第32話 波乱の予感は突然で
「……なぜ、あなたは……、そうやって…………」
途切れ途切れにぼやきながら、彼は遠い目で天を仰いだ。彼のその反応にちくちくと罪悪感を抱きつつ、純蓮はそっと紅茶に口をつける。
ここは屋敷の庭の一角に位置するガゼボだ。日も落ち始めたその場所で、ふたりはティーセットを囲んでいた。
純蓮がアルマへ自身の殺害を依頼し、最終的に今は治彦への復讐を考えている、という一連の流れをかいつまみつつ説明を行うと、彼は唖然とし、最後には理解することを放棄したように表情を失ってしまった。
あれほどに取り乱した彼や、ここまでの無表情な彼を見たのは初めてのことだな、と純蓮はどこか他人事のように考える。
「えーと、とりあえずは……、理解していただけましたか?」
「……そうですね。理解し難いですし、到底受け入れられないような話ですが……。それでも、全て本当のことなのでしょう?」
それに殺し屋という特殊な事情があるのなら素性が分からなかったのも頷ける、と彼は納得したように言葉を放った。ただ、その様子にほっとした純蓮に向かって彼は鋭い視線を向ける。
「しかし、心情的に納得できるかはまた別の話です。……そこまで追い込まれていたというのに、どうしてお嬢様は……、私には一言も相談してくださらなかったのですか?」
彼の言葉は段々と勢いを失い、最後は小さく消え入るようなものになってしまう。まさかそんな選択肢があることも思いつかなかった、と言うわけにもいかず、純蓮はおもわず言葉を詰まらせる。
「え、えぇと……。それはですね……」
「……いいんです。きっと、私はそのような相談をできる相手としての信頼を築けていなかった、ということなのでしょうから」
「そ、そのようなことは――!」
影吉の言葉に純蓮は反論をしようとし、途中で言葉を止める。だって、目の前の彼は小さく笑みを浮かべていたのだ。
「それでもいいんですよ。だって、今のあなたはこうして私に全てを話すことを選んでくれたのでしょう? ……これから信頼を得られるように、私は努力していきます」
その表情は今までとは違い、どこか自信をも感じさせる。純蓮がその変貌に驚いていると、彼はそのまま言葉を続けた。
「ただし、あなたが『復讐』と称して罪を犯すことはさすがに看過できません。……一線を超えるようなことがあれば、私は絶対にあなたを止めますからね」
「そ、それはもしかして……!」
影吉の言葉に純蓮は瞳を輝かせる。その言葉はまるで、一線さえ超えないのであれば純蓮の計画に協力してくれる、と言っているようではないか。
「えぇ、ぜひ私にも協力させてください。お嬢様のことですから元々計画に組み込もうというつもりでこの話をしたのでしょうし……。それに、」
ぎくりとさせるような言葉を放ち、彼は純蓮にふっと微笑む。
「お目付け役は必要でしょう?」
「影吉……っ! ありがとうございます! きっと影吉がいれば百人力というものですわ!」
それは少し言い過ぎですよ、と話す影吉に向かい、純蓮はぴょんぴょんとその場で飛び跳ねるほどの喜びを示す。そのときだった。
「こんな場所にいたのか依月、と……おや、お嬢様もいらしたのですか?」
純蓮の背後から男性の声が響く。おもわずそちらへ振り返ればそこにはよく知った顔があった。
灰色のものが混じりはじめた黒髪は丁寧に撫でつけられており、大人の余裕を感じさせる。また、眼鏡の向こうで光る眼光は影吉同様に鋭いものの、どこか柔らかい。
そこに立っていたのは影吉依月の父であり、現執事長である
「……あなたが屋敷に顔を出すだなんて珍しいですね。何か……、御用でしょうか」
どこか警戒の色を見せながら、彼は純蓮の前へと立ち父に相対する。しかし、そんな彼の態度を気にする様子もなく敬吾は続けた。
「なんだ、久しぶりの親子の再会だというのにつれないな」
「毎回会う度に一、二ヶ月の間隔が空くというのに、一々感動の再会などしていられませんよ。……それで、何の用なんですか? 連絡するのではなく、わざわざ足を運んだということは何かしら理由があるんでしょう?」
冷たく言い放った依月の言葉に、敬吾はあぁ、と声を漏らす。
「いや、ここに顔を出したことに特別な理由はないよ。ただ、たまたま近くで用があったから伝言ついでに顔でも見ていこうかと思ってね」
「伝言……?」
訝しむような彼の様子も気にせずに、彼は依月の背後の純蓮へと視線を向けた。
「もう香坂には伝えたんだけれど……。お嬢様もここにいるなら、手間が省けたな」
「わたくし、ですの?」
きょとんとする純蓮にも伝わる声で、彼は告げる。
「明日、旦那様が屋敷に戻られる。ぜひ、明日の夕食は共にとらないか、とのことですよ」
「…………え?」
「では。用も済みましたので、私はこの辺で」
その伝言はまさに青天の霹靂で、純蓮は呆然と言葉を失う。ただ、彼はその言葉を告げるなり、さっさと庭を後にしてしまった。
「う、嘘でしょう……。あ、明日ですの!?」
純蓮の心からの叫びは、虚しくも夕空へと吸い込まれていく。そうして、一之瀬家の夜は更けていった。
◇◇◇
「…………陽乃」
暗くなり始めた社長室で、写真立ての表面をそっと指で優しくなぞる。深い悲しみに沈んだ紫紺の瞳が何を見ているのか、それを見届けるものはここにいない。
まぶたを閉じ、彼は俯く。そして、数秒の間の後で、彼は静かに顔を上げた。
「本当に…………、すまない」
彼の言葉は、誰もいない闇の中で霧散する。彼が後にした社長室には、ただひとつの写真立てだけが残されていた。
◇◇◇
「…………本当に、こういうことなのか?」
カウンターの裏に設置された隠し書庫で、彼は机の上に資料を並べ、一人つぶやく。その表情は厳しく、真剣な眼差しだった。
彼は自身のまとめたファイルを手に取り、口を開く。
「だとするなら……、
資料のひしめく隠し部屋で、揺らめく炎の赤色が、アルマの頬を染め上げていた。
◇◇◇
――こうして、それぞれの思惑を孕んだままに、たった七日間の純蓮の依頼は、最後の幕をあげたのだ。
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