第29話 腹が減ってはなんとやら

 ぎぃと重たい音をたてて、屋敷の玄関扉はその口をゆっくりと開いていく。そっと隙間から覗き込めば、そこに人影は見当たらなかった。


「……影吉はここにはいない、ようですわね」


 ほっと純蓮は息を吐く。事前に覚悟を決めていた、とはいえ帰って早々に影吉と相対するというのはなかなかに荷が重い話だ。


 音を立てないように屋敷の中へ滑り込むと、純蓮は後ろ手にぱたんと扉を閉める。さて、影吉はどこにいるのだろうか。

 

 そのとき、すんとあたたかな匂いが純蓮の鼻腔をくすぐった。よく煮込まれたミルクと香味野菜の香り。きっと厨房で料理長が今日の晩御飯の支度をしているのだろう。


「……料理長に聞けば、影吉がどこにいるのかわかるでしょうか」


 ぱたぱたと純蓮は厨房へ足を運ぶ。そこに居たのは純蓮の予想通り、料理長の香坂だった。

 もうじき五十代に差しかかるはずの彼は、一見しただけでは三十代に見えるほどに壮健だ。しかも一之瀬家の料理人だけでなく料理学校の講師もしているというのだから、彼の働きぶりにはまったく頭が上がらない。


「あれお嬢様、厨房まで来るなんてどうしたんです。小腹でも空きましたか?」


 珍しい、と彼は目を丸くする。そんな彼の言葉に首を横に振りながら、純蓮は尋ねる。


「いえ、そういうわけではなくて……。その、影吉がどこにいるのか知りませんか?」

「依月君? あー確かさっき……、三十分くらい前かな? ほうき持って中庭の方に歩いていったと思いますよ」


 香坂の言葉にふむと純蓮は頷く。三十分前に見かけたということは、彼がまだそこにいてもおかしくないだろう。


「中庭、ですわね。ありがとうございます、香坂さん」


 香坂に礼を伝え純蓮がくるりと振り返った瞬間、純蓮の背後から香坂は声をあげた。


「あ、ちょっと待った。お嬢様」

「はい? なんですの?」


 純蓮が彼へ振り向くと、彼はカチとコンロの火を落とし、純蓮の瞳をまっすぐに捉えた。


「……もしかしてなんですけど、依月君と何かありました?」

「ど、どうしてですの?」


 香坂の突然の言葉に、純蓮はおもわず狼狽する。そして、そんな純蓮の動揺を見ると、彼はやっぱりか、と笑った。


「依月君が中庭の掃除するときって大抵何かしらがあって無心になりたいときですからね。しかも、あの彼が動揺するのなんてお嬢様関連のことだけでしょ?」


 あの子は本当に昔っからお嬢様のことばっかり考えてるんだから、と苦笑して彼は言葉を続ける。


「本当、今日の彼ってば一日中うわの空でひどかったんですよ……。一体何があったんです?」

「それは……、その……」


 そう純蓮は口ごもる。そんな純蓮を見て、香坂はふっと笑みをこぼす。


「まぁ大方、依月君がお嬢様のこと怒らせたんだろう、ってのはわかりますけどね。あの子はお嬢様のこととなると……、なんというか少しばかり暴走しやすいですし」

「……えぇ、実はわたくし、少し……、影吉と喧嘩をしてしまったんですの」


 純蓮の言葉を聞くと、香坂は純蓮に背を向けて冷蔵庫を探り始める。


「はは、そりゃ珍しい。でも雨降って地固まるってことわざもあるくらいだし」


 大丈夫なんじゃないですか、と軽い口調で彼は告げた。ただ、純蓮と影吉の喧嘩はそんなに簡単なものでもない、という思いから純蓮は小さく不満をこぼす。

 

「……本当に、大丈夫でしょうか」


 そんな純蓮の弱音を聞くやいなや、彼はこう言った。


「ほらお嬢様、口開けてください」

「え、あ、はい!?」


 香坂の声に思わず口を開くと、彼はそんな純蓮の口に何かをぽいと放り込んだ。ぎょっとしつつもその柔らかい謎の物体を舌で転がすと、じんわりととろけるような甘さが口全体に広がっていく。


「これは……、キャラメル?」

「お、正解です。シチュー作るのに生クリームが余っちゃったんで、ついさっき作ったんですよ」


 まだあんまり固まってなかったかな、とひとりごちながら、彼は自分の口にもキャラメルを放り込む。


「腹が減ってはなんとやら、ってね。気分が落ち込んだときは甘いものって相場で決まってるでしょう?」

「そう……ですわね?」


 純蓮が納得いかぬといった様子で首を捻ると、彼は笑う。


「お嬢様。俺はね、あなた達がこんなに小さい頃からあなた達のことを見てきたんですよ」

「……香坂さん?」


 そして彼は笑いながら、ぽんと純蓮の頭を撫でた。


「だから、大丈夫ですよ。……ずっと見てきた俺が保証してるんです。きっと必ず仲直りできます」


 その手はごつごつと硬く、まるで彼が今まで積み上げてきた経験を体現しているかのようだった。根拠の無い、ただそれでいてどこか説得力のある彼の言葉に、純蓮はぐんと背を押されたような、そんな心地がした。


「……香坂さん、ありがとうございます」

「いえいえ、俺は別に何も。なんも知らんおじさんのテキトーな言葉だと思って流してくれてもいいんですよ」

「あはは、そんなことしませんわ」


 純蓮は笑い声をあげると厨房の外へと向かう。そして、くるりと振り返ると、ぐっと両手の拳を握ってみせる。


「それでは……、いってきます」

「はいよ、お嬢様。頑張ってきな」


 背後では純蓮を見送るように、香坂がひらひらと手を振っている。


 ――純蓮が向かうのは屋敷の中庭。もう、覚悟は決めた。今こそ彼と、向き合うときだ。


「わたくしは必ず……、わたくしの言葉で、影吉を説得してみせますわ」

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