浸すようにして下ろし、敷布を取り除くと岸に上がって行った。
「我々はこれで。四半刻後に迎えが参りましょう」
「あ、ありがと、ございました」
男たちと入れ替わるようにハクが岸に座る。脚が長いせいで座る姿は猫のようだが、長く大きな耳が猫ではないことを示していた。
「どうじゃ?」
「凄く冷たい」
「鉱泉じゃからの」
「水が当たるのも痛い」
「云うたじゃろう。留まれば治癒の効力はなくなる」
気の澱みが溜まれば水は濁り、相殺し合ってただの水となる。然う分かってはいても息を大きく吸うだけで傷む体に、水の流れは辛いものがあった。幸いなのは冷たさで痛覚が鈍くなっていることだ。
「一柱香で凍傷になりそう」
「そこまで冷たくないぞ。お主の体が痛みで発熱しておるだけじゃ」
「然うなのかなぁ。熱出すってこんな感じなんだ。頭凄く痛くなってきたんだけど」
「ほぉ……まぁおとなしく浮かんでおれ」
ハクはすっと四つ脚で立ち上がる。
「何処行くんだ?」
「お主の師の所よ」
迎えが来るまで出るでないぞと云い添えてハクはさっさと草むらの中に消えてしまった。薄情な兎である。
しかし思えばハクも師と会うのは久しいことなのだ。ひとりと一羽がどういう関係なのかは知らないが、積もる話もあるのだろう。
「師……師匠……んん、どう呼ぶべきなんだろう。父上……いや、どう考えても親子じゃないし、兄上? 然う云えば俺の親ってどんなだったんだろ。もしかして本当に父親……? でも然うならハクは然う云うだろうし。やっぱ師父、かなぁ」
水の流れる音と時折葉が擦れる音だけの場所でひとり浮かんでいると、自分がどこか異界にでも迷い込んだ気持ちになって、空は取り留めのないことを呟いていた。
「技を教えてもらったわけじゃないし、師匠って意味なら鵺の方が師匠だ」
鵺も言葉にして懇切丁寧に指導してくれたわけではないが、言葉ひとつ教えて後を兎一羽に任せた彼よりましである。
泉に浮かんで傷み始めた頭は少しづつ治まり、凍傷にでもなりそうと思った指先も、冷たい水に沈んでいるせいで感覚は無いもののまだ動くようだった。
気がつけば息をするたびに痛んでいた肋骨辺りは、大きく息を吸い込んでも問題なくなっている。鉱泉を使うのは初めてであったが、こんなにも治癒効果の高いものなのかと驚いた。
然うしてぴったり四半刻が経った時、男たちが戻って来た。
「引き上げます」
敷布を空の体の下に通し、来た時と同じように持ち上げられる。敷布のから垣間見える天をぼぅと見ていると、木の板に遮られた。先程空が目覚めた部屋に戻されるのだろう。
多少の揺れにもまったく痛みを感じなくなったことに感動していると、ふと男二人が階段をおり始めた。鉱泉まで運ばれた時、彼らは空を持ち上げて階段をおりたはずだ。ならば戻る時はあがるはず。それなのに何故おりているのだろうか。
「あの、部屋に戻らないんですか?」
「体を温めるようにと」
「湯殿は地下にあるのです」
「然うですか」
どうやら冷えた体を温めるため、風呂に連れて行かれるらしい。
然うして階段をおりきり、何度か角を曲がった気配がして暫く、湿気が感じられた。今は使う時間ではないのか、誰も居ないようである。
丁寧に台座らしい場所に降ろされる。地下と云っていたが、天井は高く広い造りになっていて閉塞感はない。
「失礼します」
男のひとりが然う云って空の着ている着物の合わせを開こうとした。
「えっ」
「お身体も清めるよう言付かっております」
確かに鉱泉に入ったとはいえ、鬼を退治する時に散々粉塵を浴びたし、その前は師から逃げるために森を駆けたりしたため綺麗とは云い難い。
しかし人に体を洗われたことは当然なく、同性相手でもどうにかされるのは気恥ずかしい思いであった。
「だ、大丈夫です。ひとりで出来ます!」
「お体が痛むのでは?」
「鉱泉のおかげで良くなりました!」
ほら、と動いて見せれば男たちは頷いて、湯殿の使い方を教えると下がって行った。
空はほっとして体の力を抜くと、急に動いたせいで痛む数箇所を摩って宥める。動ける程度にはなったが、完全に痛まないわけでもなかった。
ゆっくりと身を起こして、出来るだけ体の稼働域を少なくして洗い場に入る。中も広く、掛け流しであるのか、水の流れる音が酷く響いていた。
洗い場は等間隔で椅子が置かれていて、
「へぇ、便利だなぁ」
身を綺麗にしてから湯に身を浸ける。じんわりとした熱が外側から染み込むように内側に入り込み、空は知らずほぅと息を吐いた。
鬼と遭遇したのは昨晩だと云うのに、何日も前のことのように感じられる。
これからどうするのだろうか。一度村に戻りたいが、ハクの云いようだと戻っても無駄だろう。酒屋の親父のことも、最後会った時に云われたことを思い出すし気が沈む。
── お前が鬼をこの村に喚んだのか!
鬼は闇師が喚び寄せ、高い価値のものを対価に退治する。それが紫藤の民の認識であった。そのため、闇師という存在はその名からして嫌厭されている。
空は闇師として修練を重ねているつもりはなかったし、ハクも闇師としての修練とは云っていなかった。しかし鬼を倒せる刀を持ち、民からすれば怪しの術を学び、喋る兎と共に暮らしていれば気味悪かろう。
首が飛び、四肢を引き千切られた女性も、闇皇の不始末は闇師が掃除するべきと云っていた。
この国で鬼が出るのは珍しくもない。何故出現するのか、何処で生まれているのか、どういった生き物なのか。鬼については何も分かっていない。
ただ、闇皇がおかしくなるまでは鬼は出なかったと聞く。闇皇が消えてから鬼が出るようになった。そして鬼を退治出来るのは闇皇の配下である闇師だけ。その闇師は鬼を滅する代わりに高価な品を要求する。
嫌厭されるのは当然だろう。闇皇自体が紫藤では嫌悪されているのだから。
「……この家の人は知ってるのかな」
空が鬼を滅する刀を持っていること。そしてヨミも鬼を斬れることを。
※
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