拾弐ノ舞

「よくきた、修身殿」

「この度は、私のためにご配慮いただき、ありがとうございます」

 三度目となる表座敷に座り俺は、師となった栗林杏樹女流六段に頭を下げ挨拶した。

「修身殿、表を上げよ」

「はい」

 午前十時を回り徐々に気温が上昇してきた。流石にこの暑さのためか、先生の着物も麻素材の薄い生地、水色の色彩が清涼感を抱かせた。

「そう畏まるでない。慇懃無礼と言ってな、余り丁寧にしすぎるとかえって失礼になる。寂しい限りだ」

「はい、先生」

「……コホン」と、咳ばらいをする先生の視線が冷たい。俺は何かマズいことをしたのだろうか? 「良いか、小絵殿と貴殿と前回話したように、我々はもはや師と弟子の関係だ」

 元々、先生の師、児玉巌九段に弟子入りの話を取りもつ予定だったが、児玉九段が病床に臥せっていること、マンツーマンの指導を行った方が棋力が伸びるだろうという判断で、先生が直接面倒を見ようという提案で、俺は栗林女流六段の弟子に正式に入った。

 女流棋士は独立した規定で運営されている部分もあるため、日本将棋院の準会員としての地位が長く、権限が制限されていた時期があった。が、近年女流四段以上及びタイトル保持経験者は正会員となり、正会員同様の権利が与えられ、その一部として奨励会入会推薦、つまり弟子を取ることが可能になった。

 しかし、女流棋士が女流棋士を弟子に持つという事例はあったものの、女流棋士が奨励会に推薦する弟子を持った事例は今のところない。

「修身殿、将棋界における師弟の心得を申してみよ」と、先生は少し棘のある言い方で俺に告げた。

 母は見知った茶道の先生が、俺の師になってくれることに安心していた。棋界の師弟についての心得を聞いても、先生なら問題なしと全面的にお願いすることになった。が、今時、こんな心得など死に体だと思っていた。今度、伏見に聞いてみよう。

「心得、申してみよ」と、逡巡した俺に再度先生は声を掛ける。

「はい、棋界における師弟関係は親子そのもの」

「左様、棋界に足を踏み入れた貴殿の棋界の親は、この私、栗林杏樹なのだ。よろしいな」

「はい、先生」

「……コホン」と、先生はまたわざとらしく咳ばらいをする。

「先生?」と、何かに引っかかっている先生に問いかける。

「貴殿は理解しておらん、私は貴殿の何だ」

 怖くはないが、異様にプリプリしている感がある。

「師であります」

「棋界での師は親そのものだ」と、ジトーっとした目で俺を睨んでくる。

 俺はその先生の言葉に押し倒されるかのようにして言った。「……母さん、ですか?」

「んっ……」先生は顔を背けブルブル震えた。段々顔が真っ赤になってきた。「いや、いくら何でも、それは……」

「母様」

「んっ、んんぅっ……」と、息を堪えて必死に真っ赤な顔を背ける。「いかんいかん、棋界の母とは言えな。貴殿のわたしを母と呼びたい気持ち、重々承知だ……うんうん、しかしな、やはり実母ではない……はてさて」

 ――いや、言えって圧掛けたの、先生の方じゃ……

 と、突っ込みたかったが何か悶えている先生はとても可愛らしい乙女のようだった。俺は黙ってクネクネしている先生を眺めた。

「えー、どう呼べばよろしいですか? 母さん」

「くぅぅ、ふぅう」先生が、激しい息づかいをする。

 ――面白い、先生だな。

 大和撫子を体現するこの先生が、こういう可愛らしい反応するとは思わなかった。

「いや、やはりそれはイカン、いかんぞ修身殿」

 先生は手拭いを帯から出すと顔を抑えて、呼吸を整えていた。もう一度母さんと呼ぼうかと考えたが、窒息死しそうだったので、俺は控えた。

「一寸待て、些か待て、しばし待て」と、耳まで真っ赤になった先生が言う。

 荒い息が段々収まり先生は言った。「さすがに母さんはマズいであろう」

 ――いや、だから、先生が言えって遠回しに言ったでしょう。

 と、言いたかったが、言ったら相当ややこしいことになるということは、容易に想像できた。

「では、どう呼べばよろしいですか? 先生では駄目ですか?」

「先生はな、個人的には茶人の宗杏の時にそう呼ばれておる。先生と呼ばれると茶道を教えなくてはならないと勘違いする」

「杏樹さん、ですか」

「くっ、んふんぅっ……」また杏樹さんは息を堪えて、必死に真っ赤な顔を背ける。

「い、いかん、いかん、距離が近すぎる」

「師匠、ですか?」

「いかにもすぎてな。畏まりすぎだ」

「じゃぁ……マスター?」

「バーの主人のようだな」

 ――意外にこだわる人なんだな……

 へそを曲げると厄介な感じがプンプンする。中々バランスが難しい曲者と見た。そういう意味では俺の母と同じ系統の人間に違いない。

「んー」さすがに、ネタがなくなってきた。「……お師さんでいかがですか」

「ふむ……お師さん……お師さん、お師さんか……」と、呟くように言ってお師さんは目を閉じ考え込んだ後言った。「もう一度呼んでみせよ」

「お師さん」

「……ふむ、程よい気安さと厳かな感じを混ざっており、良い」先生は口角を上げて上機嫌だ。「では、これからわたしのことはお師さんと呼びなさい」

「はい、お師さん」

 今日から奨励会入会試験日の間、約一か月、お師さんの家に住み込みで修行をすることとなった。奨励会の試験に備えてという面もあるが、現役の棋士、特に同じ振り飛車党の指導を受けれることは本当に貴重な経験になる。

 俺の日常だった銀座の生活から離れ、生活環境が変わることに不安もあったが、新しい世界が広がる期待感に胸膨らんだ。

 お師さんとの挨拶が終わると、屋敷の案内を受けた。本館は平屋で表座敷、奥座敷、納戸が二室、茶の間、寝室、書斎があり相当の広さだった。茶の間に隣接した台所にはかまどが残っており、まるで郷士資料館かと思うような古い屋敷だった。

 屋敷とは別に離れがあり、そこに執事の石高さんか、池田さんのどちらかが交代で一日詰めており二十四時間待機している。日中には家政婦がきて家事を代行する。

 俺は寝室を居室として借りることができた。部屋には文机と、将棋盤、駒、俺の荷物以外何もなかった。そういえば屋敷の中を見ても電化製品の類が殆どなく、居間に今では見なくなったCDステレオがあるくらいだった。

 ――こりゃぁ、将棋漬けの日々だな。

 荷物は鞄一つ、着替え、将棋用の研究ノートと夏休みの宿題。集中して将棋と向き合える環境だ。納戸に将棋の書籍が山ほど並んでいたので、それを自由研究に使ってもよいとのことだったので楽しみだ。

 お師さんと確認した一日のスケジュールは、朝五時起床、軽い運動、湯浴み、瞑想、詰将棋、朝食、棋譜並べ、昼食をはさんで、お師さんがいるときはブイエス、不在時はお師さんからの宿題と自由研究、夕食、入浴、勉強及び自由時間、九時就寝となっていた。

 今とそんなに変わらない生活リズムなので苦ではないが、まぁ一日将棋詰めだ。

「修身殿、準備はよろしいか?」と、部屋の外からお師さんの声が聞こえてきた。

「はい」俺は、研究ノートの筆箱を持つと返事をした。

「よしならば、奥座敷でVSを行う」


 お師さんと先手後手を入れ替えての平手対局、もちろん二回ともフルボッコにされ感想戦。将棋の珍しい点として、対局後初手から投了まで対局者同士で振り返りを行い、色々な意見交換を行う。感想戦を行うことで、色々な選択や戦局があったことを振り返り、次局にフィードバックしていく。

 途中、初日ということで豪勢にいこうと注文して食べた出前のうな重が唯一の慰めだった。

「振り飛車の指し回し、よく研究している。角交換四間飛車とはな……確か小学名人戦で使った戦法だな」と、お師さんは何か、感じるものがあるのかウンウンと頷きながら言った。

「先手番は基本四間飛車です。角交換四間飛車は後手番でも使います」

「他には?」

「角交換つながりでダイレクト迎え飛車、後は三間飛車の新石田流を先手番では使います」

「ふむ、後手番ではゴキゲン中飛車を使っていたな」

「えぇ後手番はゴキゲン中飛車と角交換四間飛車がメインです」

「なるほど……振り飛車……四間飛車か」

 お師さんは、口角を上げて何か嬉しそうだ。やはり同じ振り飛車使いだから嬉しいのだろうか。基本的にプロの世界では振り飛車使い……振り飛車党は圧倒的に数が少ない。居飛車、振り飛車ともに使うオールラウンダーもいるが、やはり主流は居飛車だ。

 何故プロで振り飛車の採用率が低いのか所説ある。単純な理由としては居飛車と比較して勝率が悪いからである。何故勝率が悪いかと言えば、振り飛車使いが少数派であるが故に戦法研究が居飛車に比べ遅く差が開くという点。加えて少数派であるが故に大多数の居飛車が振り飛車対抗策を次々と生み出されるという点。

 と、いうのが大きい理由と言われている。単純に飛車を振ることで一手損になっているという、純粋な手得という点で好まない棋士も多い。

 しかし、振り飛車はカウンターを狙うという戦術的な面白さもあることで、アマチュアでは人気の戦法だ。俺自身、振り飛車のカウンターや捌きという柳のような指し回しに美しさを感じて使っているだけの話だ。勝率云々、振り飛車が好きか嫌いかの違いだ。

「しかし、中盤での駒の駆け引きが足軽の将棋になっておる。意識して将の指し回しを目指すべきだ」

「足軽?」

「左様、将の指し回しを心掛けよ」

「将の差し回し……」俺は今一つピンと来なかった。

「足軽と将の差を申してみよ」

「足軽は前線に出て戦います。将は後方にて足軽を指揮します」

「足軽は目の前の敵を排除することが最優先だ。しかし将は異なる。よく聞くであろう? 大局観だ」

 大局観、全体を観るという意味だが。盤全体だけでなく、局面を見定めるということか。確かに、中盤になるとどうしても最前線ばかり考えることが多くなる。そこを指摘されているのは理解できた。全く気が付かなかった点だ。将と足軽の将棋、理解できる。

「特に中盤は眼前の課題ばかりに目が行きがちになっている。で、あるから序盤でリードをとっても、中盤でリードを挽回され、終盤で切羽詰まった戦いになる。この三局いずれともその傾向だ」

「はい、意識して指してみます」

「加えて、駒の動きがまだまだ硬い」

「硬い?」

「振り飛車をよく勉強しているが、駒の捌きが硬い。今以上に柔軟に各駒の効率制を大局の中に取り入れろ、さすればもっと攻めにキレが出てくる。わたしの大駒捌きを貴殿に伝承しよう」

「はい、お師さんの捌きを教えていただけるのは光栄です」

「ん? う、うむ……コホン」と、お師さんは恥ずかしそうに咳払いした。「ふむ、しかし、今日の対局でも思ったが、終盤で追い上げる力は光るものがある。貴殿はどう考えている?」

「寄せは多少、自信があります」

 寄せとは、終盤で玉を追い詰めていく過程一連のことをいう。玉の首を確実に獲る手順にある即詰の状態で、追い込みを掛けることを『詰めろ』と言うが、これも寄せの一つだ。

 今は江戸の時代の詰将棋に苦戦しているが、基本的に詰将棋はそれこそ毎日、暇さえあれば取り組んでいる。退屈な学校では授業そっちのけで、一日中考えているくらいで自信はある。

「なるほど……初戦の最後のと金から始まる詰めろの十九手を、あの短時間で読むくらいだ。終盤力は貴殿の自慢の刀となろう。しかし、貴殿はもう一本、刀を腰に差しておる」

「もう一本?」

「終盤力、寄せの強さと同様、受けが優れている。初の手合の際、わたしの詰めろを受けきった。まるでイージスシステムのようにな」

「イージスシステム?」と、俺は聞き返した。

「ふむ、わたしも詳細は知らんが……米海軍や海上自衛隊の艦艇に装備されている防衛システムだ。敵の攻撃ミサイルや攻撃機をレーダー、センサーで瞬時に識別、脅威度応じて自動で迎撃する」

 なるほど、攻め駒を攻めよの格言がよく当てはまる。

「貴殿の攻め駒を攻めるあの受けが、イージスシステムに似ていると思ってな。イージスシステムは神話時代の戦いの女神、アテーナ―が手にしたアイギスの盾にあやかって名をつけられている。そういう意味では、刀ではなく盾となるか」

「あの時は『受け駒を攻められるな、攻め駒を攻めよ』と、言葉が走りました」

 あの時、ふと脳に走った言葉がなければ、突破口を開く受けは閃かなかったはずだ。

「十五世名人・西郷雪斎の言葉か……なるほど、確かに十五世名人の『西郷建設』を彷彿させる受けだった」

 現代将棋史上、受けに特化した二人の名人の名前を出され俺は恐縮した。いくら何でも言い過ぎだ。

 いわゆる『受け』とは簡単に言えば、相手の攻撃を受け続け相手の攻めの手段を切らしていく。一例を上げれば、詰めろを掛け、相手は手駒を使い玉を詰ましにくるが、こちらも手駒を効率よく使い防御する。やがて相手の駒も手段も尽きた時、こちらの駒台には逆に相手の駒を吸収した潤沢な駒があり、一気に逆襲する、と言うのが、一般的な『受け』将棋だ。

 しかし俺はカウンターを狙う『攻め』の棋風で『受け』の棋風ではない。

「自分は受けの棋風でないのですが?」

「意識していない力といえる、小絵殿に進めた将棋列伝の棋譜を並べていたと聞く」

「はい二年くらいは列伝の棋譜並べを徹底して並べました」

「うむ、列伝ベースは少し定跡が古いものの、居飛車、振り飛車問わずしっかりとした軸ができる。無論西郷十五世名人の棋譜はならべたのだろう?」

「はい、西郷先生は振り飛車でしたので……」

「その棋譜並べの成果が受けにしっかりと出ている。受けはセンスも必要だが、どう受けるかという基本を知る必要がある。一層、使いこなせるよう修練を積むのがよかろう」

「棋風を変えるんですか?」

 将棋の指し方の特徴となる棋風を変更するのは、性格も関係してくるので、なかなか骨が折れると聞くが、お師さんはどのように考えているのか。

「いや、棋風を変える必要はない。振り飛車の基本であるカウンターと攻めの棋風は貴殿のメイン。あくまで『受け』はもう一つの武器……否、盾だ。全ての邪悪を払うアイギスの盾のようにな。役立つ練習法を用意しておく」

「わかりました。よろしくお願いします」

 刀と盾。攻防を補強するというのなら、納得できる修練だ。

「しかしあの局面を受けきるとは大したものだ。わたしの攻めも貴殿の受けによって読み間違えるほどにな」

 確かに、△9四角を見た後のお師さんの▲7一龍は余り手筋としてよくなかった。俺の受けがお師さんの読みを惑わせた結果の手だったわけだ。

「あれは、自分の力ではなかったような気がします。それこそ、奇跡と思います」

 そう、あの時のあの力は異様なものだった。自分の能力を遥かに超えたイレギュラーな出来事だったと思う。

「……奇跡というか?」

「はい、起こりえぬ不明確なものですから、それに縋る、望む自分ではいたくありません」

「殊勝なことを言うな。わたしはな……もっと単純に考えている。人は奇跡を起こすことができる。しかし、その奇跡も、奇跡を起こす触媒がなければ起きん。地力があってこそ奇跡を引き寄せることができると確信している。貴殿が努めなければならぬことは、日々の精進によって、あの奇跡的な力を常時発揮できるよう鍛錬することにある」

「確かに、そう思います」

「それにあれは……」と、お師さんは言葉をとめて、俺を見た。何かを語ろうと口を開いたが、頭を振ると言った。「まぁよい、今日はこれで終いだ、もう時間も時間だ。夕食の用意をする故、しばし休憩をとるがよい」

 すでに時刻は4時を回っていた。夕食の用意ということはお師さんが作るのだろうか。執事がいて、家政婦さんを雇うようなゆとりのある暮らしというのに、意外なことだ。

「お師さん、僕も手伝います」

 やはり、居候状態なのだ、ここは俺の家事力を発揮せねばなるまい。

「ならんっ」と、お師さんは甲高い声を出す。

「いや、お邪魔させているので、お手……」

「ならぬ。夕食は母の手料理でと聞いておる」と、腕を組んでお師さんはツンとムキになって言う。

「あの、誰にですか?」

 俺は嫌な予感がした。

「小絵殿に、母の心得はしっかりと聞いておる。貴殿は高鼾で待っているがよい」

「えっ……」

 ――母さん、とんでもないこと言ったんじゃないだろな。

 俺は嫌な予感にブルっと身を震わせた。

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