第1話:取引――三本指の怪異
ねえ、知ってる?
この街の外れにある古いトンネル――
“指道(ゆびみち)”って呼ばれてる場所があってさ。
誰が最初にそう言い出したのかは、もう誰も覚えてない。
ただ、そこを夜に通ると……
「肩を叩かれる」って、昔から言われてるんだって。
しかも、三本の指で。
一回目は、「気をつけて」。
二回目は、「逃げて」。
そして三回目は……「もう、遅い」。
馬鹿馬鹿しい話だと思う。
でも、わたし――
その道を、通らなきゃいけないことになった。
ちょっと怖いけど、まあ大丈夫。
だって、それって……ただの噂でしょ?
最初の夜は、何も起きなかった。
通学の帰り道。
街灯の届かない、コンクリートのトンネル。
自転車を押しながら、わたしは中を歩いた。
少しだけ、空気が冷たい気がした。
でもそれだけだった。
何もいない。誰もいない。
肩なんて叩かれなかった。
噂なんて、やっぱり嘘。
そう思って、安心していた。
――二日目。
トンネルに入ると、空気が重くなった。
わたしの足音が、反響する。
その音に、もう一つ、重なる音がした。
「……カツ、カツ、カツ……」
振り返っても、誰もいない。
なのに、肩を――叩かれた。
指が、三本だった気がする。
すぐに走り出して、家まで戻った。
もう、気のせいって笑えなかった。
――三日目。
学校を早めに出て、まだ明るいうちにトンネルに向かった。
でも、入り口に着いた頃には、もう陽が落ちかけてた。
嫌な予感がする。
でも、通らなきゃ、帰れない。
トンネルに足を踏み入れた瞬間、
背筋がゾクッとした。
歩き出す。
後ろから、何かの気配がついてくる。
誰もいないのに――
今度は、「二回」叩かれた。
指の感触は、やっぱり三本だった。
でも今度は、それが「逃げろ」と言ってるように思えて――
わたしは、自転車を捨てて走った。
走っても、走っても、気配が消えなかった。
帰宅したあとも、肩がじんじん痛んでいた。
それから、夜になるたびに、わたしは“あの音”を聞くようになった。
「カツ、カツ、カツ……」
部屋の外から。
玄関の向こうから。
夢の中から。
あれは、三回目を待っている。
「三本指 トンネル 肩 叩かれる」
深夜、検索窓にそう打ち込んでみた。
似たような噂は出てくる。
でも、どれも違う。
あのトンネルのことは、どこにも載っていない。
わたしだけ、知らない世界に踏み込んでしまった気がした。
スマホの画面の奥から、何かがこっちを見ている気がして、
すぐに電源を切った。
「変な夢、見た」と言ってみたけど、
クラスメイトは笑って聞き流した。
「そういうの、好きそうだよねー」って。
違う。そういうのじゃない。
これは、本当に――起きてる。
トンネルに近づくだけで、指先が冷える。
見えない何かが、背中をなぞってくる。
通学路を変えようとしても、無理だった。
わたしの家から学校に行くには、あそこしか道がない。
それとも、学校を休む?
そんなこと、できるわけがなかった。
昼間のわたしと、夜のわたしが違う人間みたいに分かれていく。
授業が頭に入らない。
ノートに指の絵ばかり描いてしまう。
三本の、長い指。
肩に触れたときの、ぬめり。
手じゃない、何か。
もうすぐ、三回目が来る。
それが、何を意味してるのか――
知りたくなかった。
三日目の夜。
肩を三回、叩かれた。
その直後の記憶が、曖昧だ。
気づいたら、見知らぬ通りを歩いていた。
いつもの住宅街のはずなのに、街灯がまばらで、空気がぬるい。
汗ばんだ手のひらを握りしめて、わたしはふらふらと歩いた。
すると、ふと――目の前に現れた。
古びた木造の店。
赤黒く染まったのれん。
誰かがつけたのか、白墨で書かれた看板。
『都市伝説、買います。』
わけがわからなかった。
でも、足が勝手に動いた。
きぃ…と重い扉を押して、店に入る。
店内は薄暗くて、ふんわりと線香のような香りが漂っていた。
カウンターの奥に誰かが立っていた。
目に包帯を巻いた、黒い喪服の男。
その男は、わたしに視線を向けず、静かに言った。
「語ったね。……だから、来たんだ。」
男の声は、落ち着いていた。
包帯に覆われた右目をそらしたまま、わたしをじっと見ていた。
「ここは、“語られた噂”が集まる場所だよ」
「えっと……あの、わたし、何か間違えて――」
「三本の指、でしょ?」
わたしは言葉を失った。
「君がその話を“語った”瞬間、それは“噂”になった。
そして、噂は、形を持つ」
男は、カウンターの奥から小さな帳面を取り出した。
そこには、いくつもの名前と短い言葉が並んでいる。
「“指道”……三本の指で肩を叩かれるトンネル。
君が最初に話したわけじゃない。でも、“投稿した”。
それで十分だよ。噂は、誰かに語られた時点で生き始める」
「じゃあ……わたしのせいで……?」
男は静かに首を横に振った。
「違う。
“そうなると知ってて、語った”なら君の責任だけど、
そうじゃないなら、選べる。まだ」
「選ぶ……?」
「戻る?
それとも――置いてく?」
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
でも背後で、きぃ…ともう一枚の扉が開いた音がした。
そこから――何かが、入ってこようとしていた。
背後から、湿った風が吹いた。
振り返ったわたしの目に、真っ黒な影が映った。
トンネルの壁みたいなざらついた肌。
腕のようなものが、だらんとぶら下がっている。
その指は――三本だった。
ずる、ずる、と這うようにして、
それはカウンターの横から、にじり寄ってくる。
わたしの背中に、またあの感覚。
肩を――今、叩かれた。
久遠は静かに、包帯に手をかけた。
「“それ”は、君が語った“かたち”だ。
逃げることはできない。
でも、“支払えば”、引き取ることはできる」
包帯が解ける。
右目が――赤く、光った。
その瞬間、空気が震えた。
影が、ひゅうっ、と一歩引いた。
そのとき。
「ストーップ!」
店の奥の暖簾がめくれて、誰かが転がるように飛び出してきた。
小柄な少女。セーラー服。猫耳パーカー。
手に持った紙袋からは、ポテトチップスの匂い。
「久遠、それ、ちょっとやりすぎじゃん?
お客さん、まだ選んでないよ〜」
「……チカゲ」
「ていうか怖っ、三本指だってば!いや、ホントにいたんだ〜。新作?」
少女――チカゲは、黒い影の前にぴょんと立ちはだかり、
軽く手を振った。
その瞬間、何かの空気が“消えた”。
影も、音も、指も。
そこにあった怪異が、跡形もなく、霧散した。
チカゲはくるりと振り向いて、わたしにウインクを飛ばした。
「さてさて、ここからが本番だよー。
君が“何を置いていくか”――選んで?」
店の中に、静寂が戻った。
久遠は再び、包帯を右目に巻きながら、わたしの前に戻ってきた。
チカゲはカウンターの隅に腰かけて、ポテチをぼりぼり食べている。
わたしは何も言えなかった。
「怪異は、ただ消えたわけじゃない。
君が、“語った”以上、それはこの世界に“根”を張った。
だから、君の中の何かを引き換えに、“切り離す”ことができる」
久遠はそう言って、小さな木箱を机に置いた。
「中を見なくてもいい。
けれど、選ぶのは君だ。
“戻る”?
それとも――“置いてく”?」
わたしは、震える手で木箱に手を伸ばした。
蓋に触れる。
冷たい。
この箱に入っているのは、
わたしにとって“大切な何か”。
もしかしたら、思い出かもしれない。
声かもしれない。
大事にしてた誰かとの約束かもしれない。
でも、もう――戻りたい。
恐怖のない、あの何も知らなかった日常に。
わたしは、箱を開けた。
中は、空だった。
でも、何かが“抜けていった”気がした。
久遠は、ゆっくりと頷いた。
「取引、成立」
わたしが箱を開けたその瞬間、
何かが、音もなく吸い込まれるように消えていった。
影も、指も、気配も、空気の重みも。
それらすべてが、何事もなかったかのように――ただ、消えた。
それなのに、心の中には何かがぽっかりと空いた感覚があった。
胸の奥に空白が生まれて、そこに冷たい風が吹いているような、そんな感じ。
久遠は、静かに告げた。
「これで、君の“噂”は、回収された。
もう追われることはない。
……ただし、代償は確かに支払われた」
わたしは、口を開いた。
何かを言おうとした。
けれど、声が出なかった。
喉が詰まっているわけでもない。
痛くもかゆくもない。
ただ――言葉が出てこない。
久遠は目を伏せたまま、ゆっくりと頭を下げた。
「“語る力”を、君は置いていった。
もう、噂を伝えることはできない。
怖い話も、誰かと笑い合うことも――」
そのとき、チカゲがくるりと回ってわたしの肩をぽんと叩いた。
「ま、いっか。
怖い思いはもうおしまいだし。
元気でねー!」
わたしは微かに笑って、うなずいた。
言葉にならないその感情を、胸に抱えたまま。
夢語堂の扉を開けた瞬間、
外の空気が現実に戻っていた。
―空は明けかけていて、鳥の声が遠くで聞こえた。
わたしはゆっくりと歩き出した。
もう、トンネルは通らなくていい。
だけど、心のどこかで、
あの黒い影がまだ自分の背中を見ている気がして――
わたしは、一度も振り返らずに帰った。
次の日から、何も起きなかった。
夜道を歩いても、あの音はしない。
肩を叩かれることも、夢を見ることも。
わたしは、まるで何事もなかったかのように学校へ行き、
授業を受け、友達と話して――
……話して?
違う。話してない。
みんなの言葉は聞こえるのに、
わたしの声だけが、うまく届かない。
何を言っても、反応が返ってこない。
友達は笑っているけど、
わたしが何を言ったのか、誰も覚えていないみたいだった。
でも、それでもいいと思った。
あの影が、もういないなら。
“誰かに話す”ことはできなくなったけれど、
“あの夜”のことは、わたしの中にちゃんと残ってる。
それで、十分だった。
「……ふーん、声を置いてったんだね。
あの子、何を語りたかったのかな」
夢語堂の奥で、チカゲがぼそりとつぶやいた。
まだポテチを食べながら、テレビもないのに店の奥を眺めている。
「都市伝説ってさ、誰かに聞いてもらえないと意味ないのにね。
でも、“語れない”って、一番安全なのかも」
久遠は包帯の上から目を閉じるようにして、
静かに答えた。
「……語られなくなった噂は、消えていく。
けれど、語った記憶は――ずっと、残る」
チカゲがくすっと笑う。
「そうだね。
ねえ久遠、次はどんな“話”が来るかな」
久遠は、誰もいない扉の先を見つめながら言った。
「誰が語ったかで、噂の形は変わる。
次はどんな“かたち”になるのか……それを、見るのが僕たちの役目だ。」
夢語堂の扉が、カラリと鳴った。
新たな語り手の“噂”を連れて――
―了―
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