拾参ノ舞
「さぁ、召し上がるがよい」
板張りの茶の間でのお師さんと向かい合っての夕食。俺は座布団に座り、お膳に載せられた食事を見て思わず「おぉっ」と声を上げた。
枝豆のひじき煮、春雨の酢の物、ナスと揚げ出し豆腐、にゅうめん、そして玄米のごはんと香物のすぐき、デザートの杏仁豆腐。旅館で頂くようなメニューだ。
「お師さんがお作りになられたんですか?」
「疑っておるのか?」と、お師さんは言って、目をジトーっとして睨む。
「いえ、そんなことはないですが、凄いですね。旅館で出てくるごはんですよ。」
「んっ、そ、そうか?」と、お師さんは少し恥ずかしそうに言うと「……コホン」と咳ばらいをする。
――お師さんの癖がなんとなくわかってきたな。
見た目やイメージが先行しているが、意外にお茶目さんで子供っぽいところがある。外見は綺麗な人だが、中身は可愛らしい人なのは間違いない。
「実は久しぶりに包丁を握ってうまくできるか心配であったが、そうか、うん、そうか」
お師さんは何度も嬉しそうに頷いたあと「おかわりもある。遠慮なく申せ」と、続けた。
「はい」と、答え俺は手を合わせて合掌し「頂きます」と言い箸に手を伸ばす。
「成長期だ、たくさん食べるがよい」
少し味が薄目だが上品な味で箸が良く進んだ。
俺が料理について、「うまいうまい」と言って食べると、一つずつ『わたしは玄米を好いて食べておる、白米に比べ固い、よく噛んで食べるとよかろう』とか、『酢が大事でな。これを間違えると、ただ酸っぱくなって食べにくくなる』とか、『わたしが懇意にしている京の漬物だ。腸によい』と一言ずつコメントを入れてくれた。
俺はブイエスでエネルギーを消耗したこともあって、玄米を三杯、春雨の酢の物、揚げ出し豆腐を追加で頂いた。お師さんはニコニコと笑って気分が良さそうだった。
片付けは、お師さんと二人ですることにした。何もせず待つのは苦痛なので、せめて片づけに関しては手伝わせて欲しいと言うと、お師さんも咎めることはせず台所に通してくれた。お師さんが食器を洗い、俺がさらしで食器を拭くといった具合で一緒に片づけを終えた。
日も沈み始め、辺りは青紫の空気に染まっていく。
お師さんは蚊取り線香に火を灯すと、茶の間の縁側に座布団を敷き俺を座せた。
縁側の軒には日よけの簾が垂れており、その向こうの裏庭に畑が広がっていた。何を作っているのかは簾に邪魔されて見えなかったので、簾の下から覗こうとした。
「夏野菜を作っておる。今日膳に載ったナスもそこで作ったものだ」
「お師さんが?」
「いや、畑の面倒は池田がしてくれておる。私は水やりしかしとらんよ」
お師さんは盆に冷たい麦茶と水ようかんを用意してくれていた。
「和菓子は好きか?」
「はい、洋菓子よりも和菓子の方が好きです」
「ならばよかった。茶の菓子として出入りしてもらっている日本橋の業者の物だ。召し上がるとよかろう」
店にいる超甘党の菜々緒さんと、茶道を嗜む母から仕込まれたせいか、小さい頃から和菓子の方が食べ慣れていたこともあり、ケーキよりは饅頭という趣向になっている。
お師さんと一緒に水ようかんを頂く。薄茶色でまるで豆腐のような瑞々しさで、上品な味だった。
蚊取り線香の煙、時折聴こえる風鈴の音、微かに流れて頬を掠める風が何故か哀愁を感じさせる。
東京生まれで、親戚付き合いも皆無な俺は、田舎があるわけでもなく、こういう日本家屋に住んだこともない。なのに何故、こうも懐かしいという感覚を抱くのか、不思議だった。俺の中の日本人の遺伝子か何かがそう感じているのだろうか。
猛暑日だったというのに、茶の間は風通しがよくエアコンが必要でなかった。パタパタパタと扇子を開く音が聞こえた。お師さんは扇子を軽く扇ぐと、白檀の香りが鼻を掠めた。
大きな屋敷にお師さん以外の人の空気を感じない。日中は時折、執事の高石さんや池田さんの姿を見かけたが、この時間帯は裏の離れにいるようだ。
「お師さんは、いつも……家では一人ですか?」と、俺は口に出して聞いていた。
お師さんは、美しく、裕福な家柄の人だということはその立ち振る舞いや、住居や暮らし振りを見て、容易に想像できた。が、何故か寂しいという印象を拭えなかった。
「貴殿は……優しいな」と、ポツリお師さんは言った。
涼し気で透明感ある表情で笑っていたが、どこかその笑顔は、渇いた印象を受けた。
「両親も逝って、兄妹もおらん。いるのは長年わたしの家に仕えた高石と池田だけだ。色々複雑な立場にある。俗世のことは、なるべく忘れたいと思って生活しているとな……自然こんな生活を送ることになっていた」
色々理由があってのことと理解できた。しかし、それは寂しいことではないかと思った。そして同時にお師さんには、そういう思いをもって欲しくない、という感情が俺の中に生まれているのを自覚した。
あの茶室で将棋を指してから、お師さんに何か見えない繋がりを感じた。数多くの対局を重ね、壁であり、敵であり、そして同志であり、親友である伏見とは、また違う。
「お師さん……」と、俺は言葉が続かず、自分の中の感情を説明する言葉を持たなかった。
「よい……そのような顔をするでない」と、お師さんは俺の頭を撫でた。
「外に出れば、色々な顔がある。茶人としての宗杏の顔もあれば、女流棋士栗林杏樹の顔もある。そして、今は貴殿の師としての顔がある。こう見えて意外と忙しく、そして気楽なのだよ」
お師さんは少女のような顔で笑って見せた。それがどうにも美しいというよりは可愛い感じで、何とも言えない感覚が俺の胸中を染める。
「貴殿は寂しそうな女子を見ると、そうやって誑かすのか?」
「誑かす? そんな」と、俺は否定する。
「ふふ、将来が心配だな。このわたしを誑かそうとは、やり手だな。こう見えてもわたしは、数々の男の玉砕を見届けてきておるのだぞ」
「……」
確かに美しく、気高い女性だ。声を掛ける男など星の数ほどいるのは間違いない。
「だが、貴殿なら……」と、言って俺に顔を寄せ頬に手を寄せた。
俺の心臓が跳ねるように心臓の鼓動を刻む。ほんの数センチ先にお師さんの顔がある。脳は光速演算を開始し五感が全ての情報を得ようと鋭敏になる。
視覚は美しくきめ細かい肌の顔とたわわな体を、嗅覚は汗で湿ったローズの香りを、聴覚は優し気な息遣いを、触覚は触れる絹のような柔肌を、そして味覚は……
――味覚? 味覚はなんだ?
お師さんの桃色のような唇が視覚が捉える。
――味覚は、桃色の……桃色の……
俺の心臓は更にビートを刻み始める。全身の血液が沸騰するような、顔が火照る。
「ふふっ」と、お師さんの笑いで俺は一呼吸入れることができた。「顔が真っ赤だぞ」
「……はい」と、こちこちになった筋肉を動かして俺は返事した。
「あまり大人の女を揶揄うでないぞ、子供とは言え、本気にしてまうではないか」
お師さんは俺の頬をもう一度撫でると、言った。
「女性には言葉と態度に気をつけろ。でなければ、誤解をうける。貴殿の場合は数多くの女性を誑かすジゴロになりかねん。将来が心配だ」
「ジゴロってなんですか?」と、俺は聞いたことのない言葉の意味を問う。
「女を誑かして、女に貢がせる男の総称だ。お前のようにな」
「えっ?」
「さぁ、冗談は仕舞だジャスト・ア・ジゴロよ。風呂の用意ができておる頃だ。入って参れ」
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