2. 君の血は。


 

「え!?待って、あたし、心臓動いてないかも!?それに全身冷たいんだけど……もしかして死んでる!?」


青ざめた顔で動揺する青年は、思わず少女を振り返る。


「吸血鬼なんだから当たり前だろ。あと、『あたし』を今すぐやめろ。次使ったら喉元を掻き切る」


と、少女は低い声で脅しながらも、自分より背の高い青年の首元を掴む。一花が東城の襟元を掴んで脅す光景は中々見ないだろう。


 が、突如吸血鬼の身体に入ってしまった一花(東城)は、この初めての身体の感覚に、全く慣れなかった。当たり前だ。吸血鬼の感覚は人間のものよりはるかに鋭敏で、珈琲の匂いはもちろん、先ほど溢した液体や、なぜか喫茶店の椅子の古びた木の匂い、店の前を歩く人の足音まで聞き取れてしまう。


「な、なんかいろんな匂いが一気に混じってくるし、音がめっちゃ響くんだけど。何これ、酔いそう……」


 フラッとよろける青年を、少女は苛立ちの表情で支える。


「慣れろ、何か一つの匂いや音に集中すれば酔わない」


「そ、そんなこと言ったって……」


 一つの匂いに集中……?と、自分の身体を支える少女から、ふわりと良い香りがするのに気づく。混沌とした匂いの中で、一際甘美な匂い。それはその少女、いや、自分から漂っていた。


 え?あたし香水なんかつけてないし……


 いや、それは香水のような人工的な匂いではなく、もっと本能を刺激するような、甘い蜜のような香り。


 彼女の薄く柔らかい肌。そのすぐ下に流れる温かい血脈が、なぜかはっきりと手に取るようにわかる。


 ……美味しそう。


 急に、抗いがたい乾きと飢えを感じた。まるで何も食べていない獣のように、本能がドクン、と心臓を打ち、自然と涎が湧く。今すぐ彼女を捕らえて、その無防備な肌に牙を立てたい。温かくて濃密な血が欲しい。


 無意識にその細い肩を掴んで引き寄せていた。本能に任せて首筋に顔を寄せると、鋭利な牙が伸びるのを感じる———


 と、その瞬間、ふっと身を引いた少女の拳が目にも止まらぬ速さで飛んできた。全力の一撃で、顎下を殴られる。


「……っ」


それは普通なら、脳が揺れてぐらりと倒れるほどの衝撃だったが、そうはならなかった。突然のことに驚きはしたが、これといって痛くない。というか、今の本気で殴ったの?


「いっ……」


 不思議に思っていると、すぐに少女の呻く声が聞こえた。見ると彼女は顔を歪めて、思わず震える指を摩っている。「痛い」と言いたいらしい。当たり前でしょ。


「ちょっと!!あたしの指の骨折らないでよ!!」


 思わず叫ぶと、少女は全く理解が追いついていない様子で眉を寄せている。


「……い、痛い、のか?何だこれは……」

 

 それを見ながらも、どうしよう、本当にどうしようという焦りが募ってくる。今あたし、自分の血を吸おうとしてた?何今の、何も頭で考えられなかったし、もう無意識に噛もうとしてた。


 その事実に自分で動揺していると、ふと目の前にキラリと光るものが見えた。


「え?」


 少女が冷たくこちらを見上げながらも、いつの間にか鋭利な包丁を手にして顔の前に真っ直ぐ向けている。生身の拳が効かないとわかり、すぐに戦法を変えたようである。


「なっ……!」


思わず後退りする。ちょっとちょっと、何するつもり!?


「絶対に、噛むな。何があっても、絶対だ。僕は人に牙を立てない。もし噛んだら今までの努力が泡になる」


そう低く言いながらも、ジリジリと刃先を近づける少女の瞳は真剣で、たじろいでしまう。


「そ、そんなこと言われたって、だって美味しそうなんだもん!」


「そこに血液パックがあるだろう!飢える前にそれを飲め!!」


 と、東城(一花)は包丁の刃先で、倉庫の奥に積んである箱を指す。あの中に血液パックが……?


「え、これ飲むの!?やだよ、血飲むなんて!」


「今飲もうとしたろ!!」


「違う違う、それはなんかこう……血というより、なんか美味しそうで……」


言いながらも、自分の感じている感覚に戸惑ってしまう。っていうか、吸血鬼の本能ってこんなんなの!?


「さっさとそれを飲め」


そんな戸惑いとは反対に、尚も少女は脅すように距離を詰めてきて、トン、と自分の胸にその刃先が当たり、全身が緊張する。


 可愛い制服を着た女子高生だが、包丁を握る手に迷いがないのが恐ろしい。


「飲まないと刺す。動けなくなるまで何回でも刺す」


「ちょ、怖い怖い怖い!やめて、あたしの顔でそんなこと言わないで!?」


 そんな台詞、今までの人生で言ったことないし!そんな怖いあたしやだ!


 *


 とりあえず、東城は一花の言われる通りに、躊躇いながらも血液パックを飲んでみた。———いや、中身的には東城に言われる通りにする一花なので普段と変わりないが。


 自分が血を飲んでいるという感覚は到底すぐには受け付けられなかったが、確かに血の味はするが、別に気持ち悪くないし、むしろスルスル飲めるから不思議だ。自然と身体にエネルギーが戻ってくる気がする。


「なんか……ウイダーinゼリーみたい」


微妙な味だ。特別おいしくはないけど、乾きは満たせる。


「?何だそれは?」


 と、東城(一花)が聞いたこともない単語に眉を寄せる。


「栄養ゼリー。忙しい人が飲むやつ」


「……今はそれしかない。我慢しろ。それよりこの事態の解決策を考える」


「こんな時まで冷静だね東城……」


 ちゅーちゅーと血液パックを吸いながらも、すごく冷静で頼もしささえあるその女の子に半ば感動してしまう。なんかあたし、カッコよくない?


「いや、必死に怒りを抑えている」


と彼女が首を振った。手にはまだ包丁を持ったままだ。


「お前はどうやら瓶や壺を簡単に割る天賦の才を持っているようだな。まっったくいらない才能だが」


と皮肉を込めた冷たい視線が刺される。


「だって、あんな高いところにあるなんて思わなかったんだもん!っていうか、最初から東城が取りに来ればよかったでしょ?」


頬を膨らませながらも、彼の口の端には、たらりと赤い液体が垂れていた。それを見た少女は思わず顔を近づけて、すっと自分の指で自分の唇を拭う。


「え……」


一瞬距離が近くなり、青年は動きを止める。


「僕の身体でだらしないことをするな」


「そ、そんなこと言われても。っていうか東城って意外とプライド高いね?」


「刺すぞ」


「自分の身体が滅多刺しにされるのはいいけど、だらしないのはダメなんだ……」


 よくわからない東城スタンダードである。


「それにあれは洗剤じゃない、錬金剤だ」


 と、東城(一花)は床に転がったままの洗剤容器と割れた瓶を見て言う。


「は?」


「お前が赤い液体の瓶と混ぜて被ったからこんな不可解なことが起きた」


「何そのご都合主義!」


 とツッコミながらも、そういえばその液体を全身に被って被ってビショビショになっているのに気づく。少し血を吸ったからか、不思議とさっきまでの飢えは満たされている。しかし感覚が普段より鋭敏になっているせいで、濡れたシャツが気持ち悪くなっていた。


「ていうか着替えたいんだけど。なんならシャワー浴びた……」


 と、目の前の少女がピクリと身体を強張らせるので、思わず言葉を切る。その後すぐ、一花(東城)も気づいてしまった。


 今まで血への欲求で後回しになっていたが、ここに最大の危機・大いなる悲劇があることを。これは東城の身体だ。そして、今やあたしの身体は東城のもの。


「い、いやあああヤダヤダヤダ!!!」


「こっちの台詞だ!!!」

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