第6話

「時間だ」


 腕時計を確認した男が手で合図する。女が倒れている方の男に肩を貸した。「ロン、ロンを喫わせてくれ」と負傷した男は自分の胸ポケットから煙草を出すようせがむが、女はそれを無視する。銃口を向けて警戒したまま部屋を出ていこうとした。


「待ちやがれッ――」


 追ってかかろうとする蘭子を銃撃が制止させた。蘭子は咄嗟に撃たれた腹部を庇う。先ほどの飽和攻撃とは違い、発砲は最低限に留めていた。

 膝をついた蘭子の前から彼らは迅速に姿を消していった。


「まんまと逃げられたわね」


 上体を起こした律世が安堵と悔しさを半々に滲ませて言う。


「結局、奴らは何だったんだ」

「そんなことより、今は黒川さんのところに行ってあげて」

「言われなくても――」

「その前に」


 手招きされて蘭子は近くに寄った。こっちも肩を借りたいのかと思ったけど違うみたいだ。律世は自分の身体を見回すと、ドレープパンツに入れ込んでいた血に濡れていないブラウスの裾部分で蘭子の顔をごしごしと拭き取った。


「顔に血を付けたままよ。黒川さんを驚かせたいのかしら?」


 意図せぬ間に律世の顔が近づいていて、戸惑った蘭子はぶっきらぼうに顔を反らす。ついさっきまで合わさっていた彼女の唇に、少しだけ鼓動が早くなった。


「ありがとな」


 蘭子は、目を合わせるのが気まずくて、顔を逸らしたまま横目で律世に礼を言う。血を拭き取ろうとする律世の手はブルブルと震えていた。


「まっ、まったく、そ、そんなに意識しちゃって。初々しいわね」

「なっ、お前ぇに言われたかねぇよ!」

「はっきり言っていいのよ。もう一度、そ、その……あ、っと……」床を縫って宙に向けられた視線が三百光年先を彷徨う。「キ、キス、いえ、接吻? く、口づけを、したい……って」

「したかねぇよ! さっきだって好きでしたんじゃねぇ!」

「まあ。そんなに恥ずかしがっちゃって」

「恥ずかしがってねぇ!」


 顔を赤らめた二人は、互いに視線を動かしつつも絶対に合わせないまま、広がった血溜まりの上にいた。


「じー……じー――……じー――――…………」

「あら、黒川さん」

 身体を倒してドアの方を見る律世に合わせて、蘭子も背後を振り返る。そこには開け放たれたドアの縁に額を付けて、片目だけでこちらを覗き見る馨がいた。


「よ、よかった。怪我は無ぇか」

「気にしないで続けて。私が入れる空気じゃないようだから」

「誤解だ。そんなんじゃ――」

「そうよね。キスぐらい別に恥ずかしがるようなことじゃないわ。大人なら、むしろ見せつけるのが礼儀というものよ」


 フォローのつもりか、律世が付け加える。


「律世テメェ、ややこしくすンじゃねェ!」


 喜々としながらも真剣に凝視してくる馨は、高ぶりが抑えられないといった風に肩で呼吸していた。


「わくわくしてきたわ。級長が言っていた同衾? というのが今から見られるのかしら」

「あの野郎、変なこと教えやがって!」


 そういうわけで、明らかに異常な血だらけの凄惨な部屋の説明よりも先に、蘭子は馨の誤解を解くことに時間を割かなければならなかった。

 馨が電話(個人で所有しているなんて!)で呼んだ警察が到着する前に、律世と蘭子は黒川邸を後にした。不死身にした方とされた方。それが露呈することの危険性を考慮しての判断だった。

 血と弾痕でズタズタになった衣服を脱ぎ、間に合わせとして馨から衣服を借りた二人が帰路に着くころには、辺りにはすっかり夜の帳が下りていた。

 道中、蘭子は思わず笑ってしまう。

 家に帰る。そんなことで憂鬱になっている自分が心底可笑しかった。撃たれて、死んで、蘇ったのだ。今日の一日に比べたら、これ以上の恐怖なんて思いつかない。

 そして、心の底から安堵する。

 馨を救えて、本当によかった。

 夜風に冷めていく頭でそんなことを考えていると、律世が口を開いた。


「ともあれ、あなたもこちら側の人間よ。見た目には変わらなくても隠し通すには不便もあるでしょう。明日学校が終わったら私の事務所に来なさいな。色々と教えてあげるわ」


 有栖川宮御用地の方向へ横並びで歩く。律世が差し出したのは名刺だった。紙漉阿原探偵事務所。流麗な明朝体で書かれた文字の下に住所も書いてある。カフェー〈リャナンシー〉からそれほど遠くなかった。

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