自分史
小笠原寿夫
第1話
試験管に入った物質をプレパラートに乗せ、核磁気共鳴の機械に入れてやると、スペクトルが現れる。そのスペクトルを波動の振動数ごとに解析すると、物質の構造が判別できる。この物質の構造により、そこに入った物質がどんな形をして、なんという物質かが見える。より複雑な分子を扱うため、スーパーコンピューターで解析されるのを、実験の後にただ待つのみである。学生は、口々に言う。
「次の就職先内定もらった?」
まだの学生もいれば、進路が決定した学生もいる。卒業したらタイで暮らすという学生もいれば、更に大学を受ける学生もいる。
私はというと、アルバイトで興味を覚えたカメラの撮り方を学んだので、マスコミに進みたかった。フジテレビの入社試験で、難解な英文を読み、それにマークシートで回答したり、どのスーパーマーケットが最も売り上げを上げているかという四択問題が出題された。私たちがやっていた実験とはかけ離れていたため、上の空で受けた東京に本社を置くフジテレビの入社試験に、悉く落ちた。
北海道の春は短い。大自然の中にぽつりぽつりと点在する都市は食の街というだけでなく、観光地としても有名である。そこに住む人たちは、我々、大学生を調子に乗った観光客とでも思っていたのだろう。インテリの匂いがする我々は、恐らく道庁に勤めるのが何よりの出世コースだった事は今となってしてみれば否定はできない。それでも東京に拘り、少しでもテレビの人間に近づきたいと思ったのは、孤独と闘いながら、テレビだけが私の理想郷であったからに他ならない。
映画やテレビで活躍できる人材になりたかった。ほぼ部屋に引きこもってテレビとビデオで脳を潤す日々がチームワークで番組を作る仕事とは程遠いことにまだ気づいていなかった。途轍もなく小さな物質を観測する仕事をほぼ一人でやることを学習してきたのに、大きな何かをチームワークで作る仕事に向いていないと、その時に気づいていれば、私は今の私にはならなかっただろう。専門知識を身に着けるというのは、ほかに選択肢をなくすということに似ている。
高校時代、恩師は言った。
「いい大学に親御さんが入れようとするのは、学歴と収入が比例するからです。」
こんなにも大切な事を、私は病という一つの躓きによって失った。尤も最初はホームシックという名の幼稚な病から来るものだったが、何を間違えたのか私はエンターテイメントの分野に、異様なほど執着していった。生きていくのに必死だったあの時代、アルバイトで得た収入を生活費に充てていた。それだけで良かった。
母は言う。
「私、あなたが学校辞めてアルバイトにハマっても後悔しなかったよ。」
今の私が45歳。19歳で統合失調症にかかり、断薬してアルバイトに精を出し、再発したのが21歳。それから自宅療養を経て28歳まで神戸でアルバイトをした。一つの事を一人でこなすのが、私に向いている仕事なのに、そうではない仕事に就いたから、どこに行っても仕事ができなかった。机に向かってカリカリと勉強していた高校時代から、遠い土地に行き挫折を味わい、病を背負って帰ってきた私に母は嫌悪感を抱いた。蹴り回された事もあるし、思いっきり罵倒された事も度々だった。
「電波が怖い。」
テレビを見ながら、そう怯えた私を見て、本当に母は落胆した。冷たい風呂の水の中で暗闇でじっとしている私を見て、母は怒鳴った。もう終わりだと思ったに違いない。親に手を引かれる大人を見て、「私もああなるのか。」と思った、と母は述懐する。
第二に起こった事件は、私が動画にハマりだした事である。YouTubeというものがあると聞きつけ、本気で映画を作りたいと思った。その時は本気で思っていた。マスコミで働きたい夢を諦めていなかった。自分しかいない被写体を画質の荒い携帯電話のカメラで撮り続け、短い動画を集めていた。映画にはプロットというものがあり、それによって登場人物を動かすという知識すら、ろくになかったので私は、小さな携帯電話で、私自身を撮り続けた。これを見つけた母が怒ったのは言うまでもない。養っている家で勝手に動画を回しているのだから仕方ない。
「出ていけ。」
母は終始、これを口にしていた。何を言ってもこの返答しかなかったとすら言える。こうして私は一人暮らしを始め、作家になりYouTuberになったのだが、望んでいた夢から斜め上に向かっている。私の人生に三度目はあるのかというのが2025年4月13日時点での話である。
自分史 小笠原寿夫 @ogasawaratoshio
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