参壱ノ舞

――そうだ……焦るな。惑わされるな。忘れるな。そして、信じろ、自分を……

 自分を信じることができなければ、力など発揮できない。信じられないなら、勝利を手にして証明すればいい。棋士になるためには、棋士として生きていくために、自らの存在を証明するためには勝ち続けていかねばならないのだ。俺は呼吸を整え、盤上に意識を向ける。

 互いが互いの駒が並ぶタイミングを待ち初型に並べ、眼前の田村五級を見る。眼鏡の奥にはまるで青白く燃える、冷徹な瞳が鈍く光っている。先ほどまでの俺だったら、この青白く燃える炎で凍るように焼かれていたに違いない。けん滴を思い出した今の俺は、なんとか冷静さを取り戻しなんとかこの青白い炎に耐えることができていた。

「「お願いします」」

 互いに頭を下げ、俺は初手に取りかかる。

 ――自分を……飛車を信じろ、今までやってきたことを無駄にしてしまうような将棋は指すな……

 俺は飛車を手に6八飛車と指す。俺が知る限り、初手6八飛車は公式棋戦では20例に満たない手である。が、俺は今一度自分が振り飛車、四間飛車の使い手であることを自覚するために敢えてこの手を指した。

 奇手のつもりはなかった、奇襲のつもりもなかった。6八飛車を見た、田村五級の表情は能面のように崩れることはなかったが、眼鏡の山を人差し指と中指の二本でおしあげると、飛車先を伸ばす。

 俺は次手迷わず角道を開き、後は流れのままに角を互いに交換し、駒台に角が載る。

 角は核にちなんで角ミサイルと呼ばれたり、成ると馬になることから愛称としてUMAと呼ばれるなど、飛車と双璧を成す恐るべき攻撃力をもった駒だ。その角が駒台に載るということは、自由に角ミサイルを盤上に配置できることになる。手数を費やして角を効果的な位置には配置するより、序盤で互いに角を駒台に載せ自由に角配置できる利便性を得る。基本的に角交換系戦法の原点はそこにある。

 かつて振り飛車にとって角交換とは真っ先に避けるべき選択と言われ、角交換振り飛車は一種異端であり力戦型の代名詞だった。何故ならば振り飛車は相手の動きを見て攻撃を行うカウンターが戦法のコンセプトであるため、角を駒台にのせて積極的に戦略を練り攻撃を仕掛ける角交換の思想とは相反するものだったからだ。

 しかし、そんな常識を覆したのが、ミカドを殺した男、生還者、そして序盤の魔術師と呼ばれた鬼才石原零志である。石原九段によって開発された四間飛車戦法であるゼロシステムはカウンターではなく、こちらから撃ってでる新感覚の振り飛車戦法だった。以後、ゴキゲン中飛車など攻撃的振り飛車戦法が生まれる土壌を作り、石原包囲網によってゼロシステムが攻略された後、石原九段は新たに攻撃的四間飛車であるアマチュア戦法だった角交換四間飛車を研究し定跡化し、一度は失墜したが序列A級に返り咲く原動力となる渾身の戦法となった。

 互いが角を保持し、自在に角を配置できる。自陣、相手陣に隙あらば打ち込む。互いに必殺の一撃を持つのがこの角交換の核だ。いうならば、その核をいつ使うか戦略と同時に相手の戦略を読み、状況によっては受ける技術が必須。一撃で戦局を代えることができるので角ミサイルと呼ばれるのも頷ける話だ。そのため角交系は短手数で決着がつくことが多い。

 俺は盤上の全ての駒の動きの一挙一動に神経を張り巡らせる。いつこちらが撃ってでるか、それともいつ撃ち込まれるか、視線を盤上に脳内にいくつもの局面を予測思考し、五感を駆使して相手の些細な動きからも思考を読み取るため、集中のギアを一速、二速とアップしていく。

 徐々に連続集中状態、フローに入っていく感覚にノイズが走る。

 ――なんだ? この感覚。

一手指す、指される度に何とも言えない奇妙な感覚に包まれる。違和というのだろうか? 判別がつかない曖昧な感覚が俺の思考にわずかなノイズを走らせる。

田村5級は金銀縦に並んだ居飛車の角交換型の囲いに組み、こちらは美濃囲いで戦型を整える。互いの陣容が整った状況下で感じる違和感。なんだろう、俺の気持ちがブレている。

――俺が冷静でないだと?

いや、そんなことはない、前局に比べれば遥かに手は読めているそれに、俺の心臓の鼓動は一定を保てている。しかし……だ。

俺は視線を上げ田村5級を見る。相手も俺の視線に気が付き交差する。対局前に見たあの青く燃える炎、しかし、何だろうか? 俺の体温が、放出した闘気が吸い取られていく。

――そうか……

この違和感がわかったような気がした。対面に座る対局者の闘きを感じない。と、いうよりこちらの闘きを受け流している。田村5級の浮世離れしたこの奇妙な感覚の原泉が微かにわかった。

 伏見が食われた理由がわかり、胸のわだかまるものが溶けていく感じがした。田村5級は対局相手と戦っているのではなく、純粋に盤上の局面とだけ戦っているのだ。ある意味で対局者との対話が行われていないわけだ。盤の前の対局者には興味がない、という訳ではないが指された駒に指し手の意志を感じていないという印象を受ける。

 意志の籠もった駒は緊迫した局面になればなるほど、駒にその指し手の意志、魂が宿る。その意志は様々なものだ。負けたくないという闘志、勝利を確信した際に放たれる傲慢、自らの指し筋の決断を疑う欺瞞……それら駒の意志を読み取り、それに沿った対応や対策をとるのだが、どうやらそういう指し方はしていない。そして、盤上の駒からは田村5級の意志を感じない。

伏見は大人しく見えるが、事将棋に対しては異常なほど勝利にこだわる面があり負けん気が強い部分がモロに出ている。対局者が強ければ強いほど笑みが浮かぶタイプであり、強者に打ち勝つことに喜びを感じる戦闘的な指し手だ。俺も勿論、相手に勝利した際の喜びはあれども伏見ほど戦闘民族的な喜びは薄い。だからだろう、伏見はおそらく燃えなかったに違いない。ただ、局面に合わせて駒を動かしていただけなのかもしれない。後日、対局の感想は聞きたい。が、今は目の前の相手だ。

心理的な駆け引き、例えば妙手を指して迷いや動揺を誘ったり、ノータイムで指して心理的圧迫を与えるなどの手が通じるか未知数だ。

 田村5級の一手一手は攻撃的な指し回しだ。しかも俺の印象では博打的な要素を含んでいる手に思える。これらの手は田村5級の外見とは全く正反対の棋風に思える。しかし、局面をよくよく考えると危ういながらも均衡がとれていて隙がない。全体に繋がりがあり、よく練り込まれた指し回しだが、一つ間違えると崩壊する。

 普通の指し手感覚ではどのような手であっても保険を賭け、戦術に幅をもたせ一気に破綻しないよう、ゆとりを持たせる指し回しが普通、と、いうかそれが人間の指し方だ。

 ――これは……?

 見たことがない手というわけじゃない。この手は、そうだワイズマンの手筋に似ている。

 ワイズマンは世界コンピューター将棋選手権で四連覇し、現在最強とされるソフトだ。三年前のバージョンがフリーで配布されており、動作は不安定だが、十分研究に耐えうる性能を有していると伏見が言っていた。

 ワイズマンは非常に危うい手を選んで指してくる。指し筋にゆとりがなく最善でありながら、まるでトランプタワーのように繊細な駒組みをする。無尽蔵なエネルギーをもつコンピュータでしかできない指し回しだ。序盤から終盤まで真剣の上を素足で歩くような繊細さと精神力が必要になってくる。田村5級は、それに近いことをやってのけている。

 おそらく何千ではすまない練習将棋を行っているはずだ。でなければ、こういう……そうだ、このような血の通わないような熱の低い手は指すことができない。おそらく、将棋を効率よく指すという極限を突き詰めれば、田村五級のような棋風になるのだろうか?

 無味無臭、田村五級は効率を重視した無駄のない洗練された手を指す。翻って俺はどうだ? 戦法こそ振り飛車と主流派ではないが、将棋に向かい合う姿勢は過去の戦術をなぞり、先人たちの戦略を学び、自分の戦略眼と戦局を判断する大局観を養ってきた。従来から続く既存の方法を重視し革新的なことは邪道として避け、基本を忠実にやって来た。煌びやかな言葉でいうと伝統墨守、穿った見方をすれば保守主義、前例主義、マニュアル主義といえる。既存の方法を変革し新たなスタンダードの一つを形成する革新的なアプローチを試みている田村五級とは正反対だ。

 ――自らの中にワイズマンの思考回路を構築したっていうのかよ?

 相手の指し回しにゆとりはない。が、そのゆとりのなさは無駄がないとも言える。そのため、駒組みの足が早く、相手が一手、二手、下手をしたら4手ほど早い展開だ。

 こういう指し回しに、こちらの闘志が肩透かしを喰らうことでリズムが崩れ調律がとれなくなる。これが田村5級の独特の世界というのか、一種の結界なのだろう。結果的に単に自分のスタイルで指すことで、相手を撹乱というよりか、疑心暗鬼に陥らせ撹乱することができる。それはそうだ、盤面の向こうに対局者が座っているか、疑いを感じる時点で既に相手に飲まれているのだ。単にコンピュータ将棋をコピーしているだけではなく、独特の棋風を兼ね備えている。

 中盤に差し掛かり、鍔迫り合いが始まる。互いの角ミサイルを恐れる状況が続く、撃つぞ、撃つぞと俺も揺さぶりをかけるが、田村5級はすでに想定済みで俺の威嚇に反応をみせない。

 ――相手に飲まれているぞ……

 俺は残り時間を確認して、貴重な時間を消費して自分の意識を変えることにした。

 相手が見えないから、闘気が散漫し、手筋もブレる。田村5級は自身を電脳戦士だと自覚することで気配を消し、こちらを幻惑させている。敵を見定めろ。

 俺は瞳を閉じ、意識を集中する。

 ――相手の気を感じろ。俺には常に敵がいた、だから感じとれるはずだ…… 

 俺は閉じた目を開く。全身の感覚を目の前に座る男の全てを感じ取るために研ぎ澄ます。白い靄のような影が俺の脳内盤の前に立ち込める。そして、俺の背後には黒い影が、そして俺の中で音をたてず炎が揺らめいた。

 ――三つの敵か!

 俺の敵は三人、目の前の田村五級、伏見、そして俺自身だ。

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