参拾ノ舞
「貴殿はこの字が読めるか?」
お師さんは、使い込まれた扇子を広げ、俺に見せた。勢いのある書で漢字が二文字。ひとつ目の漢字は三水に口、月と書されており見たことがない漢字だった。二文字目は滴という漢字だ。揮毫者の名は記されていなかった。
「しずくは読めますが、もうひとつはわかりません」
「ふむ、最近では常用されるような言葉ではないな、時代小説が好きという貴殿なら知っているかと思ったのだが」
俺の唯一の趣味と言っていいだろう読書ではあるが、たまたま家に中国の司馬遷を捩った有名な歴史小説家、剣豪作家として有名な作家の全集が置いてあったので、将棋でヒートアップした頭を抑えるために読んでいる内に好きになった。
疑問点は、母親はどちらかと言えば社会派ミステリーを好んで読んでおり時代小説は読まなかった。では、あの蔵書は誰のものなのか? 母は毎日必ずその蔵書の入った本棚を掃除をしており、俺が手に読みはじめた時はなんとも感慨深い顔をしていた。未婚の母に確認はしていないが、もしかすると俺の父親のものではないかと邪推しているのだが……余談が過ぎた。
「何と、読むのでしょうか?」
「ふむ、『けんてき』と読む」
「けんてき?」
「意味は雨垂れ、水の滴という意味だ」
「水の滴」
「そう、涓滴岩を穿つという言葉聞いたことはないか?」
「いえ、うがつとは?」
「穿こう機、穴を開ける工作機械で穿孔機というのがある。その穿、あとは胃に穴があく傷病の胃穿孔の穿という漢字。意味は穴があくという意だ」
「滴が、岩に穴を開ける?」
「左様、僅かな水の滴であっても途切れることなく、岩に打ち続ければ、どんな頑強な岩であっても必ず穴があく。この意を汲み取れるか?」
「長い時間をかけるということですか」
「垂れる滴の力など、貴殿もしっているように肌を撫でるような微々たる力でしかない。しかし、同じ箇所に微力でも力を加えていけば穴があく。転じて継続した努力を重ねることで目標を達成するという意だ」
俺は話の真意を聞くために、お師さんの言葉を待つ。
「流行戦型や最新定跡を研究、習得、ソフト将棋による練習将棋がいまや主流の勉強法なのだろう。わたしが貴殿に課した旧態依然とした棋譜並べ、詰将棋など時代遅れの勉強と貴殿も感じているかもしれん」
お師さんのもとで修行する前よりする以前より、詰め将棋、棋譜並べが俺の基本的な勉強方法であった。ソフト将棋の隆盛で今や既存の価値観が見直される中、色々なアプローチの方法が検討されている。研究、勉強方法も然りだ。
「しかし、流行戦型や最新定跡は飽くまでも『今』の将棋でしかないのだ」
「今……」
「目先の勝利ではない、時代や流行、そして人に左右されない棋力を身に着けること、それが今の貴殿には一番必要なのだ。今、目の前の相手を倒すためだけに棋力を伸ばす方法では、上に行くことはできぬ。流行戦型や最新定跡などは結局は小手先の業、太刀ではなく脇差どまりだ」
確かにお師さん指導には最新定跡や流行戦型の類は一切なく、お師さんが実戦の中で熟成した指し回しの感覚、また指定した棋譜並べ、実戦対局が殆どだった。
「三年ほど前のことだ、小絵殿より息子が将棋好きなため、なにか強くなるための参考書はないかという問いがあった。思えばわたしと貴殿との縁はそこから始まっていたのだと思うと感慨深い……」
はじめて母に専門的な棋書をもらったのは全十八冊の将棋列伝だった。読めない漢字や解説は母に訳してもらい、毎日、目が血走るまで疲れはてて盤前で眠るまで並べ続けたことを思い出した。あの棋書を勧めたのはお師さんだったというのは、つい最近知ったことだ。
「何故にわたしが列伝を薦めたのか? その思いはだ……」と、お師さんは扇子を閉じて続けた。「かつての偉大なる先人たちの棋譜を並べることによって、何故その局面でその手を指したのかを同じように考え、そしてその筋の真意とどのような未来図を描いていたのかを知る。何度も棋譜を並べ、その指し手の声を聞く。その積み重ねにより、自らが困難な局面に陥った際、脱出の糸口を閃かせ、あるいは局面から未来を視る大局観を養う。と、いう狙いがあった」
お師さんは、俺の顔を見ると微笑んで言った。「人はとかく、効率的方法で最善の結果を得ようとする。人のサガだな……将棋では定跡といっていいかもしれん」
定跡、その戦局に置いて、どの駒を指せば最善手なのか? その最善手を研究し、手筋の集大成を言えばマニュアル化したものが定跡といえる。
「わたしは誰しもが軽視していることを貴殿に伝えたい。効率的方法と最善の結果を導き出した数々の結果……すなわち定跡の陰には、恐ろしく非効率で最悪の結果が繰り返えされ、その中で洗練された手順が定跡として整理されたことを忘れてはならない。貴殿の四間飛車であれ、角交換四間飛車であれ、先人が苦難を繰り返しその先に見出した希望なのだ。
そう、今現在定跡としてあるものは、先人たちが膨大な時間を費やし構築してきたものだ。そして棋士の役目は定跡の完全解明。すなわちその定跡を使えば、必ず勝利することができる手順を見出すこと。しかし、無数の定跡は未だ山麓だ」
今現在将棋の世界に置いて、完全解明された定跡はただ一つ、十四世名人松平蔵六が解明した先後同型角変わり銀定跡、通称松平定跡。序盤から終盤まで、先後最善手を指せば必ず先手が勝利するという完全定跡だ。
幾重にもある戦法のうち必勝必敗までの定跡を完全解明することが棋士、いや棋士たちの永遠の課題だ。無論それは、一代で叶うことなどない、悠久の時を賭けて次世代に繋げていく棋士の本当の責務。
「だから涓滴なのですか?」
「察しがよい。すべては積み重ね、努力を続けることにより道は開かれる。そして何よりも、貴殿も棋士を目指すのであるのならば、不毛地帯を切り開く、開拓者の精神をもたねばならん。不毛地帯で道を指し示す羅針盤は貴殿の中にしかない。その羅針盤は自身の中に強固に築いた将棋の基盤でしかない。すべては、不毛地帯を切り開くための土台、先人より学び自己の中でどのような風にも雨にも負けず道を指し示し続ける、羅針盤を構築すること。それはひたすら地道で継続した努力を続けなければならない」
「涓滴……」
雨のしずくが気の遠くなるような年月をかけて頑強な岩を削っていく。そのように努力を続け結果に繋げる。なんと難しい努力だろうか……。
「貴殿もきっと、これからの戦いの中で打ちのめされていくだろう。そんな時、必ず内なる甘言が貴殿を惑わせる。旧態依然とした手法を捨て、最新戦法、最新定跡を押さえるだけでいい、と。一時的には勝てるだろう、だが、場当たり的な方法で勝ち続ける事などできはしない。何故その定跡、その戦法が生まれてきたか、その経緯を類推することができなければ、そしてその定跡を進化させ切り開いていくための土台がなければ、ただのコピーで終わってしまう」
厳しい口調でお師さんは語る。
「わたしの弟子である以上、勝敗だけに価値を見出す棋士になって欲しくない。将棋の深淵にある核に一歩でも近付く気高い魂を持つ棋士となってもらいたい」
お師さんの目は、言い表せぬ熱と意志を持った光だった。しかし、恐れや重圧を感じない暖かな光に思えた。
「焦るな……焦れば思考が乱れ一時的な感情に流され事を仕損じる。惑わされるな……道を誤せる甘言、まやかしは邪道への道しるべだ。忘れるな……涓滴岩を穿つ、努力を続けることこそが最短と知れ。信じろ……貴殿はこのわたし、栗林杏樹が認めた、男だということを」
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